終章 1


 オラトリオはこの頃、外出が多かった。

 私は自分の左手の薬指を見た。オラトリオのくれた指輪が輝きを放っている。何年か前、オラトリオは私に『結婚』しようと言った。俺はお前を愛している。一緒に暮らしたい。お前が俺と同じ気持ちなら、結婚しよう…と。
 オラトリオの言葉を聞いた時、私はとても嬉しかった。彼と一緒にいたいと望んでいたのは私の方だから。

 空間に歪みが生じ、コードが姿を現した。コードはまともに扉から入ってきた試しが無い。別に、どうでも良い事ではあるけれど。
「やあ、コード。お茶をいれようか?」
私は普通に振る舞った積もりだったけど、コードの眼にはそう、映らなかった様だ。
「元気が無いな。また、ひよっ子が、浮気でもしたか」
 また…?
 コードは、何を言っているのだろう。私は不安を覚えた。が、コードの言葉をやり過ごし、お茶をいれに、席を立った。そして玉露をいれる。コードは日本茶が好きだから。私は紅茶の方が好きだ。それは多分、オラトリオが紅茶の方が好きだからだろう。
「シグナルの奴が浮気でもしたら、俺様は絶対に赦さんがな」
お茶を受け取って、コードは言った。オラトリオの弟のシグナルは、コードの妹エララと、恋人同士だ。彼女と付き合う様になってから、シグナルは滅多に<ORACLE>に顔を見せなくなった。以前はよく、遊びに来ていたのに…
「私はお前の妹では無いからな__幸いな事に」
「…お前からそんな憎まれ口を叩かれるとは思わなかった」
「何か、用だったのか?」
すぐには答えず、コードは意味有り気に私を見、お茶をすすった。
「ただ一寸、立ち寄っただけだ。長居はせん」
私は、邪魔だと言わんばかりの態度を取ってしまった事を、後悔した。コードの何気ない言葉に、私は動揺していたのだ。

 その日、オラトリオは夜になってから帰ってきた。
「ったく、今日はひでえ目に遭ったぜ」
「…どうしたんだ?」
私が聞くと、オラトリオは肩を竦めた。
「師匠がな、何でだか知らんが、俺が浮気してるって決め付けて…ずいぶん、とっちめられたぜ」
「どうしてコードがそんな事を…」
「知るもんか。多分__シグナルがエララとくっ付いただろ。シスコンの師匠としては面白く無いわけだ。で、どっかで八つ当たりしたかったんじゃねえのか」
「そうだね…コードのシスターコンプレックスは有名だから」
少し、安堵して私は言った。オラトリオの言う通りなのだろう。きっと…

 次の日は休日だった。人間と、人間に準ずる権利を与えられているHFRの。私にはそんな物は無い。ただ、仕事をする人間が少なければ私のやるべき事も少ない。それだけの事だ。
「今日は…休みじゃ無かったのか」
出掛けようとするオラトリオに、私は聞いた。
「嫌…急な仕事が入っちまってな。言ってなかったっけか?」
聞かされてはいなかった。無論、オラトリオには彼の全ての予定を私に告げる義務など無い。ただ、いつもは話してくれたから、それが当然の様に思ってしまっていたけれど。
「気をつけて、オラトリオ」
「ああ、行って来るぜ」
言って、オラトリオは私に口づけた。それは『結婚』以来、変わっていない。

 その日は余り、する事も無く、私は手持ち無沙汰だった。そんな時、以前の私ならTVでも見るか本を読んで過ごした。私は人工知能だから、好奇心という属性が備わっている。でもオラトリオと『結婚』してからは、空き時間を一人で過ごす事は殆ど、無くなった。
 オラトリオはいつも<ORACLE>にいて、私の仕事を手伝ってくれるようになった。それで、私の自由時間が増えたのだ。そうして得た時間を私はとても貴重な物だと思った。そういった時間に、オラトリオは私に“外”の世界を見せてくれた。満天の星、北極のオーロラ、紺碧の空、エメラルドグリーンに輝く海…
 全てが、とても美しかった。でも私にとって重要だったのはオラトリオが側にいてくれるという、ただそれだけの事だった。

 訪問者があった。その識別IDに、私は不安を覚えた。クオータだ。彼は難なくセキュリティチェックを通りぬけ、<ORACLE>の内部へ踏み入った。
「ご機嫌いかがですか、オラクル」
礼儀正しく、クオータは言った。彼が<ORACLE>のデータを盗もうとしたのは、もう、随分、前の事だ。でも私は、人間とは異なり、忘れるという事はしない。出来れば、クオータを<ORACLE>に入らせたくは無かった。
 だが彼はA−NUMBERSの正式な一員だ。A−NUMBERSの者は皆、<ORACLE>に入る権利がある。それを、私が拒む事は出来ない。
 ただ、オラトリオのいない時に…他に誰もいない時に、クオータを<ORACLE>に入らせたのは、あの事件以来、これが初めてだった。
「用件は?」
冷たく、私は言った。クオータはオラトリオのコピーとして、作られた。今では、オラトリオに何かあった時のスペアとしての役割を与えられている。
 だがその事実を、私は永遠に認めないだろう。

「データの検索に来ただけです。無論、私がアクセスを赦されているデータの」
私はクオータを放っておきたかった。でもそれでは何をされるか判らない。仕方なく、私は彼を案内し、彼が見たがっているデータを見せてやった。
「今日は、オラトリオはいないのですね」
そう、クオータは言った。私は不安を覚えた。
「この頃、現実空間で彼をよく見掛けるから、ここにいないのは当然ですけどね…」
思わせぶりなクオータの言葉に、私は苛立った。
「お前が欲しがっていたデータはこれで全てだ。用が済んだなら、帰ってくれないか」
私の言葉に、クオータは何やら哀しげな表情を浮かべた。私は彼が理解できない。一度、データを奪おうとした者を理解する事を、私の感情システムは拒否するのだ。

「なぜ…あなたは黙って、耐えているのです?」
クオータの言葉に、私は眉を顰めた。
「…何の話だ」
「何も知らないのですか?…あなたがかわいそうだ。もっとも…知っていて耐えているのなら、その方が、ずっと、気の毒ではあるけれど…」



 クオータが帰った後、私は落着かない気分だった。コードの何気ない言葉。クオータの意味ありげな言葉__それが気になって仕方が無かった。でも、私に出来る事は何も無い…
 夜になってから、オラトリオは戻ってきた。この頃、彼は外出が多いばかりで無く、帰りも遅かった。
「今日は…どこに行ったんだ?」
そう、私は聞いた。
「どこって、いつもの仕事場だ。何の変わり映えもしねえ…な」
以前なら、オラトリオはよく話してくれたものだ。その日、何処にゆき、誰と会い、何をしたかを。
「…オラトリオ…」
「何だ?」
聞き返されても、私は答えなかった。何を言いたいのか、自分でも判らなからなかった。不意に、オラトリオは私を抱き上げ、二人の寝室へ運んだ。
「オラトリオ、私は__」
「何だよ、欲しいんだろ?」
「ち…が…」
「恥ずかしがる事なんぞ無い。俺達は結婚してるんだからな」
私は諦めて、オラトリオの為すに任せた。本当はもう少し、話していたかったのだけれど。


 翌日も、オラトリオは出掛けると言った。
「今日も…仕事なのか…?」
私の言葉に、オラトリオの表情が僅かに曇った。私は後悔した。でも、他にどうすれば良かったのだ…?
「判った、今日は此処にいてお前の仕事を手伝うぜ」
「私は…そんな積もりで言ったのじゃ…」
「いや、それで良いんだ。最近、あんまりお前の事を構ってやれなかったからな」
言って、オラトリオは優しく微笑んだ。それだけで、私は嬉しかった。
 その日、オラトリオはずっと<ORACLE>にいて、私の仕事を手伝ってくれた。その日は元々あまり、する事が無かったから、仕事はすぐに片付いた。それから、オラトリオは私に、色々な美しい景色を見せてくれた。それは、哀しいほど美しい光景だった。オラトリオは私の肩を抱き、時折、私の髪を撫でてくれた。
「__愛している…」
私の言葉に、オラトリオは、照れくさそうに笑った。
「何だよ、改まって」
「愛している。私には…お前が全てだ…」
オラトリオは私を抱き寄せた。
「俺もだ。愛してるぜ、オラクル…」


 その後も、オラトリオの外出が多い事に変わりは無かった。私はコードやクオータの言った事を考えまいと努めた。だがある日、アトランダム研究所に係わる者全てのスケジュールがデータとしてインプットされた時、私はそれを無視出来なかった。
 データを引き出すのは私には容易な事だった。オラトリオが仕事だと言って出掛けた日の内、公式に彼の勤務日に当たらない日が1日。半日程度の仕事で済んでいた筈なのに、オラトリオが夜まで戻って来なかった日は幾日もあった。
 私は、余計な事をした自分を責めた。オラトリオは<ORACLE>にいなければならない義務など無い。彼の自由時間に、彼が何処で何をしようと、それは彼の勝手なのだ。
 不図、若く美しい女性たち__それが人間であるかHFRであるかはどうでも良い__と一緒にいるオラトリオの姿が、私の脳裏を過ぎった。オラトリオはとても愉しそうだ。コードやクオータが見たのは、彼のそんな姿なのだろう。オラトリオはそんな事は何でも無いと、言うだろう。ただ一緒にいて、話をしただけだ…と。
 <ORACLE>の内部に閉じこもって私の仕事を手伝うよりも楽しい事がオラトリオにあったとしても、それを、私が責める事など出来ない。彼には私の知らない世界がある。
 どうしても、私は現実空間を「現実」として、理解する事は出来ない。私に取って、全ては映像であり、色の集まりであり、形として識別される記号であり…
 結局のところ、データの集合でしか無いのだ。

 リンクされていても、何年、一緒に暮らしていても、私とオラトリオの現実認識にはずれがある。未だに、オラトリオの言葉が理解できない時もある。そしてそれはオラトリオのせいでは無い。
 多分…問題は私の方にあるのだろう。
 私は思考と感情を統制されている。それが何を意味するかオラトリオが本当に知ったのは、私と『結婚』してからだった。

 私は__長く一緒に暮らすには退屈な相手なのだ…



「最近、俺の帰りが遅くなっちまってるから…寂しいんじゃ無ぇか?」
その日、帰ってきたオラトリオは、私を抱きしめながら、そう、聞いてくれた。私は答えられなかった。
「済まないとは思ってるんだが、仕事が忙しくてな」
「…判ってる…。私の事ならば、気にしなくても良い。大丈夫だから…」
そう、私は言った。他に、何と言えば良かったのだ…?
「だったら良いがな…。愛してるぜ、オラクル」
「私も…」



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