(3)



「オラクルに付きまとうのは止めて下さい」
その日、オラトリオを喫茶店__3人で打ち合わせをした時のとは別の__に呼び出したクォータは、オラトリオが現れるなり、そう言った。
「…何の話だ」
オラクルを食事に誘い出した事を言っているのだろうとは思いながら、何故それをクォータが知っているのか、オラトリオは訝しんだ。
「言葉の通りですよ。オラクルを強引に誘い出したり、訳の判らない話で悩ませるのは止めて下さい」
クォータの口調は平淡だったが、ブルーグレーの瞳には冷ややかな怒りの色が浮かんでいる。
オラトリオは煙草に火を点け、紫煙を吐いた。
矢張り、オラクルがクォータに話したのだろう。
だが、何故?
「…プライヴェートな事だ。お前には関係ねえだろ」
「ありますよ」
クォータの口元が、嘲るように歪む。
「私とオラクルは、恋人同士なのですから」
オラトリオは、すぐには口がきけなかった。
「……何__」
「勿論、周囲には隠していますが。もう何年も付き合っています」
勝ち誇ったように、クォータは言った。冷笑を浮かべたその顔を、オラトリオは喰い入るように見つめた。
「……信じねえぜ、そんなたわ言」
「たわ言?」
不愉快そうに眉を顰め、クォータは言った。
「その通りだ。選りによって、てめえみてえな__」
言いかけて、オラトリオは口を噤んだ。

侵入者。
かつて<ORACLE>に侵入し、オラクルを脅してデータを盗んだ男__
そんな相手がオラクルの恋人だなんて、信じられなかった。嫌、それ以上に赦せない。
リンクを切られ、制御権を奪われ、岩牢に閉じ込められて、データが持ち去られるのを為す術もなく見送らなければならなかった。あの時の屈辱は、今でもはっきりと思い出せる。
そして、屈辱を味あわされたのはオラクルも同じだ。

「…どうやってオラクルを誑し込んだか知らねえが、オラクルはてめえの正体を知らねえだけだ」
クォータは、黙ったまま自分のグラスをミネラル・ウォーターで満たした。それを3分の1ほど飲み干し、改めてオラトリオを見た。
「要するに…私がかつて<ORACLE>に侵入した事を咎めたい訳ですね」
「__お前…は__」
「ええ。あの頃の事は覚えていますよ、<A−O>ORATORIO」
<A−Q>QUANTUMと名乗っていた頃と少しも変らぬ口調で、クォータは言った。

アドレナリンが全身を駆け巡るのを、オラトリオは感じた。
オラクルが侵入者に恐怖を感じるように、オラトリオは憎悪と敵意を感じる。それは、一つには<ORACLE>の守護者としての闘争本能にも似た感覚であり、もう一つには最愛の者を脅かす脅威に対する憤りだ。
今、オラトリオは、目の前に排除すべき敵を見ていた。
「てめえみてえな犯罪者が、よくもぬけぬけとオラクルの恋人だなどと言えたもんだな」
「それはこちらの台詞ですよ」
軽く指を添え、クォータは眼鏡の位地を直した。
「オラクルを見殺しにして自分一人、逃げたあなたが、よくもぬけぬけとオラクルに近づけるものですね」

どうして……逃げた…?

「__っ…」
オラトリオの唇から、声にならないうめきが漏れた。

私はお前の名を呼んで……無駄を承知で呼び続けて…

血の匂いが鮮烈に蘇り、オラトリオは吐き気を覚えた。喉を絞め上げられているように息苦しく、声が出ない。

嘘吐き……

絶望に打ちひしがれた暗い瞳が脳裏に蘇る。
オラトリオは拳を握り締め、何とか震えを抑えた。
「信じていた守護者に裏切られて、オラクルがどれほど辛い想いをしたと思うのです?どれほど怯え、どれほど苦しんだか、あなたに判りますか」

オラトリオ、どうして……?

繰り返し見た夢の中で、オラクルは繰り返し、問うていた。

どうして逃げた?
どうして答えてくれない?
どうして……


「あんな辛い前世を思い出させて、オラクルをまた苦しめたいのですか」
「違う…!俺はただ、オラクルを__」
「身勝手過ぎますよ、あなたは。傍で見ていても吐き気がする位に」

私は…お前の重荷だったから…

「俺…は、ただ……」
誤解を解きたかった。
オラクルは、オラトリオを憎まなかった。見殺しにされ、欺かれたのだから憎んでも不思議は無かったのに、憎みはしなかった。それどころか自分を重荷だと言い、オラトリオに負担をかけた事を詫びすらした。自責の念に耐えられず、記憶を消去されたオラトリオの代わりに、全ての痛みを一身に負って。
その痛みを、今度こそ逃げずに負いたかった。負わなければならないと思った。
オラクルを全ての苦しみから解き放ち、呪われた輪廻を断ち切りたかった。
「オラクルの為にあなたに出来る事は一つだけです」
判決でも読み下すかのように、クォータは言った。
「オラクルの前から姿を消す事__それも永遠に」



『オラトリオ……?』
インターホン越しでも、オラクルが困惑しているのは判った。自分がしようとしている事は気ちがいじみているのかも知れない__そう、オラトリオは思った。それでも、何もせずにはいられなかった。
「どうしても話したい事がある。手間は取らせねえ」
オラクルとクォータが恋人同士だというのが、どうしても信じられなかった。クォータの言葉など信用できない。だから、オラクルに聞いて確かめたかった。
『……外で話そう』
このままオラトリオを追い返す気にはなれず、かと言って部屋に入れる訳にも行かない__オラクルは軽く溜め息を吐いた。

オラクルとオラトリオは、近所の喫茶店に入った。クォータと3人で打ち合わせをした場所だ。オラトリオに取って、あの日は運命の日だった。
「クォータと恋人同士だってのは本当なのか?」
何の前置きも無く、オラトリオは聞いた。オラクルは不愉快そうに眉を顰めた。
「…どうしてそんな事に答えなければならない?」
「あんな野郎がお前の恋人だなんて信じられねえからだ」
「クォータのことをそんな風に呼ぶのは止めてくれ」
オラクルの言葉に、オラトリオは胸を突き刺されるような痛みを覚えた。

オラクルは何も覚えていないのだ。
クォータがかつての侵入者だったなどと、夢にも思わない__
頭では判っていても、感情がついていかなかった。

「どうして…選りによってあの男なんだ?」
オラトリオの言葉に、オラクルは困ったように相手を見た。
オラクルが困惑するのは当然だ。オラクルを困らせたくは無い。
オラクルを探し続けていたのは、ただオラクルを幸せにしたかったから。オラクルに愛するひとがいて幸せであるなら、自分の出る幕ではない。
それでも__皮肉すぎる。
それが選りによってかつての侵入者、自分のコピーだとは。
「……お前はクォータが嫌いなんだな」
「お前だって、あの野郎の正体を知れば__」
途中で、オラトリオは口を噤んだ。

あんな辛い前世を思い出させて、オラクルをまた苦しめたいのですか

そんな積りなど無い。
もう二度と、オラクルを哀しませまいと誓ったのだ。
不審そうに、オラクルはオラトリオを見た。クォータの『正体』__その言葉が、酷く気になる。けれども、自分からそれをオラトリオに聞き糾す気にはなれなかった。オラトリオもそれ以上は何も言わず、食い入るようなまなざしで、こちらを見ている。
オラクルは、息苦しさを覚えた。
「……愛しているのか、クォータを」
「お前には関係ないだろう。どうしてそんな__」
「答えてくれ。本当に、あの男を愛しているのか?」
「……愛しているよ」
視線を逸らし、オラクルは言った。心臓を締め付けられるように、オラトリオは感じた。
「……幸せ…か?」
「幸せだよ__もう良いだろう?」
苛立たしげに言って、オラクルは席を立った。見上げるオラトリオの瞳には、酷く傷ついた色があった。



少し躊躇い、結局、留守電にメッセージを残さずに、クォータは電話を切った。オラクルは部屋にいないようだ。いつもなら、この時間は家で仕事をしている筈だが。
クォータは、今朝、会った時のオラトリオを思い出した。
少し、追い詰めすぎたかも知れない。
時計を見、軽く溜め息を吐く。あと5分で会議に出なければならない。こういう時、会社勤めは自由がきかない。もしかしたら今この時に、オラトリオがオラクルに会いに行っているかも知れないのに。
厭な予感に、クォータは落着かない気分になった。
傷ついた獣のような、紫の瞳を思い出す。
会議が終わったらもう一度、オラクルに電話をしよう__そう思いながら、クォータは会議資料をまとめた。




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