(5)



「オラクル……!」
叫ぶように言って、オラトリオはベッドの上に跳ね起きた。
夢だったのだと気づき、深く息を吐く。
「__っそ…」
低く毒づき、額の汗を拭った。時計を見る。午前2時半。
のろのろとベッドから這い出、キッチンに入る。グラスを水で満たし、一息に飲み干した。
毎夜の様に見ている悪夢。
だが、その夜は違った。<ORACLE>に侵入したのは闇の形をしたキラー・プログラムではなく、クォータだった。口元に冷ややかな笑いを浮かべ、為す術も無く怯えるオラクルを追い詰め__陵辱した。

オラトリ…オ__オラトリオ……!

助けを呼ぶオラクルの声が耳の奥で木霊する。それなのに、何も出来ない。どうしてやる事も出来ず、最愛の者が汚され、傷つけられるのを、手を拱いて見ているだけ……
もう一度、オラトリオは深く息を吐いた。
そんな夢を見たのは、嫉妬のせいに違いない。<ORACLE>に侵入した時、クォータはデータだけが目的で、オラクルを傷つけたりはしなかった。何より今、二人は恋人同士なのだ。クォータを愛していると、オラクルの口からはっきり聞いたというのに。
あれから、3日が経った。街を出ようと思いながら決心がつかずにぐずぐずしている。そんな自分に、嫌悪を覚える。
オラトリオはバーボンをグラスに注いだ。ストレートのまま口に含むと、胃がむかついた。それでも、構わずに喉に流し込む。
今ごろ、オラクルはクォータの腕の中で眠っているかも知れない__そう思うと、嫉妬を感じずにはいられなかった。まるっきり不当な、気ちがいじみた感情だとは思いながら。
吐き気がするのも構わずに、ウイスキーを呷る。
幽かに、引っかかる。
あの時、オラクルは答えるのを躊躇った。
何故だ?
よく知りもしない相手からプライヴェートな事を聞かれれば、答えを躊躇うのは当然だろう。ましてや同性との関係ならば、尚更だ。周囲には隠しているとクォータも言っていた。
けれども……
クォータが何らかの方法でオラクルを脅し、関係を強いているという妄想を、オラトリオは弄んだ。横恋慕した男の愚かな悪あがきだと思いながら。
だが、クォータならその位の事はやりかねない。
もし、そうなら……
「…馬鹿げてるぜ」
低く、オラトリオは言った。一息に、グラスの残りを飲み干す。
そして、酔いが回るのを待った。




一人で美術館に来るのは久しぶりだと、オラクルは思った。いつもは大概クォータか、そうでなければ従姉妹たちが一緒だったから。
クォータとは、ここ数日、会っていなかった。仕事が忙しいと嘘をついて、誘いを断ったのだ。
考えてみれば、1週間以上も会っていない__そう思うと、急に会いたくなった。
携帯が鳴り、オラクルは慌てて展示ホールを出た。
クォータからだ。
その見透かされているかのようなタイミングの良さに、オラクルは苦笑した。
『この前頂いたイラスト、クライアントのチェックも無事、終りましたので、そのご報告をと思いまして』
「オラトリオと一緒にしたあれだね」
何気なくオラトリオの名前を口にし、オラクルはそれを後悔した。
『…そうですよ。オラトリオの文章の方もあのままで通りましたから、後は印刷に回すだけです』
クライアントの受けが良く、次にもオラクルのイラストとオラトリオの文章でという話もあるのだが、クォータはその事を口にしなかった。それを実現させる積もりも無い。
『他の仕事の方は?まだお忙しいですか?』
「…そうでも無いよ」
曖昧に、オラクルは答えた。
『でしたら……今夜、会えますか?』
控えめなクォータの言葉に、オラクルは軽く微笑った。それから、何時に来られるか訊ねる。時間の約束をしてから電話を切った。

お茶だけ飲んだら帰る積もりで、オラクルは美術館付属の喫茶店に入った。
「__オラトリオ…」
思いがけない相手の姿に、思わずオラクルはその名を呼んだ。オラトリオはオラクルに気づくと、軽く笑いかけた。煙草を消し、ノートPCを閉じる。僅かに躊躇ってから、オラクルはオラトリオの向かいに座った。
「…よくここに来るのか?」
「最近は毎日だ。土日は混むから別だが、静かで仕事場向きだな」
平日であるせいか、その日は喫茶店も美術館そのものも閑散としていた。
「仕事中なら__」
「良いんだ。もう、終った。それに……」
「…それに?」
オラクルは聞いた。が、オラトリオは答えなかった。その思わせぶりな態度が、オラクルを幽かに苛立たせた。
「それに何なんだ?私に会った事がある振りをしたり、クォータの事で何か知っているみたいな言い方をしたり__一体、どういう積もりなんだ?」
注文をとる為に、ウエイトレスが歩み寄り、オラクルはダージリンを頼んだ。
ウエイトレスの姿が見えなくなってから、オラトリオは口を開いた。
「お前を煩わせる積もりは無いぜ」
「だったら思わせぶりな言い方をするのは止めてくれないか。気になって仕方が無い」
言ってしまってから、オラクルは後悔した。
最近、クォータを遠避けていたのはオラトリオの事が気になるから__それを改めて自覚し、我ながら驚く。
「…済まねえ」
オラクルの言葉じりを捉えるでも無く、オラトリオは言った。それ以上は何も言わず、ただ、まっすぐにオラクルを見つめる。
オラクルは眼を逸らした。それでも、オラトリオの視線を感じる。
オラトリオの思わせぶりな態度。謎めいた言葉__それが気になるのは確かだ。けれども、それだけでは無い。オラトリオの存在そのものが、ひどく気になるのだ。
何故なのか、理由は判らないが。

その後、二人は殆ど口をきかなかった。オラクルは紅茶を飲み終えると、すぐに席を立った。オラトリオも店を出た。
外は、雨が降り出していた。
「…傘、持って来なかったのか?」
困ったように眉を曇らせたオラクルに、オラトリオは聞いた。オラクルは頷いた。
「だったらこれ、貸すぜ。俺は別に濡れたって構わねえ」
「…そんな訳には行かないよ」
「お前は身体が弱いんだ。雨になんぞ濡れない方が良い」
それはオラトリオの言う通りだ。大学1年の時、半年も入院する羽目になったのも、風邪をこじらせたのが原因だった。
「お前の家まで送ってくぜ。それなら二人とも濡れずに済むだろ?」
断る理由が見付からず、オラクルは頷いた。

オラクルのマンションに着くまで、二人はずっと黙っていた。オラトリオは何度もオラクルに話し掛けようと思い、その度に思いとどまった。
「…有り難う」
マンションの前まで来ると、オラクルは言った。そして、オラトリオの左肩や左腕が酷く濡れているのに気付いた。折畳式の小さい傘で、二人とも濡れずにいるのは無理だった。
「…じゃあ、俺はこれで__」
「そのままじゃ、風邪をひくよ」
お前の家、ここから遠いんだろう?__それだけ言って踵を返したオラクルに従い、オラトリオは建物に入った。
部屋に戻ると、オラクルはタオルをオラトリオに渡し、紅茶をいれた。
「お前に貰ったお茶だけど__すごく美味しいよ」
幽かに微笑して、オラクルはティーカップを差し出した。それを受け取りながら、オラトリオは前世(むかし)を思い出していた。

お帰り、オラトリオ。
お茶をいれようか?


優しい言葉と美しい微笑みで、オラクルはいつも出迎えてくれた。その微笑を見る度に、オラトリオは気持ちが癒され、安らぎ、寛げるのを感じたものだった。

沈黙の重苦しさに耐えられず、オラクルはその日、美術館で見た絵の話をした。そして、その内のどれもオラトリオが見ていない事を知ってやや驚いた。
「毎日、通ってるんじゃなかったのか?」
「喫茶店の方に…な。展示ホールには行ってない」
「絵に興味があるんじゃなかったのか?」
オラクルの問いに、オラトリオはすぐには答えなかった。
「__あそこにいれば、お前に会えるんじゃねえかと思ってた。それだけだ」
「……どうして?」
オラクルの問いは曖昧だった。どうしてあの場所で会えると思ったのかとも、どうして会いたいと思ったのかとも取れる。
オラトリオは迷った。
前世を思い出させてオラクルを苦しめたくは無い。けれども、焦点をぼかした物の言い方が、却ってオラクルを不安がらせてしまっているのも事実だ。
それに、オラクルは知りたがっている。こうしてオラトリオを部屋に入れ、二人きりになる機会を作ったのはその為ではないのか…?

「ずっと…夢でお前を見ていた」
「__夢…?」
「ああ。お前が俺に会った覚えが無くて当然だ。俺がお前を見ていただけだったんだからな」
まっすぐにオラクルを見つめたまま、オラトリオは言った。
「…それが口説き文句なら、突拍子がなさ過ぎるよ」
言ってしまってから、オラクルは後悔した。これではまるで、自分から誘っているみたいだ。
眼を伏せ、幽かに頬を赤らめたオラクルの姿を、オラトリオはじっと見つめた。衝動を抑え切れず、白い指先に軽く触れる。オラクルは驚いたように相手を見、手を引っ込めた。
「クォータの事で…私の知らない何か知っているのか?」
再び視線を逸らし、オラクルは言った。オラトリオの『夢』の話など、信じる気にはなれない。クォータの正体がどうのと言っていたのも、単に”恋敵”に対する牽制なのかもしれない。
「…それは本人に聞くんだな」
オラトリオが言うと、オラクルは恨めしそうに相手を見た。
「俺はただ…余計な事を話して、お前を傷つけたくないだけだ」
「どういう事なんだ?そんな言い方をされたら、却って気になるだろう」
オラクルの言葉にオラトリオは迷った。
迷った挙げ句、話し始めた。

人間形態ロボット。統御プログラム__
オラクルは、信じられないといった表情でオラトリオを見つめた。当然の反応だと、オラトリオは思った。自分の前世がプログラムだったなどと言われて、信じる者などいないだろう。
「……お前はSF作家でもやっていけるんじゃ無いか?__独創性があるとは言わないけど」
オラクルの冷たい反応も、意外では無かった。かつてオラクルからロボットの前世の話を聞かされた時、オラトリオ自身、それを少しも信じなかったのだから。
オラクルは、話を聞き出した事を後悔しはじめていた。オラトリオは酷く真剣で、ふざけているようには見えない。
だとしたら__
「お前は、俺の頭がおかしいと思ってるんだろうな」
幽かに苦笑して、オラトリオは言った。無性に、煙草が吸いたい。
オラクルは、否定も肯定もしなかった。
「…それでクォータはどう拘わって来るんだ?どうして、私が傷つく事になると?」
「クォータもロボットだった__俺のコピーだ。俺は…お前の守護者だった」
「…守護者?」
「そうだ。だが__俺は…お前を護りきれなかった。お前を……見殺しにして…逃げた」
やっとの思いで、オラトリオは言った。喉を絞められているように息苦しく、吐き気がする。
だがその告白も、オラクルにはたわ言にしか聞こえなかった。
「…その事で私に赦して欲しいのなら、心配しなくて良いよ。私は怨んでなんかいないから」
冷たく、オラクルは言った。これ以上、オラトリオと話す気も無かった。
「信じて…いねえんだな」
「私が信じようが信じまいが、何も変わりはしないだろう」

過去は、変えられない。
オラクルを見殺しにした事。
オラクルを信じなかった事。
オラクルを自殺に追い込んだ事__
どれほど後悔し、自らを責めても、過ぎてしまった過去は変えられない。
だが、だからこそ、今度こそオラクルを幸せにしたかった。
酷く、身勝手な想いではあるけれど。

部屋を、沈黙が支配した。
オラクルは、オラトリオを部屋に入れた事を後悔していた。何故そんな軽はずみな事をしてしまったのか、自分でも判らない。
「__帰るぜ…」
だからオラトリオがそう言って席を立った時は、正直、ほっとした。オラトリオが出た後、玄関の鍵を閉める為に、ドアの近くまで一緒に行った。
不意に、オラトリオが振り向いた。自分のすぐ後ろにオラクルがいるなどと、オラトリオは、思っていなかった。
息がかかる程、近くにオラクルの驚いた顔を見た時、オラトリオは衝動を抑えられなくなった。
「__!」
衝動に駆られるまま、オラトリオはオラクルに口づけた。逃れようとする相手を壁に押し付ける。
「……んっ……」
オラクルのくぐもった声に、オラトリオは気持ちがかき立てられるのを覚えた。

チャイムが鳴り、続けてドアが開いたのはその時だった。
「__オラトリオ…!」
低く言うのと殆ど同時に、クォータはオラトリオをオラクルから引き離し、頬を打った。体格も腕力もオラトリオの方が勝っているが、オラトリオに抵抗する気は無かった。そのオラトリオの襟首を、クォータは荒々しく掴んだ。
「クォータ……止めて……」
「何故、こんな裏切り者を庇うのです?あんな酷い目に遭わされたというのに」
感情に任せ、クォータは言った。オラクルは酷く動揺していた。いつも冷静で優しいクォータが人に暴力を振るうなんて、信じられなかった。
「…てめえみたいな侵入者に言われたかねえぜ」
クォータの手を振り払い、オラトリオは言った。
クォータに殴られた__それもオラクルの目の前で__せいで、オラトリオも冷静ではいられなかった。
「……侵入者……?」
オラクルの身体が、ぴくりと震えた。
透ける様に白い肌が、たちまち蒼ざめる。オラクルは寒さに耐えようとする者の様に、自分の華奢な身体を抱いた__かつて、侵入者の恐怖に晒された時の様に。
そして、そのまま意識を失った。




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