(1)



「こっちの棚の整理、終ったぞ」
オラトリオが声をかけると、オラクルは書類から眼をあげ、穏やかに微笑した。
「有り難う。助かったよ」
「他にも何かあれば手伝うぜ?」
オラトリオの言葉に、オラクルは少し考えてから首を横に振った。
「大丈夫だ。お前は外の仕事で疲れてるだろうから、休んでいてくれ」
その日、オラトリオは午前中に音井教授のラボでメンテを受けたばかりで、別に疲労は感じていなかった。が、相棒の優しい言葉を無碍にしたくも無かったので、ソファに腰を降ろす。そして、カウンターの中で仕事をしているオラクルの横顔を見遣った。

ここに来ると落ち着ける

そう、思えるようになったのは、2、3ヶ月前からの事だ。誤ってデータを破壊してしまい、オラクルと諍った。それがお互いを理解する__余りに理解していなかったのだと気付く__きっかけとなり、その後はあの頃とは比べ物にならない程、良好な状態を保っている。
今にして思えば、思い上がりがあったのだ。自分はオラクルを護ってやっているのだから、オラクルから感謝され、気遣って貰えるのが当然だというような。システム的に自分が下位プログラムである事で、変に意固地になっていたのかも知れない。
「ただ座っているのも退屈だろう?学術誌のコーナーに、バックナンバーがあるけど」
暫く仕事を続けてから、思い出したようにオラクルは言った。こんな風にオラクルが気を遣ってくれるようになったのも最近の事だ。自分から思い遣りを示す必要に気付いたオラトリオがオラクルに細やかな気遣いをして、それで初めてオラクルは、思い遣りということを理解したのだ。
「お前を見てるだけで充分だぜ」
オラトリオが言うと、オラクルは不思議そうに小首を傾げた。
「それで面白いのか?第一、同じ顔だろう」
「…そうでもねえさ」
オラクルは尚も不思議そうな表情でいたが、そのまま仕事に戻った。
軽く俯くと、髪の雑色(ノイズ)がさらりと揺らぐ。
例えば、微笑み。あんな穏やかで優しい微笑みかたは自分には出来ないと、オラトリオは思った。初めの頃はそれもどこかぎこちなかったが、今では本当に優しく微笑んでくれる。特別に用事がなくても時間が空く度に<ORACLE>に降りるようになったのは、その微笑みが見たいからかも知れない。
穏やかな眠気に誘われ、オラトリオは大きく伸びをした。


眼が覚めて、オラトリオは自分が眠ってしまっていた事に気付いた。ソファに横たわった彼の身体には、軽い毛布が掛けてあった。
半身を起こしてホールを見回すと、オラクルは別のソファに座り、ディスプレイを見ていた。
「…何だ、それ?」
「起きたのか__テレビだよ」
「テレビ?お前、テレビなんか見るのか」
意外に思って、オラトリオは聞いた。
「お前は見ないのか?人間だって、暇な時はテレビを見たりするんだろう?」
オラトリオは、すぐには答えなかった。現実空間を知ろうと思わないように思考調整されているオラクルは、現実空間を映した物にも興味は持たないのだと思い込んでいたから。
「…世間知らずのお前がテレビなんか見て、判るのか」
「失礼だな__まあ、ドラマとかは良く判らないけど」
これは気に入っているからビデオに撮ってあるんだ__そう、オラクルは説明した。ニュースか何かで、何処かの薔薇園が紹介されている。ディスプレイの中で、色取り取りの薔薇が咲き誇っていた。
「もっと近くで見たいんだけどな…」
そう、オラクルは呟いた。



その日、オラトリオは花束のCGを携えて<ORACLE>に潜入した。納得の行く物が出来るまで、1週間、かかった。それがシステムリソースの浪費に当たるのではないかとか、オラクルの思考調整に悪影響を及ぼすのではないかという危惧もあった。
それでも、オラクルの喜ぶ顔を見たいという気持ちが勝った。
オラトリオが降りていくと、オラクルはカウンターの中で仕事をしていた。それでもオラトリオを見て、笑顔を見せる。
「今…忙しいか?」
オラクルの仕事が終るまで待とうかとも思ったが、思い直して、オラトリオは聞いた。<ORACLE>には世界中からアクセスがあり、24時間稼動している。オラクルの仕事は、言わばエンドレスなのだ。
「そうでも無いけど。何か?」
「嫌…お前に見せたい物があって」
オラトリオの言葉に、オラクルは羽根ペンをペン立てにさし、まっすぐに相手を見た。
その両目が、大きく見開かれる。差し出された薔薇の花束を見つめ、オラクルは言葉を失っていた。
「__すごい…」
オラクルが何も言わないのでオラトリオが不安になりかけた時、そう、オラクルは言った。
「すごく奇麗だ。どうしたんだ、これ?」
「…造った。お前が近くで花を見たいって言ってたから」
「私の為に?貰っても良いのか?」
幽かに頬を上気させ、子供のようにはしゃぐオラクルの姿に、オラトリオは安堵と満足を覚えた。
「勿論、お前の為に造ったんだ。気に入ってくれて良かったぜ」
オラクルに花束を手渡してから、オラトリオは用意しておいた花瓶のCGも構築した。ラッピングをつけたまま、オラクルは花束を花瓶に挿した。少し、妙な光景だが、オラトリオは何も言わなかった。


それから、オラトリオは時折、オラクルに手土産を持っていくようになった。ホールに飾る絵だとか、季節の花だとか。オラクルはそれらと現実空間のつながりは意識しないようだった。ただ奇麗なものは好きらしくて、オラトリオの土産を喜ぶ。
そして、オラクルの喜ぶ顔を見ると、オラトリオも嬉しかった。


「オールグリーンじゃ。もう、起きて良いぞ」
信之介の言葉に、オラトリオは礼を述べて調整台から降りた。週に1度の定期メンテナンスだ。
「大分、落ち着いて来たようじゃな。この分ならメンテの間隔を開けても良さそうだ」
「あの時は…お手間をかけさせてしまって」
ヒートストレスで倒れた時の事を思い出し、オラトリオは言った。その頃にはオラクルとの関係もぎくしゃくしていて、自分の仕事に対し、疑問や不満を感じていた。そのせいで、一部の情動プログラムが暴走したのだ。
「何、構わんよ。起動したては色々、調整が必要なのが普通だし、お前さんを調整するのはわしの仕事だからな」
ところで、と信之介は聞いた。
「オラクルとはうまく行っとるかね?」
「はい」
躊躇いも無く答えたオラトリオに、彼の生みの親は満足そうに頷いた。


その日、<ORACLE>には先客があった。カルマだ。
「あ、いらっしゃい、オラトリオ」
オラクルはそう、言っただけで、カルマとの会話に戻った。
「英国工業規格6008号とISO(国際標準化機構)の国際規格3103号で、水は沸かしたてでなければならないと定められている程なんですよ」
「どうしてなんだ?」
「汲み置きの水や、湯冷ましでは、溶け込んでいる酸素の量が減ってしまうからだというのが伝統的な説明です。ですが…」
カルマの説明は続いた。オラクルは熱心にそれを聞いているが、仕事の話ではなさそうだ。オラトリオは手持ちぶさたに感じ、二人から離れたソファに座った。
「…普通の水道水に混入している金属塩が紅茶の色や味に与える影響の方が大きいですね」
「不純物なんか、わざわざ入れなければ良いじゃないか」
「ええ…。確かに<ORACLE>(ここ)では消毒の必要も無い訳ですしね。但し、軟水では茶葉が蒸れるまでの時間が短くなり過ぎてしまうので、ある程度の硬度は必要です。それにはいくらかの鉱物塩が…」
二人が話しているのが紅茶の淹れ方なのだとは判った。カルマの説明はとても詳しく、当分、終りそうに無い。
「__オラトリオ…?」
オラトリオが現実空間に戻ろうと立ち上がると、オラクルが声をかけて来た。
「帰るわ。別に用があった訳でも無ぇし」
「一緒にお茶を飲んで行けば良いじゃ無いか。今、カルマに紅茶の淹れ方を教えて貰っているんだ」
オラクルの言葉に、オラトリオは首を横に振った。興味の無い話に延々、付き合う気は無かった。
それがオラクルと二人きりであれば、話題は何でも良かったのだが。


専門的な紅茶の淹れ方に興味は無い。が、T・Aに戻り、空いた時間を持て余したオラトリオはティーセットのCGを構築し始めていた。<ORACLE>の内装からすれば、クラシックなデザインが好みなのだろう。尤も、あの内装がオラクルの好みだとは限らないが。
それでも、きっと喜んでくれるだろう。今まで持っていった土産で、オラクルが喜ばなかった事は無い。或いは、気を遣っているだけかも知れないが。


次の日も、<ORACLE>には先客があった。コードとエモーションだ。女性型のエモーションがいるせいか、ホールはいつもより華やいだ雰囲気で、オラトリオが降りた時には楽しそうな笑い声がした。
「オラトリオ。丁度良かった。今、お茶を淹れたところだったから」
オラクルはいつものカウンターの中ではなく、ソファに座っていた。テーブルをはさんだ向かいのソファにコードとエモーションが席を占めていたので、オラトリオはオラクルの隣に腰を降ろした。
テーブルの上にはマイセンを模したティーセット。マリア・テレジア型と呼ばれるタイプだ。少し、好みが女性的過ぎる。
オラクルはカップに紅茶を注いでオラトリオの前に置くと、エモーションたちとの会話に戻った。話すのは主にエモーション。ネットサーフィンをした先々で見聞きした他愛もない事が話題だった。それでもオラクルは楽しそうで、熱心に質問などしていた。そして、時折、微笑む。穏やかな、本当に優しい微笑み方で。

お前はただ一人の相棒だ

不意に、オラクルの言葉が思い出された。

ただ一人の相棒__だから?


コードたちが帰ると、<ORACLE>内部は急に静かになった。
「…そのティーセット、造ったのか?」
ティーセットのデータを消去しているオラクルに、オラトリオは聞いた。
「エモーションが持ってきてくれたんだよ。お茶に呼んだら、お土産にって」
カルマからは何種類も紅茶のデータを貰ってあると、嬉しそうにオラクルは付け加えた。オラトリオの造ったティーセットは、カップは2客だけだ。他の誰かの存在を、何故か考慮していなかったのだ。カルマはともかく、コードやエモーションがたまに<ORACLE>に遊びに来ているのは知っていた筈なのに。
「エモーションは次はケーキを焼いて来てくれるって言ってたな。コードは庭に咲いた花が見頃だから、持って来てくれるって」
おもちゃでも貰った子供のようにはしゃいで、オラクルは言った。エモーションたちと話している時も、とても楽しそうだった。そして、優しく微笑みかけていた。エモーションにも、コードにも、カルマにも。

「…ウイルス・チェックはしたのかよ」
オラトリオが言うと、オラクルは急に不安そうな表情になった。
「…ウイルスって、エモーションたちがそんな__」
「故意に持ち込む積もりは無くても、何らかの経路で入り込んでるかも知れねえだろう。A−NUMBERSは殆どノー・チェックで入って来れるからな」
オラトリオの言葉に、オラクルの頬は蒼ざめた。オラトリオは言った事を後悔した。オラクルは侵入者やウイルスに対して、酷い恐怖心があるのだ。
初めの頃、オラクルはその恐怖をオラトリオに隠していた。隠さなくなったのは、あの諍いの後。オラトリオと打ち解けてきた頃からだ。
怯えかたが余りに酷いので、オラトリオはその理由をカシオペア博士に聞いた事がある。そしてオラトリオが造られる前のトラウマのせいなのだと説明された。恐怖心がアラートとして作用するので、調整して恐怖を和らげる事は出来ないのだとも。
それが判っていて、オラクルを不安にさせてしまった。
「…済まねえ。お前の不安を煽る積もりは__」
雷にでも打たれたように、オラクルの身体が震えた。瞳と髪のノイズに、鮮烈な紅が混じる。
「__オラクル…!」
激しい恐怖に立っていられず、崩れそうになったオラクルの身体を、オラトリオは思わず抱きしめた。
「大丈夫だ。すぐに片づけて来るぜ」
言葉と殆ど同時に、紫電の光が、<ORACLE>を飛び立った。


next/back