(1)
物心ついた頃から、その夢__そのひと__を見続けていた。
広いホール
高い丸天井(ドーム)
白大理石の床と壁
その広間の中に、そのひとは一人でいた__たった独りで。
じっと見つめていると、やがてそのひとは振り向いた。
そして、優しく微笑む。
お帰り、オラトリオ
そう、そのひとは言った。
お帰り、私の守護者……
夢が悪夢に変わるまで、長くはかからなかった。
オラトリオ、オラトリオ、オラトリオ……!
叫ぶようにその名を呼び続けながら、そのひとは逃げ惑っていた。だがすぐに、『闇』に捕らえられてしまう。『外』に逃げる術を持たぬ者を捕える事などたやすい。
オラトリオ、どうして……?
『闇』はそのひとを押し包み、閃光が煌く。殆ど同時に、そのひとの首筋がざっくりと斬られ、鮮血が迸った。
どうして……
そのひとの瞳は虚ろに光を失い、そして__
そのひとの姿も消えた。
「__オラクル……!」
ベッドの上に跳ね起き、オラトリオは闇の中で叫んだ。
そして、全てを思い出した。
ロボットの前世でオラクルを見殺しにした事。
人間の前世でオラクルを欺き、自殺に追い込んだ事。
「……オラクル……」
オラトリオは、両手で顔を覆った。
「…ええ、判りました。お待ちしていますから、余り急がなくても大丈夫ですよ」
編集者の言葉を聞き流しながら、オラトリオは2本目の煙草に火をつけた。待ち人__今度の仕事で組む事になるイラストレーター__は、まだ来ないらしかった。
「渋滞に巻き込まれて、もう少し、遅れるそうです__彼が来たら、それは消して下さいね」
携帯を切ると、迷惑そうに煙草の煙をよけて、編集者は言った。
「何だってんだ、煙草くらい」
「気管支が弱い人なんですよ。煙草の煙で発作を起こす可能性がある。そうで無くとも、吸わない人の前では気を遣うのがマナーというものでしょう」
答える代わりに、オラトリオは軽く肩を竦めた。この編集者とは、言い合っても無駄だ。オラトリオと同年代のその編集者は、初めて会った時から嫌味や小言しか言わない。それでも、仕事をくれる相手と喧嘩する訳には行かない。
「だったら席、代わるか?そっちが風下みてえだ」
「このままで結構です。もうじき、彼が来るでしょうし」
もう一度、オラトリオは肩を竦めた。
この嫌味な編集者が、電話の相手には酷く気を遣っているのが笑止だ。まだ名前は聞いていないが、売れているイラストレーターなのだろうか。フリーランサーは、知名度と共にギャラも扱いも上がる。無名のライターなど、鼻であしらって当然と言う訳だ。
自動ドアの開く音がした。
編集者が席を立ち、相手に場所を知らせる。軽い足音と共に、一人の青年が駆け込んできた。オラトリオは面倒に思いながら煙草を揉み消し、相手を見上げた。
そして、言葉を失った。
オラクル……
「ごめ…遅く…って」
「走って来たんですか?急がなくても良いですからと言ったのに」
肩で息をしているオラクルに、クォータは言った。言いながら自分のグラスにペリエを注ぎ、オラクルに手渡す。
オラクルがミネラル・ウォーターを一息に飲み干す様を、オラトリオは半ば呆然と見つめた。
オラクル。
最愛の伴侶。
永遠の恋人。
ずっと捜していた。探し続けて来た。大学に入ってからは、バイトをして金を作り、国中を旅して歩いた。そのせいで成績は惨澹たるもので、何とか卒業はしたものの、まともな企業に就職は出来なかった。
が、そんな事はどうでも良かった。
両親の嘆きや憤りも、離れて行く友人たちも、どうでも良かった。
求めたのはただオラクルに会う事だけ。
捜し続けていれば、必ず会えると信じていた。もしかしたら以前とは違う姿になっているかもしれない。それでも、見まごう筈は無い。
現世では会えないかも知れない。それでも諦めはしない。いつになるかは判らないが、いつの日にかきっと会える。必ず、探し出してみせる……
どうして……逃げた…?
許されるとは思っていない。赦されようとも思わない。喩えオラクルが赦してくれても、自分で自分が赦せない。
私は…お前の重荷だったから…
それでも、誤解だけは解きたかった。どれほど自分がオラクルを愛しているか、伝えたかった。
そして__
「済みません、遅くなって。オラクル・カシオペアです」
水を飲んで落ち着くと、オラクルは言った。握手の為に、手を差し伸べる。
「__オラクル…」
その他人行儀な振る舞いは、オラトリオには意外だった。
「オラクル、俺だ。オラトリオだ」
「……お名前は伺ってますけど…」
当惑したように、オラクルはクォータを見た。その時、初めて、オラトリオはそれが『クォータ』である事を認識した。この編集者との付き合いは足掛け3年にもなるというのに、覚えていたのはオラクルの事だけで__
どうでも良い。クォータの事など。
「オラクル」
抑えがたい衝動のままに、オラトリオは相手の手を取った。華奢な白い指を両手で包み込み、軽く指先に口づける。驚いて手を引っ込めようとしたオラクルを、オラトリオはまっすぐに見つめた。
「ずっとお前の事を捜してた。何年も何年も……。絶対に会えるって信じてたぜ」
オラクルは、困ったように眉を顰めた。そして、もう一度、クォータを見る。
「…お知り合いだったんですか?」
「違うよ__人違いじゃないですか?」
オラトリオの手を軽く振り払い、オラクルは言った。
オラトリオは、すぐには何も言えなかった。
どうしてお前は答えてくれない?どうして思い出してもくれない?どうして……
「__済まねえ……」
視線を落とし、呟くようにオラトリオは言った。
「打ち合わせを始めたいのですが。宜しいですか?」
クォータ__かつての<A−Q>クオンタム__の言葉に、オラトリオは無言のまま頷いた。
「オラトリオ…だっけ?昼間の人」
タオルで濡れた髪を乾かしながら、オラクルは聞いた。
「ええ。済みませんね、あんな男と組ませて」
オラクルは軽く眉を顰めた。タオルを手にしたまま、ソファに歩み寄り、クォータの隣に腰を降ろす。
「私を誰かと勘違いしていたみたいだけど__いつもあんな風なの?」
「無論、いつも初対面の相手にあんな事を言う訳ではないですよ。それでも…」
軽く肩を竦め、クォータは続けた。
「言葉遣いや態度が乱暴なのはいつもの事ですね。出来ればあなたとは会わせたくなかったのですが…」
「今度の仕事にお前が乗り気で無かったのは、それが理由だったのか?」
クォータは頷いた。そしてオラクルの肩に腕を回し、抱き寄せる。
「あなたが厭ならば断っても良いんですよ?」
耳元で優しく囁かれた言葉に、オラクルは首を横に振った。
「そんな我侭を言ってお前や編集長を困らせる訳には行かないよ」
生乾きのオラクルの髪に指を絡めながら、クォータは猫の様に目を細めた。
「あなたは我侭を言っても良いんですよ。あなたには…それだけの資格がある」
オラクルは幽かに苦笑し、相手の肩に凭れ掛かった。
校正を済ませ、原稿をメールに添付して送ってからオラトリオはPCをシャットダウンした。
午前2時43分。
煙草に火をつけ、クォータの言葉を思い出した__オラクルは気管支が弱いのだ、と。
少し、考え、吸うのを止めてパッケージに戻す。別にここにオラクルがいる訳ではないのだから、無意味だとは思いながら。
「…オラクル」
そっと、呟いた。
呼んでも、答える者はいない。それでも良かった。
やっと巡り合えたのだ。
国中を捜してまわったと言うのに、同じ街に住んでいたのだろうか?嫌、それは有り得ない。恐らく、最近、引っ越したのだろう。住所も電話番号も聞き出せなかったが、組んで仕事をするのだからまた会える。
そう思うと、オラトリオの口元に笑みが浮かんだ。
が、すぐにそれは消える。
人違いじゃないですか?
オラクルは、覚えていなかった。思い出しもしなかった。オラトリオの態度を訝しみ、怯えている様にすら見えた。
どうして思い出してもくれない?どうして……
オラクルの言葉が自分に返る。
当然の報いだ。
それに、オラクルは思い出さない方が良い。
席を立ち、狭いキッチンに入って冷蔵庫を開ける。冷やしておいたバーボンをグラスに注ぎ、部屋に戻った。カバーを掛けたベッドに腰を下ろす。
どうして……
思い出せなかった理由は、今なら判る。
オラクルを見殺しにした__その自責の念に、耐えられなかったのだ。
バーボンを呷り、空っぽの胃に焼け付くような熱さを覚える。
最愛の者に2度までも裏切られた__その記憶が、どれほどオラクルを傷つけるか、想像に難くない。
ならば、思い出さない方が良い。これ以上、オラクルを傷つけたくはない。
だったら…?
そこに答えがあるとでも言うかのように、オラトリオはグラスを見つめた。
思い出さなくても良い。思い出させたくはない。
ただ__幸せにしたい。
己の罪が許される事など望まない。生まれ変わり、この世に生を受ける限り、罪を負い、自責の念に苦しみ続ける事になっても構わない。
望むのは、ただひとつだけ。
己の罪の犠牲になって逝った愛しいひと。
今度こそは幸せにしたい。嫌、必ず幸せにする。
何があろうと、必ず……
満ち足りた思いで、クォータは腕の中で眠る恋人の髪を撫でた。
以前は週末にしか会えなかったが、オラクルが一人暮らしを始めたお陰で、もっと頻繁に会えるようになると思うと、嬉しかった。
ただひとつ、気掛かりはある。
出来れば、この街には来させたくなかった。けれども、その理由をオラクルに話す事は出来なかった。だが、仕事で組ませる事になってしまった今、別の街に引っ越していたとしても、結果は同じなのだ。
幽かに、クォータは眉を顰めた。
10年前、オラクルに出会った時は運命に感謝した。今、同じその運命を呪いたい気分だった。
寝返りを打ったオラクルを改めて抱き寄せ、頬に軽く口づける。
想いを告げるまでに、3年も待った。
想いを遂げるまでに、もう3年待った。
オラクルの側にいる為に、あらゆる手段を尽くした。他の何を犠牲にしても構わなかった。
「…あなたは誰にも渡さない」
オラクルの髪を撫でながら、クォータは囁いた。
誰よりも愛しいひと。
何よりも大切な存在。
あれほど渇望し、憧れていた幸福がやっと手に入ったのだ。その幸福を__最愛の伴侶を__手放す気などなかった。
何があろうと、絶対に。
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