終章 2 オラトリオが遠方の研究所に出張に行く事になったのは、それから数日後の事だった。 「後の事は一応、師匠に頼んでおいた。まあ、何もありゃしねえだろうがな」 オラトリオが遠くに行ってしまえば、たとえ、此処がクラッカーに襲撃されたとしても、すぐに駆けつける事は出来ない。物理的に遠い場所であっても、その研究所にオラトリオ専用のFEP(フロントエンドプロセッサ)が備えられていればオラトリオはすぐにでも、私の側に来る事が出来る。だが、それが無い場所では…。 物理的な距離という概念が、私にはどうしても理解出来ない。ただ判るのは、オラトリオはこれから数日の間、<ORACLE>から離れていると言う事だ。無論、私からも… この数年、オラトリオがいない時に<ORACLE>がクラッカーに侵入された事は無かった。侵入を試みる者は後を絶たないが、様々なセキュリティー措置をかいくぐって侵入に成功する者は殆どいない。だからオラトリオは安心していたのだろう。私もそうだった。 だが、その日、<ORACLE>はクラッカーの襲撃に見舞われ、キラープログラムに侵入された。 ――オラトリオ…! 私は思わずオラトリオを呼んでいた。呼んだところで、オラトリオがすぐには来れないのは判っていた。物理的な距離とやらのせいだ。 (さて…答えて貰おうか) <ORACLE>に進入したキラープログラムがふてぶてしく言う。 (ここのアドミニストレータ(管理者)のIDと、パスワードは何だ?) キラープログラムの問いに、私は眉を顰めた。アドミンのパスワードなど教えてしまえば、<ORACLE>は全てのデータをその侵入者に開示する事になってしまう。私は、そんな事を教えるつもりは無かった。 (どうした、何故、黙っている…?死にたいのか) キラープログラムの脅しに、私は無言で答えた。もしそれが、一部のデータであるならば、私は自分の存続の方を、優先しただろう。だが管理者のパスワード。それを教えてしまえば、<ORACLE>は侵入者の意のままとなってしまう。それは私の存在を掛けてでも護るべき秘密だった。 (どうしても、言わぬのなら…ならば、死ね…) 私は眼を閉じ、死を、覚悟した。無論、ただ死にはしない。その時にはこのキラープログラムを私の中に封じて、途連れにする積もりだ。そうすれば<ORACLE>は護られる。それで私の責務は果たせる。 ただ出来れば…最期にひと眼、オラトリオに会いたかった… 空間に、歪みが生じるのを感じた。と共に、キラープログラムが動揺するのを__奇妙な話だ。普通、キラープログラムは感情など、持っていない。 「大丈夫か?」 コードに聞かれ、私は相手を見た。 「__ああ…大丈夫だ…」 コードを見、私は奇妙な感覚に囚われた。安心して良い筈なのに、不安なままだったのだ。私を護るのはオラトリオの役目の筈だ。だか、彼はどこにいる…?物理的な距離など、私には理解できない。 出張から戻って来たオラトリオは、彼の不在中に、<ORACLE>がクラッカーに襲撃された事に、衝撃を受けていた。<ORACLE>をクラッカーから護るのは彼の仕事であり、彼はその事に、誇りを感じてもいた。だが、彼の受けた衝撃は私のそれほど、大きくは無かったのだろう… 「ずっと、お前の側にいるぜ、これからは…」 私を抱きしめて、オラトリオは言った。そう、言ってくれた事で、私は嬉しかった。もっとも、決定権はオラトリオには無い。無論、私にも。 オラトリオの不在中に、<ORACLE>がクラッカーの襲撃を受けた事はアトランダム研究所でも問題になった。議論の末、<ORACLE>に常駐して<ORACLE>を不法侵入者から護るシステムが必要だとの結論が下された。それは無論、HFRでは無かった。人格プログラムになるかどうか、それは今後、人間が決める事だ。 そして、オラトリオはどこか遠くの研究所詰めとなる。そこにはオラトリオが<ORACLE>に転移すべきハードも備えられてはいない。少なくとも、今は。 オラトリオは私を護るために作られた。だが、長い年月の間に彼の役割は変わっていた。 ただ私だけが…それに気づかずにいたのだ… 「頼むから…そんなに哀しそうな顔するなよ。もう二度と会えないって訳じゃ無し」 オラトリオの言葉に、私は応えられずにいた。確かに、オラトリオの言う通りなのだろう。元々、オラトリオには外の世界がある。今までだって、いつも一緒にいられた訳では無いのだ。 「休暇の度に、必ず戻ってくる。嫌、向こうにFEPが用意されさえすりゃ、毎日、帰って来るぜ」 だが、そんな事は望むべくもないのだと、私には判っていた。<ORACLE>の新しい防御システムが完成すれば、オラトリオは<ORACLE>に取って、特別な存在では無くなる。そう、遠くない内に、私とのリンクも切られてしまうだろう。 「確かに俺はお前ののガーディアンでは無くなったがな。そんなのは元々、人間が決めた事だ。お前に対する気持ちは全く別問題だ。お前を護るのが俺の仕事で無くなっても、俺がお前を愛してる事に何の変わりも無いぜ?」 優しく、言い聞かせるようにオラトリオは言った。私は肯いた。彼の言葉を、彼を信じていれば良いのだ… 不図、オラトリオの左手の指輪が眼に入った。<ORACLE>の内部だけで存在する事のできるCGの指輪。それは現実空間には__オラトリオがこれから殆どの時間を過ごす事になる世界には__存在しない。そんな当たり前の事に、私はずっと、気づかずにいたのだ。 現実空間に存在しないのは指輪だけではない。私も…そうなのだ… オラトリオが機能停止した。修復の試みは全て失敗に終わった。何が原因であったのかの解明すら、成功しなかった。 私は、訪問者を迎えた。コードだった。私の様子を見に来てくれたのだろう。 「…大丈夫…か?」 「ああ…大丈夫だ」 <ORACLE>がクラッカーに襲撃された時と同じ問い、同じ答え。でも今の方が私の気持ちは落ち着いている。私が落ち着いている事を、コードは意外に思っている様だった。 「シグナル達はさぞ、哀しんでいるだろうね…」 私の言葉に、コードは黙っていた。 「私は感情を抑制されているから、彼らほど、哀しむ事はできないんだ…」 私は自分がどんな表情をしていたのか、判らない。ただ、コードはとても辛そうだった。 「…表にクオータの奴がいるな」 黙っているのが心苦しくなったのか、コードは言った。 「ああ…新しい防御システムが完成するまで、彼が<ORACLE>のガーディアンだから」 でも中に入れるつもりは無かった。キラープログラムの侵入を防ぐのが彼の役目なのだから、外で戦えば良い。私は彼が<ORACLE>に入るのを拒否する権限は無いが、待たせておく事は出来る。冷淡な措置なのだろうけれど、誰かに優しくする事など、今の私には出来ない。もしかしたら、もう、二度と出来ないかも知れない… コードが帰ってしまうと、<ORACLE>には私一人きりになった。でも、私は独りでは無かった。オラトリオがいるから… もう、これからは寂しい想いをする事もない。オラトリオがどこでどうしているか気にかけ、辛い想いをする事も、嫉妬に苦しむ事も…。私は、常にオラトリオの存在を感じる事が出来る。片時も離れず、永遠に… 私は<ORACLE>から外に出る事は出来ない。私は<ORACLE>の内部でしか存在しない。だが、<ORACLE>の中でなら、私は殆どどんな事でも出来る__望みさえすれば。 私は…オラトリオを<ORACLE>(わたし)の中に封じてしまったのだ。 __愛しているぜ、オラクル。これからは、いつも一緒にいよう… 『結婚』した晩に、オラトリオの言っていた言葉を思い出した。今やっと、それが叶ったのだ。 これが本当に私の望んでいた事なのかどうか、私には判らない。多分…それで良いのだろう。私は思考と感情を抑制されている。余計な事など、考えなければ良いのだ…
fin.
|