その日は雨だった。
土砂降りだ。
けれどもその人は傘もささずに雨の中、佇んでいた。
その理由が判るのが、哀しい。
『知っている』というのは時として酷く心苦しい＿＿火影直属の隠密として努めてきた１２年の間に幾度と無く思った事を、イルカは改めて感じた。
（1）
「…カカシさん…？」
「あ、お帰りなさい、イルカ先生」
イルカが呼びかけると、カカシは振り向いて笑った。一瞬、カカシが泣いているのでは無いかとイルカは思った。
だが、違う。
カカシは泣けないからこそ、こうして雨に打たれているのだ。
「ずぶ濡れじゃないですか。中に入って、服を乾かして下さい」
「買い物に行ってる時間が無かったんで、手ぶらなんですけど」
「そんな事、どうでも良いです。とにかく入って下さい」
軽く腕を掴んで、半ば強引にイルカは相手を家に入らせた。
そうでもしなければ、カカシはいつまでもイルカの部屋の前で立ち続けただろう。
「タオルと、取りあえず服が乾くまでこれ、着てて下さい。すぐに風呂を沸かして来ますから」
タオルと浴衣を手渡してそそくさと風呂場に向かったイルカの後姿を、カカシはぼんやりと見送った。そして、こういう面倒見の良さは生来のものなのか、アカデミー教師をしている内に身についたものなのか、どちらなのだろうと考える。
どっちでも、良いけどね＿＿思いながら、カカシは濡れた忍服を脱ぎ、身体を拭いた。浴衣に袖を通し、髪の滴を拭っている時に、イルカが戻って来た。
「今、お茶を淹れますね。すぐに飯の支度もしますから」
「イルカ先生…」
「はい？」
「ここに…来て下さい」
俯き加減で言ったカカシの側に、イルカは膝をついた。カカシは、そのイルカの背に腕を回す。
「暫く……こうしていて下さい……」
何も言わず、イルカはカカシを抱きしめた。
雨は、嫌いだ＿＿篠突く雨の音を聞きながら、イルカは思った。雨に降り込められた時に傘を持って迎えに来てくれる人を喪ってから、雨が嫌いになった。
でも、雨の日は好きだった。無理に皆の気を惹こうと努力する必要も無く、家に篭もっていられたから。
「……昔、あるくノ一がいたそうです」
ぽつりと、カカシが言った。
「夫は任務で死に、そのくノ一は産まれたばかりの赤ん坊と共に里を抜けました」
「……」
カカシが何故、その話を知っているのか、そして何故今その話をするのかが判らず、イルカは眉を顰めた。
今回の任務で、カカシは霧隠れの里の間者を捕らえた筈だ。その間者はカカシの知己なので、カカシにこの任務を与えたのだと火影から聞いている。
自分の知人が実は間者だったと知って、その裏切りにカカシが心を痛めているだろうとイルカは思ったのだ。
だが、それだけでは無さそうだ。
「彼女が里を抜けたのは、恐らく子供の父親の許へ行く為だったのでしょうね。子供の父親は死んだ夫では無く、霧隠れの里の間者だったんです…」
「……！それじゃ、まさか……」
「…くノ一はすぐに追い忍に処刑されましたが、赤ん坊は木の葉の里で育てられました。髪と瞳の色は父親譲り、顔立ちは母親そっくりに育ったそうです」
淡々とした口調で、カカシは続けた。
息苦しさを、イルカは覚えた。
「その子は自分の両親は死んだのだと聞かされて育ちました。でも或る日、自分の両親が何者なのか、本当の話を聞かされました」
自分の父親を＿＿霧の里の間者を捕らえる為に
何も言えず、イルカはカカシを抱きしめる腕に力を込めた。
カカシにこんな任務を与えるなど、酷な話だ。
だが同時にこの事で、カカシは身の潔白を証明できる。
「霧の里の間者は、本当に見事に行商人に成りすましていました。木の葉の里に来たのは２６年振りなので、気づかれる虞はないと思ったのでしょう。実は木の葉の側でも確たる証拠が無く、それで…彼の息子に任務を与えたのです」
静かに、カカシは続けた。
「間者としては優秀な男なんでしょうけどね、俺の顔を見せたら動揺したんです＿＿ほんの一瞬でしたけど」
「…それは…」
カカシの父親は、カカシの母親の事を今でも忘れていないのだろう。恐らく二人は真剣に愛し合っていた。だからこそ、カカシの父親は恋人に自分の正体を告げたのだろうし、カカシの母親は危険を犯して里を抜けようとしたのだ。
だがそんな事を言って、慰めになるとは思えない。
むしろ、カカシを苦しめるだけかも知れない。
幽かに、カカシは溜息を吐いた。
「……今頃になって急にこんな事言われても、俺、実感できないんです。捕らえた間者から『殺してくれ。せめてもの情けだ』なんて言われたって、殺す訳になんかいかないでしょ？」
「ええ…その通りです。あなたは忍として正しい事をしました」
「俺もそう思います。だから…誉めて下さい」
イルカに寄りかかるようにして、カカシは言った。イルカはカカシの頭を撫でた。
カカシがこういう子供じみた態度を取るのは、酷く弱っている時だ。だからイルカは、そういう時のカカシは気の済むまで甘えさせてやる。
「あなたは里の誇る立派な忍です。俺はあなたを誇りに思いますよ？」
「…俺もです、イルカ先生…」
二人はそうしてお互いを抱きしめたまま、いつ止むとも知れぬ雨の音を聞いていた。
１週間後。
受付所にいないイルカを探してアカデミーの裏庭に行ったカカシは、意外な相手と一緒にいるイルカを見つけた。
一緒にいるのは、森乃イビキ。
アカデミー教師と、暗部拷問尋問部隊隊長。
一見、何の接点もなさそうな二人が、親しそうに談笑している。
軽い嫉妬に眉を顰め、カカシは二人に歩み寄った。
「…それでは、明日にでも＿＿あ、カカシさん」
カカシに気づいたイルカは笑顔を見せたが、カカシはそれを無視するようにしてイビキに対峙した。
「俺のイルカ先生に馴れ馴れしくしないでよ」
「…寝言は寝てから言え」
「イルカ先生にちょっかい出したりしたら、殺っちゃうよ？」
「カカシさん…！」
静かに火花を散らす二人の間に割って入り、イルカは宥めるように言った。
「俺はただ、イビキ先生の仕事の手伝いを頼まれただけです」
「イビキの仕事？それって……」
「イルカ」
窘める様に言って、イビキはイルカを見た。
余計な事をカカシに話すなと、牽制しているのだ。
「済みません、イビキ先生。ここだけの話にしておいて頂きたいのですが……」
「…他ならぬお前がそう言うのならば、仕方あるまい」
イビキの言葉にイルカは安堵したような笑顔を見せ、まだ仕事がありますからと言って踵を返した。
「…どーゆー事だか、説明して欲しいね」
イルカの後姿が見えなくなるまで見送ってから、カカシは訊いた。
「イルカが言っていた通りだ。イルカに、尋問部隊の仕事を依頼した」
「何でイルカ先生にそんな事を？第一、尋問だの拷問だのはアンタ達の仕事でしょ？」
「その通りだ。俺の尋問にあって吐かないヤツなんぞ、滅多にいない＿＿つまり、極稀にはいるって訳だ」
そして、と、イビキは続けた。
「俺たちの尋問でどうしても陥ちない頑固なヤツがいる時には、イルカに要請を出す」
深い傷痕のある口元が、冷笑に歪む。
「イルカに尋問されて陥ちなかったヤツは、今まで一人もいないって訳だ」
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