(2)



その日の打ち合わせに、遅れて来たのはオラトリオだった。
「遅くなって済まん__これ」
クォータを無視するように、まっすぐにオラクルを見て、オラトリオは言った。そして、薔薇の花束を差し出す。
「これ…は?」
「この前のお詫びだ。人違いして、困らせちまったからな」
驚いて何度も瞬いているオラクルに、軽く笑ってオラトリオは言った。
「そんな事でわざわざ……。でも嬉しいよ。ありがとう」
「棘に気をつけて下さいね」
資料に目を通しながら、クォータは言った。オラクルはクォータを見、困惑したように眉を顰めた。
「5分以上、遅れる時には連絡して下さい」
オラクルが何かを言いたげに口を開いた。が、それを遮るようにして、クォータは言った。
答える代わりに、オラトリオは時計を見た。遅れたのは、ジャスト5分だ。
「いつぞやは10分以上って言ってたな。3分、遅れた時にゃ、3分以上になるのか?」
「遅れて来た癖に何ですか、その言い草は」
「クォータ…」
見兼ねたオラクルの言葉に、二人は口を噤んだ。険悪な雰囲気に、オラクルは困惑している。
「打ち合わせ、始めようぜ。これ以上、時間を無駄にはしたくねえからな」
明るく笑って、オラトリオは言った。クォータは感情を抑え、資料の説明を始めた。


「この近所に住んでるのか?」
打ち合わせが終わり、編集部のあるオフィスビルを出ると、オラトリオは聞いた。
「ここからはバスで20分位かな。この前、打ち合わせに使った喫茶店の近くだよ」
「一人暮らしか?」
「そうだけど…」
「今度、一緒に飯でも食わねえか?」
思いがけない誘いに、オラクルは驚いて瞬いた。
その表情は以前のままだと、オラトリオは思った。人間の前世でも、プログラムの前世でも、オラクルの無垢さと、それ故に感じられる幼さは変わらなかった。
今も、変わってはいない。
「……他にも幾つか抱えてる仕事があるし__」
「どっちみち、飯は食わなきゃなんねえだろ?手間は取らせねえぜ」
この前の喫茶店の近くで良い店を知っているからと、オラトリオは続けた。
「……お昼なら…」
「決まりだな。じゃ、明日、12時に迎えに行くぜ」
「明日って、そんな急に__」
「飯、食いに行くだけで、準備も心構えもいらねえだろ。家は何処なんだ?」


マンションに戻ると、オラクルはオラトリオに貰った薔薇を花瓶に活けた。花弁の鮮やかな紅が、葉の深い碧に映えて美しい。
それにしても強引な男だと、オラクルは思った。こちらが断る理由を考えつく前に決めてしまったのだから。
それでも、最初に会った時よりはずっと感じが良かった。この間の時は、いきなり訳の判らない事を言ったかと思うと、後はずっと怖い顔をして殆ど口もきかなかったのだ。
驚いたのは、クォータの態度の方だった。
クォータとは高校が一緒だったから、もう10年も前から知っている。いつも礼儀正しくて、優しい。
そのクォータが、花を貰った程度の事で不機嫌な態度を取るなんて、意外だった。打ち合わせの途中でも、クォータはオラトリオに何度も嫌味を言っていた。オラトリオは気にしていない様子だったが、クォータがそんな事を言うなどと思っていなかったオラクルは、軽いショックを受けた。

オラトリオと食事の約束をした事を、クォータが知ったら…?

憂鬱に思いながら、オラクルはパソコンデスクに向かった。その時、電話が鳴る。
『さっきは済みませんでしたね、オラクル』
いつもと変わらない恋人の優しい口調に、オラクルは少し、肩の力が抜けるように感じた。
「私は別に構わないけど…オラトリオにあんな嫌味を言わなくても…」
『反省していますよ。大人気なかったですね』
今は仕事中で長くは話せないが、ひとこと謝っておきたくて電話したのだと、クォータは言った。その細やかな心遣いに、オラクルは幽かに微笑した。
『近いうちに、また泊まりに行っても良いですか?木曜にでも?』
クォータの言葉に、オラクルは前夜の情事を思い出した。白い頬が、幽かに赤らむ。
「ん…多分、大丈夫だと思う」
『後でまた電話しますよ__愛しています』
「私も…」
電話を切ると、オラクルはオラトリオとの食事はキャンセルしようと思った。そして、オラトリオの連絡先を聞いていなかった事に気づいた。
無論、クォータなら知っているだろう。だがオラトリオの電話番号を、クォータに聞く訳には行かない。
オラクルは、軽く溜め息を吐いた。


オラクルと別れると、オラトリオはその足で紅茶専門店に向かった。オラクルと組む仕事の他に締め切りの迫った仕事があるのだから、本来ならのんびり買い物などしている時間は無かった。
だが、構いはしなかった。仕事は徹夜でもして仕上げれば良い。
花束を受け取った時の、オラクルの嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。前世(むかし)から、オラクルは綺麗なものが好きだった。紅茶が好きなのも、多分、変わっていない。
オラクルに初めて贈ったのも薔薇の花束だった__無論、CGのだが。その時の事を、オラトリオは懐かしく思い出した。あの頃はまだ、オラクルに対する気持ちが恋だとは気づいていなかった。オラクルの方は、『恋』という感情自体、理解していない様だった。

お帰り、オラトリオ

脳裏に蘇るのは、オラクルの優しい微笑み。疲れも苛立ちも、不安すらも忘れさせてくれた。

お帰り、私の守護者……

突然、視界が赤く染まった。
のどがひりひりする程、強烈な鮮血の臭いと、生温かくぬるぬるした感触が蘇る。

オラクル、オラクル、オラクル……!

崩れるようにして倒れたオラクルの身体を抱きしめ、必死で名を呼んだ。だが、何をしても無駄なのは明らかだった。オラクルの喉は無残にも深く掻き切られ、熱い血がどくどくと流れる。
ラヴェンダーが呼んだ救急車が到着した時、オラクルの身体は冷たくなり始めていた。
そのまま、オラクルは、二度と目を開く事は無く……

「__お客様…?」
怪訝そうな店員の言葉で、オラトリオは現実に引き戻された。冷や汗がこめかみを伝って流れ、吐き気がする。思わず反射的に手を見、血がついていない事を確かめた。
「…大丈夫ですか?」
「__ああ…済まねえ。何でも無い」
無理に笑顔を見せて、オラトリオはオラクルの為に選んだ紅茶のセットを受け取った。




その店は、雑居ビルの中にあった__こんな所にレストランがあるとは思えない様な。
「地元の人間しか知らない、穴場中の穴場なんだ」
やや不安そうなオラクルの表情を見て取って、オラトリオは言った。エレベーターを降りると、すぐにガラスの扉がある。
扉の中は、陰気なビルとは別世界だった。
こじんまりとしたその店は、アンティーク家具で趣味よく設えられていた。マホガニーのテーブルはサーモンオレンジのクロスと純白のトップクロスで覆われ、季節の花が一輪挿しに飾られている。テーブルは、オラトリオが予約した窓際の一つを除いて全て埋まっていた。
「…良い店だね」
「お前なら気に入るだろうと思った」
軽く笑って、オラトリオは言った。オラクルは逆に、幽かに眉を顰めた。
「どうして…そう思うんだ?さっきも、私が紅茶を好きなことを知っているみたいな口ぶりだった」
オラクルをマンションに迎えに行った時に、オラトリオは前の日に買った紅茶を渡していた。
「何となくだ。別に理由なんぞねえさ」
オラトリオの言葉に、オラクルはそれ以上、詮索しようとはしなかった。

二人はランチコースを注文した。料理は品の良い器に美しく盛り付けられ、見た目も味も申し分なかった。
この店を知ったのは、取材の為に訪れたのがきっかけだったが、結局、記事にはならなかったのだと、オラトリオは説明した。
「どうして?」
「ここのオーナーシェフは商売っ気が無えんだ。宣伝だの広告の類も一切しない。変わり者だな」
オラトリオの言葉に、オラクルは軽く微笑った。
食事の間、オラトリオは当り障りの無い話題で間を持たせた。余計なことを言ってオラクルに警戒心を持たせたくは無い。逸る気持ちを、オラトリオは何とか抑えた。

ゆったりした雰囲気と料理のせいか、オラクルは大分、舌が滑らかになっていた。
「クォータとの付き合いは長いのか?」
食後のコーヒーが運ばれて来た時、オラトリオは聞いた。
「__えっ…?」
「あそこの雑誌には、前から描いてるのか?」
オラトリオは煙草のパッケージを取り出し、思い直してそのまましまった。
「吸っても構わないよ__私に遠慮しているならだけど」
「気管支が弱いんだろ?クォータに聞いたぜ」
オラクルは苦笑し、軽く肩を竦めた。
「クォータはいつも大げさに言うんだ__あそこの仕事は今年になってからだよ。クォータは前から知ってるけど」
高校が一緒だったからと、オラクルは説明した。
「この街にはいつ引っ越したんだ?」
オラトリオの質問に、オラクルはすぐには答えなかった。
「__どうして…私が引っ越したばかりだって知ってるんだ?」
「…お前を今までにこの街で見かけた事が無かったから」
僅かに躊躇って、オラトリオは言った。不審そうに、オラクルはオラトリオを見た。
「こんな広い街で?本当に見かけた事が無いかどうかなんて、判る筈ないだろう」
「判るさ__俺はずっとお前を探し続けていたから」
まっすぐにオラクルを見つめ、オラトリオは言った。

二人の間に、沈黙が降りた。
「……人違いだろう、前にも言ったけど」
やがて、オラクルは言った。
「私はお前に会った覚えは無いよ」
「覚えてねえだけさ__ガキの頃の話だから」
「子供の頃?」
鸚鵡返しに、オラクルは聞き返した。オラトリオは頷いた。
「もう一度お前に会いたいと、ずっと願ってた。ずっと、お前を探していた」
「……子供の頃に会っただけなのに?」
不安そうに、オラクルは言った。よく知りもしない相手からこんな事を言われれば、不安に思って当然だ。
「__なんて、な」
口調を変え、オラトリオは軽く笑った。オラクルは驚いたように相手を見た。
「__冗談…なのか?」
「さあな。お前の信じたい事を信じれば良い」




「オラトリオって、どういう人なんだ?」
その晩、泊まりに来たクォータに、オラクルは聞いた。
「フリーライターですよ__そういう事を聞いているのでは無いでしょうけど」
オラクルは、どう説明すべきか迷った。が結局、オラトリオに食事に誘われたこと、その時、オラトリオの言っていたことを正直に話した。
「私のことをよく知ってるみたいで……何だか気味が悪くて」
「…本当に、会った覚えは無いのですね?」
「覚えは無いよ__会った事はあるのかも知れないけど」
クォータはオラクルの身体に腕を回し、軽く抱きしめた。
「きっと、あなたの気を惹こうとして口から出任せを並べているんでしょう__酷く芝居がかったやり方ですが」
「そういう目で見られてるとしたら、厭だな」
幾分か不機嫌そうに、オラクルは言った。同性に想われても、嬉しくなど無い。不愉快なだけだ。高校の卒業式の日にクォータに告白された時も、心外だった。
今でも、クォータとの関係は周囲に隠している。確かにクォータは魅力的でとても優しくて、こうして一緒にいる時は幸せに感じる。クォータを裏切る気にはなれない。けれども、同性との恋が不自然に感じられるのも事実だ。
「一緒に食事をした位の事でとやかく言いたくはありませんが…」
少し躊躇ってから、クォータは言った。
「あの男には、もう会わないほうが良いでしょう__あなたの為にならない」
「__判ってる…」
クォータの唇が首筋に軽く触れるのを感じながら、オラクルは言った。




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