(2)



ゆったりしたローブに包まれた身体は、驚く程、華奢だった。そして、震えていた。どれ程、強く抱きしめても、震えは収まりそうに無かった。
抱きしめていたのは、ほんの数秒の事でしかなかった。それでも、雑色の髪のしなやかさと、華奢な身体の温もりが、鮮明に思い出される。

まるで、今も腕にオラクルを抱いているように。


不正侵入に関する報告書を提出してしまうと、現実空間でのその日の仕事は終った。もう暫くすれば監査の仕事もしなければならなくなる。が、今はまだ調整中の身で、やらなければならない事は余り無かった。
それなのに<ORACLE>に降りずに研究所内のカフェテリアなぞで暇を潰している理由は、自分でも判らない。

お前はただ一人の相棒だ

だから?

私はお前が必要だ

それは俺が守護者だからか?

お前は…私を必要としているのか…?

俺はお前を…



「そうなんだ」
困惑気に眉を曇らせて、オラクルは言った。自分の『家』の庭に咲いた花のCGを携えてきたコードに、オラトリオからウイルス・チェックに関して注意された事を話したのだ。
「ひよっ子め。俺様やエレクトラがそんな怪し気なデータを持ち込むとでも思っているのか」
「疑っている訳じゃ無くて、念の為なんだと思うけど」
コードは、エモーションと一緒にお茶を飲みに来た時の事を思い起こした。最近、オラトリオと打ち解けられるようになったと、オラクルは言っていた。だがあの時オラトリオは殆ど口もきかず、不機嫌そうに思える程の態度だった。
「奴の仕事としては<ORACLE>に持ち込まれるデータに目を光らせるのは当然だが…余り神経質にすると奴自身がもたんぞ」
「それ…は__」
ティーカップを取り上げようとしていたオラクルの手が震え、カップが落ちた。コードはすぐに席を立った。
「ひよっ子を喚ぶまでも無い。俺様が片付けて来る」

コードの言葉通り、侵入者はすぐに撃退された。が、2日続けての不正侵入は異常だ。侵入者の気配が去ったにも拘わらず、オラクルは不安そうだった。
「大丈夫か?」
コードは、きつく握り締められたオラクルの手に、自分の手を重ねた。オラクルの指は震えていた。
紫電の光が<ORACLE>に降りたのは、その時だった。
「…オラトリオ…」
「どうした」
不安気なオラクルに、オラトリオは大股に歩み寄った。側にコードがいるのは気に入らないが。
「侵入者だ。俺様がいたから片付けておいたが」

私はお前が__守護者が__必要だ

コードは宥めるように軽くオラクルの手を叩いてから、オラトリオに向き直った。
「二日続けて侵入があるなど異常だ。セキュリティホールでも穿たれた訳ではあるまいな」
「そんなドジは踏みませんぜ」
むっとした気持ちを何とか抑えて、オラトリオは言った。それでも不機嫌は隠し切れない。オラクルが不安と困惑の混ざったような表情でこちらを見つめている。

…私はお前を信じている__
だったら何で、呼ばなかった!

3ヶ月前の言葉が蘇る。苛立ちと、失望も。
「念の為、全ての障壁を再チェックして来る」
言って、オラトリオは<ORACLE>を出た。


どの障壁にも異常は見当たらなかった。それでも、念を入れてチェックを繰り返す。
時折、オラクルの不安そうな表情が脳裏を過ぎった。それは、消し去ろうと努めても消えず、オラトリオの苛立ちを誘った。そして自分がこれ程までに苛立つ理由が、オラトリオには判らなかった。


探査に時間をかけたせいか、オラトリオが<ORACLE>に戻った時、コードの姿は無かった。代りに、花器に活けられた花が残っていた。
「2週間くらい前に利用許可を出した研究所の為に、回線をひとつ増やしたんだ。もしかしたら__」
「何で俺を喚ばなかった」
相手の言葉を遮って、オラトリオは言った。
「…コードがいたから…」
「お前の守護者は俺だぞ」
抑えようとしても、口調が荒くなるのを防げない。オラクルの不安そうな表情に、すぐに後悔する。が、言ってしまった事は取り消せない。
「…その新しい研究所、監査の必要があるな」
何とか口調を抑えて、オラトリオは言った。
「…監査はまだ無理じゃないのか?お前は調整中だし、それに__」
「俺を信じてないのか」
低く、オラトリオは言った。
「…そういう訳じゃなくて、私はただ…」
「それに無闇に外部のデータを持ち込ませるなと言っておいた筈だ」
オラトリオの言葉に、さすがにオラクルは不満そうに眉を顰めた。
「ウイルス・チェックならコードがちゃんとやってくれたよ。それに私はコードを信じている」
「俺の事は信用してねえのに…か」
自嘲の嗤いと共に、オラトリオは言った。
「信じているって言ったじゃないか」
「だったら何で監査に行かせねえ?幾ら侵入者のキラー・プログラムを灼いても、元凶が手付かずじゃ侵入は止まねえぜ」
オラクルの指先が幽かに震えるのを、オラトリオは見た。自分の言葉がオラクルの不安を煽っただけなのが腹立たしい。
「__判った…」
視線を落とし、オラクルは言った。



監査の為の準備は、オラトリオの予想以上に面倒だった。人間の監査官として行った方が監査に有利だろうという配慮から、ロボットである事を隠す必要もあった。その為、飛行機が利用できず、列車に17時間も揺られる羽目になった。
持て余すほどの長い時間の間、思い出されるのはオラクルの事ばかりだった。きつい言い方をしてしまった事を後悔し、戻ったら謝ろうと思った。
冷静になって考えれば、単なる我侭でしか無い__自分だけを信頼して欲しいなどと思うのは。現に今、<ORACLE>にすぐに戻れない状況にいるオラトリオの代りに<ORACLE>を護っているのはコードだ。オラトリオが造られる前から度々、<ORACLE>を護っていたコードを、オラクルが信頼するのは当然だろう。
そう。今もコードがオラクルの側にいて、オラクルはコードの為にお茶をいれているのだろう。
折角、時間をかけて構築したティーセットのCGは、まだ渡していない。エモーションのお土産があるのだから、必要ないと言えば言えるが。

オラトリオは、時間をチェックした。列車に乗ってから5時間32分。それだけの距離を、<ORACLE>から離れてしまった。この状態からは、<ORACLE>に潜入も出来ない。
オラトリオは見るとも無く窓の外を見遣った。硝子に、自分の顔が映っている。それと良く似た、けれども決して同じでは無い白い貌を思い出す。定まった色を持たないしなやかな髪。同じ色の大きな瞳。オラトリオの腕の中で震えていた華奢な身体__
どうしているか聞く為に回線を開こうとして、オラトリオは思いとどまった。定期連絡の時間では無い。オラクルにも仕事がある。無駄なお喋りは仕事の邪魔だ。
或いは、エモーションが遊びに来て、コードと3人で談笑しているかも知れない。
そう、思うと、何故か気持ちが落ち着かない。
オラクルが自分に向けるのと同じ微笑を他の誰かにも見せる事。
自分に対するのと同じ程の信頼を他の誰かに寄せる事。
それが、酷く気に入らない。

幽かに、オラトリオは溜息を吐いた。起動したばかりで調整中の未熟なロボット。そんな自分が監査などして、どの程度の結果が得られるのだろう。そして今、何かがあってもすぐに<ORACLE>に__オラクルの側に__行く事は出来ない。
抱きしめて、不安を鎮める事も。

全てが、酷くもどかしい。
どうして些細な事で苛立つのか。
どうしてオラクルを不安がらせるような事を言ってしまったのか。
どうして、オラクルの側から離れたのか…
列車が、駅に停まった。何人かが降り、何人かが乗り込む。ホームでは、恋人同士らしい若い男女が別れを惜しんでいる。

お前はただ一人の相棒だ

不意に、オラクルの言葉が蘇った。と同時に気付いた。オラクルとは仕事上の相棒。それ以上でも、それ以下でも無い。もどかしいのは、気持ちが乱されるのはその事実の故。

俺…は…


すぐには信じられなかった。自分の感情を疑った。オラクルとはあくまで相棒の筈だし、二人とも男性型だ。それに、自分はロボットで、オラクルは現実空間に存在する事のないプログラムで…
それでも、想いは止まない。すぐにでも列車を飛び降り、オラクルの元に戻りたかった。オラクルの笑顔を見、オラクルの声を聞きたかった。
例えそれが、他の誰かに向けられるのと同じ微笑みであっても。
喩えオラクルを抱きしめる事が叶わなくても。


それでも…今すぐお前に会いたい…



ベルが鳴り、ドアが閉まった。滑るように、列車が走り出す。

…私はお前を信じている__

一時の感情に任せて、仕事をおろそかにすることなど赦されない。稼動したての未熟なロボットなら未熟なりに、全力を尽くすしか無い。


オラトリオはゆっくりと瞼を閉じた。そして、システムをスリープ・モードに移行させた。



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