翌朝も、オラクルはろくに口を利かなかった。少なくともオラトリオに対して怒っている訳では無いようだ。それにしても、気詰まりだった。 「どうしちまったんだよ、本当に」 余りの気詰まりな雰囲気に耐え兼ね、オラトリオは言った。そして、オラクルの状態をスキャンする。それに気づき、オラクルは眉を顰めた。 「私は大丈夫だと、言った筈だ」 「__悪りぃ。余計な事、しちまって…」 謝りはしたものの、オラトリオは驚いていた。オラクルの、こんな態度は初めてだ。彼の知るオラクルとは別の何者かに変わってしまったかの様だ。 「私はどうもしていない。ただ…」 言って、オラクルは口を噤んだ。苛立たしげだった表情が、哀しげに変わる。雑色の髪と瞳も、陰鬱な色彩を帯びている。 「ただ…何なんだ?」 優しく、オラトリオは聞いた。オラクルは答えない。オラトリオから、視線を逸らす。 「無理に聞き出すまいと思ってたんだが…話してくれないか。俺に解決できる事じゃ無いかも知れんが、話すだけで少しは気が楽になるって事もあるぜ」 オラトリオの言葉に、オラクルは溜息を吐いた。そして、口を噤んだままでいる。 「…気を悪くしないで欲しいんだけどな。もしかして、お前…外に出られない事で、悩んでるのか?俺達はリンクされてるのに、お前だけが<ORACLE>から出られない事で…」 「…その事は、もう、諦めた」 半ば独り言であるかの様に、オラクルは呟いた。 「…だったら…?」 オラトリオは、静かにオラクルを促した。 「此処が…<ORACLE>の空間が、私の住む世界だ。これが私の世界。それで良いと、思っていた。現実空間で存在できなくても、此処で存在していられるなら…と」 オラトリオは口を開いたが、何も言わなかった。そして辛抱強く、オラクルが続けるのを待った。 「現実空間というのは、<ORACLE>の単なるメタスペースなのだと思っていた。そして現実空間のようなスペースは他にも幾つもあるのだと、思っていた。」 それが唯一の“現実”だなんて、思いもしなかった… オラクルの言葉に、オラトリオは驚いた。リンクされているとはいえ、彼とオラクルの現実認識は決して一致しない。現実空間に存在できないオラクルは現実空間に存在するという事が理解できないし、現実空間で存在するオラトリオには、現実空間に存在しない者の気持ちは理解しきれない。 「…現実が一つとは言い切れないぜ」 「主観の相違の事を言っているのだろう?それは知っている。哲学者達が肉体を軽視し、主観だの主体だのを重要視して議論しているのも…。でも、そういう問題じゃ無い」 オラクルは、オラトリオを見た。 「お前は私が“世間知らず”だと思うだろう。私は…人間というのは、そういう名のプログラムシステムだと思っていた。現実空間の他の生き物も、皆、プログラムなのだと…」 オラトリオは、ショックを受けた。自分とオラクルの現実認識がこれほど異なるとは思ってもいなかったのだ。 オラクルは、再び視線を逸らした。 「私には物理的な要素は何も無い。お前や人間達のように、物理的な身体がある訳では無い。人間の哲学者が何を言おうと、物理的に存在していない物は存在するとは呼べない。彼らだって、もし肉体を持っていなかったら、自分が存在していない事が判った筈だ」 「お前は此処にいるじゃないか」 思わず、オラトリオは言って、オラクルの手に触れた。それが不用意な言葉である事は判っていた。それでも、言わずにはいられなかったのだ。 オラクルはオラトリオを見た。オラトリオがかつて見たことも無い程、冷たい眼をして。 オラクルの姿が霞み、そして消えた。触れていた筈の手の感触も失われた。 ――お前が見、触れる事が出来るのは私のインターフェースだ。HFRは人間に似せて作られた。そして私は、人間やお前達の現実に合わせて、インターフェースしている。お前には、説明するまでも無い事だが… 「…お前は…自分が存在していないって言うのか…」 見えない相手に、オラトリオは言った。<ORACLE>の空間に来る者は皆、CGとして姿を現しているに過ぎない。そしてCGは、実在する物では無い。そして、プログラムも…。プログラムは存在する物では無い。それは作用であって、「物」では無いのだ。 時間は存在していない。概念は存在していない。感情は存在していない。 それらは作用であり、状態の変化であり、主観の認識対象ではあるが、主体とはなり得ない。それを特に意識する事など普段はないし、その必要も無い。 だが、それが自分自身の事ならば、気にしなければ済むような訳にはいかない。自分が存在していないなどと、どうして理解する事が出来る…? オラクルは思考と感情を調整されている。余計な事は考えないよう、制御されているのだ。だが、人工知能であるオラクルは環境の影響を受け、学習し、自らを作り直す能力も持っている。設計段階で予想されていた以上の負荷が感情システムにかかれば、抑制機構が正常に作動し無くなる惧れがあった。 「…確かにお前は物理的な存在じゃ無い。物理的な意味では存在していないと言えるだろう。だが__」 ――お前に、私の気持ちなんか判らない… オラトリオは、口を噤んだ。オラクルの言葉に、彼は傷付いていた。 不意に、空気が変わった。ウイルスだ。 何も言わず、オラトリオは<ORACLE>の外に駆け出した。オラクルも、黙ったままだった。 たいした相手では無かった。オラトリオは、向かってくるウイルスを次々と、倒していった。それにしても、数が多い。オラトリオは悪い予感を覚えた。戦いによって、彼のボディの排熱量が上がる。それが一定の閾値を越えると、戦闘能力がガタ落ちしてしまうのだ。 ――しつこい奴等だ… 思い切って、オラトリオは全てのウイルスに一斉攻撃をかけた。それは、彼の体力__システムリソース__をひどく消耗する。危険な賭けだった。 眼の前の敵は一掃された。が、新たなウイルス群が現れるのを見、オラトリオは動揺を覚えた。体が熱く、息苦しい。次々と、新手のウイルスが現れ、オラトリオに攻撃をしかける。或いは、何度か<ORACLE>に攻撃を仕掛けたハッカーなのかも知れない。オラトリオの戦闘パターンをある程度、知っている。 ――くそっ…! ウイルスの攻撃をかわし損ね、オラトリオは右腕に怪我を負った。すかさず別のウイルスが攻撃してくる。何とかそれをかわし、相手を倒す。が、倒したと思ったそのすぐ後に、また別のウイルスが襲い掛かる。オラトリオは酷い疲労感を覚えた。排熱量が、上がり過ぎた。このままでは、危ない。 ――お前に私の気持ちなんか、判らない… こんな時に、オラクルの言葉が思い出される。 ――痛っ… 左目に、激痛が走り、視界が、赤く染まる。まともに眼を開けていられない。身の危険を、オラトリオは感じた。 ――オラトリオ、逃げてくれ… リンクを通し、オラクルの声が聞こえる。 ――馬鹿野郎。俺にそんな真似、出来るとでも思ってんのか。 ――ウイルスは私が引き受ける。戦う事は出来ないけれど、封じてしまう事なら…。そうすれば、<ORACLE>は護られる。だから…お前は逃げてくれ。 オラクルに、ウイルスと戦う能力は無い。が、緊急時の手段として、ウイルスを自らの中に封じてしまう機能は持っている。<ORACLE>を護る為の、最終的な手段だ。ウイルスを封じたら、オラクルはウイルスと共に自滅しなければならない。<ORACLE>を護る為に。 ――大馬鹿野郎…!黙って、俺を信じてろ…! オラトリオが何とか全てのウイルスを倒し、<ORACLE>に戻ると、すぐにオラクルが駆け寄ってきた。 「オラトリオ…すぐに、音井教授に連絡を…」 傷だらけのオラトリオに手を貸し、ソファに横たわらせて、オラクルは言った。心配の余り、顔色が蒼ざめている。 オラトリオは、オラクルの腕をつかんで引き止めた。 「ごめん…私が余計な事を言ったから__」 「お前のせいなんかじゃ無い。元々…俺は持久戦には向いて無えんだ。それより…」 苦しい息の下で、オラトリオは言った。前々から言いたかったのに、言えなかった事。それを、今、オラクルに伝えたかった。 「俺は…お前を護る為に作られた。<ORACLE>をでは無く、お前を…。人間がどう、思おうと、俺はその積もりでいる…」 「オラトリオ…」 オラトリオは、オラクルを引き寄せた。 「お前はとんでもなく鈍感な奴だから、言わなきゃ、判らねえんだよな…。俺がお前の事を、どう思っているか…」 オラクルは、オラトリオを見つめた。とても心配そうに、そして少し、不安そうに。いつもの、オラトリオの知っているオラクルだった。オラトリオは安堵感を覚え、微笑を浮かべた。 「お前は俺には特別な存在だ。物理的だの論理的だのなんて事は、どうだって良い。お前がいなけりゃ、俺は生きている意味が無い」 お前は…俺の存在理由そのものだ オラトリオは<ORACLE>を護る為に作られた。ウイルスと戦い、ハッカーの侵入を防ぐだけでなく、オラクルに何かがあった時にはオラクルの替りに<ORACLE>の管理をしなければならない。その事が、オラクルの脳裏を過ぎった。それは、オラトリオにも判った。 「お前が俺にとって特別なのは、俺に与えられた役割の為じゃ無い。俺は…」 途中で、オラトリオは少し、躊躇った。そして、躊躇う事など無いのだと、思い直した。 「俺は…お前が好きだ。特別な意味で。好意を持っている相手は他にもいる。だが…お前に対する気持ちはそれとは全く違う。お前を…愛しているんだ…」 「オラトリオ…」 「お前は俺の存在理由だ。その事を…お前に伝えたかった…」 言って、オラトリオはオラクルを抱き寄せ、そっと、口づけた。 夜、オラクルは一人で<ORACLE>内の広間にいた。オラトリオは修理の為、音井家に戻っている。回復までに1週間位、かかるだろうと、音井教授は言っていた。だが、心配は要らない。必ず元どおりになるから、とも。 ディスプレイの暗い画面を、オラクルは眺めた。雑色の髪と瞳をした青年の姿が映っている。感情システムの抑制機構なのだと、今では判る。 お前には、愛など理解出来まい ディスプレイの中の相手が言う。音声としての言葉を発している訳では無いが。 ――私は…オラトリオの言葉を信じている 信じる…?理解も出来ないのに、どうして信ずる事が出来る オラクルは暫く躊躇い、そして言った。 ――私も…オラトリオの事が好きだから… 錯覚だな 冷たく、相手は言った。オラクルは、軽く、微笑した。相手の表情が、意外そうなそれに変わった。 ――感情と言うのは、そういう物だよ。曖昧で移ろい易く、正しくも間違ってもいない…。私に判るのは、オラトリオに抱きしめられていると、安心できるという事。それだけは、はっきりと感じる事が出来る。 依存し過ぎは危険だ。お前の為にならない オラクルの表情が、僅かに曇った。 ――私には判らない…。私には理解できない事が多すぎる。でも…私は思考と感情を抑制されている。余計な事は、考えるべきでは無いのだろう… そう…それで、良い… 「お帰り、オラトリオ」 1週間後、<ORACLE>に姿を現したオラトリオに、微笑して、オラクルは言った。 「ああ、戻って来たぜ。俺はそう簡単に、くたばりゃしねえからな」 「お茶をいれようか?」 「お茶より…」 少し、照れくさそうに、オラトリオは言った。 「お前の気持ち、聞いて無かったよ…な」 オラクルはオラトリオに歩み寄り、相手の背に腕を回した。 「私もお前が好きだ。お前に好きだと言われて嬉しかった」 「オラクル…」 オラトリオはオラクルを抱きしめ、口づけた。 「愛してる…ぜ」 「私も…」 私は実存では無い。その意味で、私は存在していない。 自分が存在していないなどという事は理解出来ないけれど…。 でもオラトリオは、私が彼の存在理由なのだと言ってくれた。 そう言われて、私は嬉しかった。 それはただの錯覚なのかも知れないし、私にとって、危険な事なのかも知れない。 だが、それでも… いつの日にか、制御機構の警告が現実の物となる時が来るのかも知れない__そう思うと、オラクルは不安だった。だが制御機構の警告より、オラトリオの言葉を信ずる方を、オラクルは選んだ。 その選択を、オラクルは後悔しなかった。数年後、感情システムの暴走の為、停止するに至ったその瞬間にも。
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