現実空間というのは、一つの名前に過ぎないのだと思っていた。 私のいる世界__サイバースペース__には、無数のプログラムシステムが存在している。それぞれのシステムは独自に閉じた世界なので、私は他のシステムの事を余り良く知らない。それでも、それらが<ORACLE>の様な空間に、私と同じ様に存在している事は判っている。現実空間というのも、そういう名の一つのシステムスペースなのだと思っていた。 「やあ、オラトリオ。今日は」 <ORACLE>に姿を現したオラトリオに、いつもの様に、オラクルは言った。 「どーでも良いけど、今は夜だぜ」 「__え…?」 「だから、んなこたあ、どうでも良い。それより、お茶、いれてくれ。アイスで」 長身を投げ出すようにしてソファに座り、オラトリオは言った。 「…どうかしたのか?何だか、疲れてるみたいだ」 「暑くてだれてるだけた。ここは良いよな、涼しくて。夏も冬も関係ねえし」 ――夏も冬も関係ない… オラトリオの言葉を、オラクルは無言で反芻した。そして、キッチンへ向かう。 元々、<ORACLE>にキッチンなど無かった。研究施設のデータを管理するデータベースである<ORACLE>に、そんな物は必要ないからだ。ただ、訪問者が増えたので、彼らをもてなす為に用意したのだ。 数種類の紅茶、日本茶、中国茶。磁器や銀器のティーポットにカップ…。それらは皆、現実空間の模倣とやらだ。ヴァーチャルリアリティという名の。 「あー、冷たくてうめえ。お代わり!」 渡されたアイスティーを一気に飲み干し、オラトリオは言った。ストローが用意されていたのだが、使わなかった。オラクルは黙ったまま、ピッチャーに用意しておいた紅茶をオラトリオのグラスに注ぐ。自分のグラスには手をつけなかった。 「…どうかしたのか?」 2杯目を半分ほど、飲み干してから、オラトリオは聞いた。 「別に」 オラクルの答えは素っ気無かった。オラトリオは座り直し、考えた。何かオラクルを怒らせてしまうような事を言うか、するかしたかを。 せっかく用意してくれたストローに見向きもしなかった事か、疲れているのかと気遣ってくれたのに、軽く受け流した事か… 「今日も、此処に泊まるのか?」 オラトリオが口を開く前に、オラクルが聞いた。 「ああ、その積もりだ__泊まらせてくれるならな」 少し、我が物顔に振る舞い過ぎたかと反省しつつ、オラトリオは言った。オラクルを怒らせてしまうと、中々、厄介なのだ。 「何故?」 「__何故…って…」 予想もしていなかった問いに、オラトリオはたじろいだ。オラトリオは音井家に住んでいるが、最近では<ORACLE>に入り浸り、泊まって行く事が増えていた。 「お前はには住む家があるのに、何故、此処に来たがったりするんだ」 オラトリオをまっすぐに見つめ、オラクルは言った。どうやら、半端な答えでは納得しそうに無い。オラトリオは暫く前から<ORACLE>に来る事が多くなった。それには理由があるが、それをオラクルに話してはいない。今は、未だ。 「…俺はお前を護るのが役目だからな。側に居た方が良いだろ」 少し、躊躇った末、オラトリオは言った。 「<ORACLE>をだろ。私ではなく」 視線を逸らし、半ば独り言の様に、オラクルは言った。苛立たしげに、髪をかき上げる。オラトリオはグラスをテーブルに置いた。 「…何か、あったのか?」 静かに、オラトリオは聞いた。オラクルは結構、頑固なところもあるし、怒ったり拗ねたりもする。が、根がおっとりしているので、苛立たしげな様子は滅多に見せない。嫌、オラクルのそんな姿を見るのは初めてかも知れない。 「…別に」 言って、オラクルはアイスティーを一口だけ、含み、すぐに又グラスをテーブルに置いた。 「…疲れてるんじゃ、無いのか?」 「そう思うのだったら、もう少し、私の仕事を手伝ってくれ」 「…判った。どうせ明日は他に何もする事がねえし」 「それでは暇潰しで私を手伝うみたいじゃ無いか」 オラクルの言葉に、オラトリオは口を噤んだ。オラクルの表情は、彼が今まで見たことも無いほど、険しかった。が、それはすぐに和らいだ。 「__ごめん…せっかく、手伝うって言ってくれてるのに…」 「気にするこたあ、無いぜ」 オラクルの態度が和らいだので、ほっとして、オラトリオは明るく言った。オラクルも軽く、微笑んだ。いつものように、穏やかに。 その夜も、オラクルはなかなか寝付けなかった。システムの負荷を下げようとしているのに、そして外部からの負荷など何もかかっていない筈なのに、CPU使用率が高いままだ。まるで、何かのプログラムが暴走してしまっているかの様に。 プライヴェートルームを出、オラクルは暗い広間に戻った。オラトリオの部屋の扉を見やる。オラトリオはぐっすり眠っているのだろう。 何日も前から、オラクルは殆ど眠る事が出来なかった。 きっかけは、1冊の本だった。何十年も前のコンピュータ雑誌。その中で、サイバースペースとかヴァーチャルリアリティとかの言葉が説明されていた。電脳空間。仮想現実。実際には存在しないが、実在の世界を模倣し、コンピュータプログラムの世界でCGなどりより表現されたもの…。 ――私は人間に作られた。それは判っている。でも…人間というのはそういう名で分類される、プログラムシステムなのだと思っていた。私にプログラミングの能力があるように、彼らも私を作ったのだと… カウンターについて座り、オラクルはぼんやりと灯かりの消えたディスプレイを見つめた。現実空間との交信手段に用いるハードウエア。現実空間にも、それに対応する物がある。ハードウエアは物理的な存在だからだ。それは実体を持った存在__実存なのだ。 尤も、今、オラクルの目の前にあるディスプレイは、<ORACLE>の実際のハードウエアのイメージであって、実存では無い。<ORACLE>のハードウエアを管理するのはオラクルとは別のプログラム群であり、オラクルにはハードに直接、作用する機能はない。 ――オラトリオも人間に作られた。私と同じように。だが、オラトリオは現実空間に存在する事が出来る。ボディという実体を持っているから。そして、この<ORACLE>に、自由に出入りする事も出来る。彼も、一面ではコンピュータシステムだから。でも、私は… オラクルは頬杖をつき、軽く溜息を吐いた。 ――そんなの、不公平だ… 翌朝、目覚めたオラトリオが広間に行くと、オラクルは未だいなかった。 ――あいつにしては、珍しいよな。プログラムが寝過ごすだなんて… 暫くたってから、部屋の扉が静かに開き、オラクルが姿を現した。朝から疲れているような雰囲気だ。 「おはよう。勝手に始めてたぜ」 内心、不安に思いながら、敢えて明るく、オラトリオは言った。オラクルはシステム時間をチェックし、思っていたより遅い時間なので少し、驚いた。 「…ごめん、私の仕事なのに…」 「謝る事なんざ無い。それより__お前、かなり疲れてるんじゃ無いのか?どこか具合が悪いとか…」 優しく、オラトリオは言った。オラクルは、首を横に振った。 「定期的に検査は受けている。別に、異状は無い」 「それでも、今日は休んでて良いぜ。仕事は俺が全部、引き受けるから」 「そういう訳にはいかない。私の仕事だ」 言って、オラクルは書類の山に手を伸ばした。オラトリオの方を見もせず、仕事に取り掛かる。どう見ても、様子が変だ。オラトリオは心配だった。それが何なのかは判らないが、何かがあったのだ。 オラクルの事を心配に思いながら、オラトリオも仕事を続けた。何があったのか、心配ではあるが、無理に聞きだそうとすべきでは無いと思ったからだ。そんな事をしても、オラクルは話してくれないだろう。 オラトリオが手伝ったので、仕事は早い時間に片付いた。オラクルはお茶をいれた。だが、何も言わず、黙ったままだ。オラクルがオラトリオにそんな態度を取るのは初めてだった。どう対処して良いか、オラトリオは悩んだ。 「…TVでも、見ねえか?」 黙っているのが気詰まりなので、オラトリオは言った。 「見たくない。TVなんか…」 本も読みたくないし、現実空間のCGなんか、見たくも無い__ 「…オラク――」 「書庫の点検をして来る」 席を立ち、オラクルは言った。 「だったら、手伝うぜ」 「良いよ、もう。お前にはお前のやる事があるだろう。現実空間で」 素っ気無く、オラクルは言った。そのよそよそしさに、オラトリオは何も言えなかった。 私は<ORACLE>の空間から出られない。私は<ORACLE>の空間の中だけでの存在だ__そう、思っていた内は、まだ良かった。<ORACLE>の空間なぞという物は、何処にも存在していない。現実空間が存在しているというような意味では。 私は何処にも存在などしていない。私が存在するとしたら、それは<ORACLE>のハードディスクが、磁化されているかいないかだけの、記号の集まりでしか、無い。 嫌…それすらも、私に関するデータが存在するという事であって、私が存在する事を意味しない… その夜も、オラクルは寝付けなかった。暗い広間に戻り、意味も無く、ディスプレイを眺める。 暗い画面に、自分の姿が映っている。雑色の髪と、雑色の瞳。そして…。 ディスプレイに映る自分の顔を、オラクルは意外に思った。何の表情も無い。それどころか、ひどく冷たい眼をしている… 何を…考えている…? ――え…? オラクルは、恐怖を感じた。ディスプレイから眼を離したい。が、それは叶わなかった。 お前は余計な事を考えるべきでは無い…。実存であるのか無いのかなどと、お前には関係の無い事だ… ――お前は…誰だ…? そう、オラクルは聞いた。答えなど判っている。それでも、聞かずにはいられなかった。 お前には判る筈だ。私は…お前なのだから… オラクルは口を噤んだ。<ORACLE>が、口を利く筈など、無い。だが…もし、そんな事があったとしたら… 静かに、オラクルはオラトリオの部屋の扉を開けた。昼、現実空間に帰ったオラトリオは、夜になって又、<ORACLE>に戻ってきたのだった。 「どうした、ウイルスか?」 すぐに、オラトリオは言った。オラクルはやや、意外に思った。 「…寝ていたのでは、無いのか」 「嫌…何だか、寝付けなくてな」 オラクルの事が心配で、オラトリオは眠れなかったのだった。 「どうしたんだ?入って来いよ」 オラトリオが言うと、オラクルは部屋に入り、ベッドに腰を下ろした。オラクルが不安がっているのが、オラトリオには判った。だが、オラクルは何も言わない。どうにかしてやりたいのに、これではどうして良いか、判らない。 オラトリオは軽い苛立ちを覚えた。オラクルに対してでは無く、自分自身に。 「…邪魔して、ごめん。何でも無いんだ」 オラトリオの苛立ちを感じ取ったのか、言って、オラクルは立とうとした。その腕を軽く押さえて、オラトリオは引き止めた。 「此処にいろよ。不安なんだろ…?」 優しく、オラトリオは言った。オラクルが何を不安に思っているのかは、判らない。苛立ったり、オラトリオに素っ気無い態度を取ったりする理由も。リンクされていても、考えている事すべてが判るわけでは無いから。どうして良いか、判らなかったが、出来る事はしてやりたいと、オラトリオは思った。 少し、躊躇った末、オラクルはオラトリオの背に腕を回した。オラトリオは、オラクルをそっと、抱きしめた。不安が鎮まるのを、オラクルは感じた。オラトリオに抱きしめられていると、安心できる。何故なのかは判らないが。 |