慎重な手つきで、オラトリオは接続ケーブルの一本一本を、自らの身体に接続していった。何百回、何千回と繰り返した動作だ。それでも彼は、丁寧に接続の具合を確かめた。そして、深く息を吸う。 ダイブ・イン__ 忽ちの内に、意識は闇に包まれ、身体(ボディ)の機能が停止する。実際には停止では無く休止だが。それでも、プログラムが離脱した後の本体は、眠りよりも死に近い状態に置かれる。 どうでも良い、そんな事は。 今は、意識を集中しなければならない。電脳の、深い闇に。リンクという名の絆で結ばれている半身の、その「意識」に同調しなければ… 「お帰り、オラトリオ」 いつもの通り、穏やかに微笑んで、オラクルは言った。 「たでーま」 いつもの通り笑って言うと、オラトリオは相手を引き寄せた。そして、軽く口づける。 「疲れただろう?お茶をいれようか」 「ああ、頼むわ」 オラトリオは身体を投げ出す様にして、ソファに座った。そして、オラクルの後ろ姿を見送る。 お茶なんぞ、飲みたくも無い。 トルコ帽をテーブルに投げ出し、オラトリオは鈍い金色の髪をかき乱した。そうしながら、オラクルが戻って来るまでに、気持ちを落ち着かせようと思った。そしてすぐに、その考えが馬鹿げている事に気づく。 どこにいようと、オラクルはオラトリオを感じ取る事が出来る。口調や表情を、いくら取り繕っても無駄な事だ。 「アッサムで良かったかな」 程なく銀のトレイと共に、オラクルが戻ってきた。 「お前がいれてくれるんだったら、何でも」 伊達男らしいオラトリオの言葉に、オラクルはただ微笑した。そして、ポットからカップへと、紅茶を注ぐ。同時に、馥郁たる薫が、<ORACLE>のメインホールを優しく満たした。 軽く、オラトリオは眼を閉じた。 出張監査の間、ずっと懐かしく思っていた薫。<ORACLE>を__オラクルの側を離れている時間が長ければ長いほど、その想いは強まる。 オラトリオは、カップを取り上げ、両手に包み込むようにして持った。白磁のカップと、白絹の手袋を通じて伝わる温もり。穏やかに鼻孔を擽る安らぎ。口に含めば、ほのかな甘みが口中に広がり、体中に温もりを感じさせてくれるだろう。 だが… 「…どうかしたのか?」 カップを手に持ったままじっとしているオラトリオに、オラクルが聞いた。幾分か、不安そうに。 「何でもない」 笑顔を見せて、言う。まっすぐに見つめてくる視線が息苦しい。 「やっぱり疲れてるんじゃないのか?監査が予定より長引いたから」 視線を逸らし、紅茶を喉に流し込んだオラトリオに、オラクルが言った。 話し掛けないでくれ 「…大丈夫だ」 オラクルは自分のカップをテーブルに置き、オラトリオの額にそっと触れた。そして、乱れた前髪を優しくかき上げる。 「奥で休んだ方が良いよ。報告書は後でも構わないから」 視線を戻すと、オラクルは心から心配している様に、オラトリオを見つめている。オラトリオは、やっとの思いでオラクルの手を振り払うのを思い留まった。 「__そうだ…な。ちょっと休んで来るぜ」 言って、オラトリオは席を立った。 コートを着たまま、ベッドカバーの上に身を投げ出す。衣服に気を遣う必要は無い。所詮、CGなのだから。 天井を見つめ、何故、独りでこんな所にいるのかと訝しむ。予定より長引いてしまった監査をやっと終らせ、最愛の片翼のもとに帰って来たというのに。 答えは火を見るより明らかだ。彼がそれを望んだから。少なくとも、側にいて欲しいと、オラクルに言ったりはしなかった。 彼の望む事に、オラクルは応えてくれる。仕事中にちょっかいを出せば怒るし、プライヴェートルーム以外で肌を交わそうとすれば恥ずかしがって拒む。それでも、結局はいつも求めに応じる。放っておいて欲しい時には話し掛けても来ないし、独りになりたい時には一人にしてくれる。そして、他では決して得られない安らぎを与えてくれる。 これ以上の伴侶が望めるだろうか? 「…最低だぜ」 幽かに口元を歪ませ、オラトリオは嗤った。 抱きたければ抱けば良い。俺達は、愛し合っているのだから__そう、信じていられた頃は良かった。嫌、そもそもそんな事を信じたのが間違いの元だったとも言える。 間違い? オラクルを愛した事がか?それとも、オラクルに愛されていると思い込んでいた事が…? オラトリオは、ゆっくりと瞼を閉じた。疲労が、彼を眠りの淵へと引きずり込む。抗うのを止め、オラトリオは意識を手放した。 オラクルは暫くの間じっとプライヴェートルームの扉を見つめていた。それから、ティーセットのCGを消し去る。カウンターに戻り、処理すべきデータを呼び出した。 1週間ぶりで会えたのに… オラトリオが早々にプライヴェートルームに引き込んでしまったのが、物足りなく感じられた。別に、何を期待していたと言う訳でもないけれど。 それは嘘だ。 密かに、そして確かに期待していたのだ。苦しいくらいに強く抱きしめられ、乱暴な程、激しく愛撫される事。手土産にCGを構築してくれる事。監査先で何があったか、事細かに話してくれる事__その内のどれでも、それ以外の何でも良かった。 ただ、不在を埋める"何か"であれば。 オラクルは、データの流れを見遣った。こんな風にわざわざ視覚化する必要は無い。むしろ、無駄だと言える。側に、オラトリオがいる訳でも無いのに。 予定より遅くなりそうだ__ディスプレイ越しに言われた時、胸が苦しかった。オラトリオがわざと監査を長引かせているのではないかと疑い、即座にその考えを否定した。それから、精いっぱい微笑んだ。 ――判った。待っているから ――ああ…済まねえな 何が? オラトリオは、何かを謝罪しようとしたのか?そうだとしたら何を?そして何故? 「邪魔するぞ」 声を聞くより先に、コードの信号は捕捉していた。相変わらず、正規のアクセスパスを無視する「兄」に、オラクルは幽かに微笑みかけた。今は、コードの無作法を咎める気にもなれない。 「何か飲む?玉露?」 「ああ…。貰おう」 キッチンとして使っているコーナーに向かい、オラクルは必要なデータを呼び出した。そして、茶器のCGを構築する。正確に茶葉を計り、摂氏60度の湯を注いだ。 「…ひよっ子は奥か」 オラクルが漆塗りの盆に古伊万里の茶器を載せて戻ると、コードが聞いた。 「眠っているよ。疲れているらしくて」 おっとりと微笑んで、オラクルは言った。コードは湯飲みを受け取り、色合いと薫を堪能してから、玉露を口に含んだ。 「疲れているのは、お前も同じではないのか?」 「__え…?」 コードの言葉に、オラクルは聞き返した。確かに、このところずっと忙しかった。新規に預かるデータが一気に増えた上、厄介な検索要求が続いたせいだ。それに、オラトリオが出張に行っていたから、手伝ってくれる者もいなかった。 けれども、それはルーティンワークの一環でしか無い。 「どうして、コードにそんな事が判るんだ?」 「顔色が優れない」 言われて、オラクルは自分の頬に軽く触れた。 「変だったかな。CGの色調調整はちゃんとしている積もりだけど?」 コードは、黙ったままオラクルを見た。それから視線を逸らし、再び湯飲みを傾けた。 「ひよっ子は、そんな事にも気づかなかったのか」 「…だって…」 当惑したように、オラクルは言った。 「仕方ないよ。疲れているんだから」 玉露を飲み干し、コードは湯飲みをマホガニーのテーブルに置いた。不似合いな光景だ__そんな思いが、ちらと脳裏を掠める。 「余り、一人で背負い込もうとするな」 「…私は__」 「お前は、ひよっ子を甘やかし過ぎだ」 目が覚めた時、それまで夢を見ていたように感じた。馬鹿げた話だ。ロボットは、夢など見ない。 ゆっくりと身体を起こし、乱れた髪を手で梳く。 ぼんやりと、オラトリオは室内を見回した。仄かな灯かり。大きなベッド。清潔で、柔らかな肌触りのリネン。全て、オラクルがオラトリオの為に用意した物だ。オラトリオの疲れを癒し、ゆっくり休めるように、と。 「__は…」 自嘲めいた嗤いが、オラトリオの唇から漏れた。 ――気ィ遣ってくれてたんだな。奴なりにさ 少しばかりの照れと共に、誇らしげに言っていた「自分」を思い出す。虫唾の走るような記憶。出来るなら、消してしまいたい。 プライヴェートルームだけでは無い。巨大な図書館__神殿を思わせる__として具象化される<ORACLE>の姿も、オラトリオの為に用意されたのだ。そう、オラクルは言っていた。その言葉に嘘がある訳では無い。だが… 扉を開け、オラトリオはメインホールに出た。歩きながら髪を整える。そんな自分を、馬鹿馬鹿しく思いながら。 ホールは静かだった。いつもの事だが。そして、オラクルはカウンターにはいなかった。ゆったりしたソファに身を横たえ、眠っている。オラトリオは、オラクルの側に歩み寄った。 そっと、雑色の髪をかき上げる。オラクルも疲れていたのだろう。それならば、一緒に休めば良かったのに__そう思うと、オラトリオは苛立ちを覚えた。 ――寝るならちゃんとベッドを使ったらどうだ? 何度も、オラクルはオラトリオにそう言っていた。 ――お前の側にいたいんだよ いつも、軽く笑って、オラトリオは答えた。無論、彼がどこにいても、オラクルが同じ様に感知出来るのは判っているが。 手袋をしたままでは、オラクルの髪のしなやかさも感じ取れない__それを、馬鹿げた事だとオラトリオは思った。手袋をしていようが素手であろうが、所詮はCG。感覚は、データを元に再構築されたシュミレーションに過ぎない。 馬鹿げた感覚も、馬鹿げた感情も。 それでも、オラクルがソファで眠っている事が、オラトリオの神経を逆撫でした。彼を起こさないようにと気遣ったのだろう。けれども、そんな風に気を遣われるのは腹立たしい。あの男にならそんな他人行儀な真似はしなかっただろうと思うと尚更。 苛立ちは、たやすく嫉妬に変わった。 『あの男』 その言葉だけでも、オラトリオを苛むのに充分だった。オラクルが心から信頼し、全てを賭けて愛していた男。嫌…今でもその想いは変わらないのかも知れない。 ならば何故、俺を受け入れる? 答えは簡単だ。<ORACLE>の維持の為。オラクルに拒絶されたら、自分がどうなるのかオラトリオには判っている。現に今、オラクルが彼の隣にもぐりこむ代わりにソファで仮眠を取っているというだけで気持ちが乱れている。 無言のままコートを脱ぎ捨て、オラクルに覆い被さる。貪るように唇を奪い、ローブの下に手を入れて弄る。オラクルはすぐに目を覚まし、オラトリオの身体の下でもがく。抗議を聞きたくなくて、オラトリオは深い口づけでオラクルの言葉を奪う。その余りに一方的な仕打ちにオラクルは__ そこで、オラトリオは考えるのを止めた。下らないシュミレーション。自分には、出来るはずも無い事。如何に激情に駆られようと、愛されているのだという確信がなければオラクルを怒らせるような真似など出来ない。 オラクルに拒絶されたら…本当に、拒絶されてしまったら… 何より、恐れるのはその事。同時に、それを求めてもいる。 お前が愛してるのはあの男だろう?__俺では無く 是と答えられたら…? 否と答えられたら…? next/back |