(4)





イルカの部屋の灯りが消えているのを見て、カカシは幾分か安堵した。
こんな時間に突然、会いに行けばイルカは驚くだろうし、迷惑がるかも知れない。それに、暗部の衣装を身に纏ったままイルカに会う訳にはいかない。
だがイルカが眠っていれば、そしてその寝顔を見るだけなら、イルカに気づかれることも、煩わしてしまう心配も無い。
気配を消し、足音も立てずにカカシはイルカの部屋の窓に歩み寄った。入った事は無いが、寝室のある場所は判っている。
だが、寝室の窓はカーテンで厚く閉ざされていた。
カカシは諦めて引き返そうとした。が、このまま帰る気になれない。
僅かに躊躇った末、カカシは玄関に回ると、千本を使って器用に鍵を開けた。

こうやってイルカの部屋に忍び込むのは何度目だろう?__初めてそうした時の事を思い出し、カカシは幽かに苦笑した。
帰ってきたイルカは自分の家にカカシがいるのを見て酷く驚き、そして怒ったが、「どうしても会いたかった」のだと言うと、しまいには赦してくれた。何度も勝手に上がり込むと、イルカは呆れながらも慣れてしまったらしく、驚きも怒りもしなくなった。
それでも、自分がイルカに受け入れられているとは、カカシには思えなかった。礼節を重んじるイルカの事。内心迷惑だと思っていても、上忍に対しては遠慮があるに違いない。
軽い自己嫌悪を覚えながら、カカシは音もなくイルカの寝室に入り、横たわるイルカに歩み寄った。
カーテン越しの幽かな月明かりの中で、イルカは安らかな眠りを貪っていた。
普段は固く括っている髪を降ろしているせいか、別人のように印象が変わって見える。
カカシは、イルカの髪に手を伸ばした。
癖の無い、漆黒の髪。
軽く触れて指を絡めようとしたが、するりと零れ落ちる。もう一度、髪に触れようとした時、イルカが眼を覚ました。
「……!カカシ…先生?」
飛び起きるようにして上体を起こした相手に、カカシは驚いた。
イルカはよく眠っていて、眼を覚ます気遣いなど無いと思っていたのだ。
「…済みません。起こす積りは無かったんですけど__」
「じゃあ、一体どういうお積りだったんですか?真夜中に勝手に人の家に上がり込んで、あんたには常識ってものが無いんですか」
「……ごめんなさい…」
他に何も言えず、カカシは視線を落とした。
その消沈しきった姿に、イルカは虚を突かれた気がした。
目の前にいる男は暗部の衣装を身に纏っていながら、まるで幼い子供のように無防備だ。
「……カカシ…さん……」
「帰ります。もう、二度と来ません」
言うと同時にカカシは踵を返し、部屋から出て行った。
イルカが止める間も無かった。



「カカシ先生、最近、様子が変なんだってばよ」
翌日。
イルカはナルトにせがまれ、一緒に一楽でラーメンを啜っていた。
「何だか元気が無いし。かと思うと妙に苛々してるし」
「…お前たちにきつく当たったりするのか?」
イルカの問いに、ナルトは首を横に振った。
「言う事は前と変わんねぇし笑いもするけど、何か本当の笑顔じゃないんだってば」
ナルトの言葉に、イルカは以前のカカシを思い出した。
表面だけの、心の篭もらない作り笑い。
口布と額宛で、素顔だけでなく本心も隠そうとしていた。
「…最近って、いつ頃からだ?」
昨夜は言い過ぎたと思いながら、イルカは訊いた。
「よくわかんねぇけど、1週間前くらいからかな」
多分、カカシが自分を避けるようになってからなのだろうと、イルカは思った。
余所余所しくなったのは、カカシの方だ。
初めの頃イルカは、カカシの態度が変わったのは任務のせいだと思っていた。だがアスマからカカシの過去の話を聞かされ、単にカカシは自分に飽きたのではないかと考えるようになった。
だから昨夜、突然現れたカカシに、憤りを感じたのだ。
今まで付き纏っていたのはただ身体が欲しかっただけ。都合の良い相手なら、誰でも構わない__それがカカシの本心だったのだと思い、侮辱された気持ちだった。
けれども、昨夜のカカシはこちらが当惑するほど無防備だった__カカシが涙を見せた夜のように。

「…イルカ先生?」
黙り込んでしまったイルカの名を、ナルトは心配そうに呼んだ。
「どうしたんだってばよ」
「あ…嫌、何でも無い。それより早く喰わないとラーメンが伸びるぞ?」
「俺はもう、食べ終わってるってばよ」
ナルトの丼の中はすっかり綺麗になっていた。
イルカの方は、半分も手をつけていない。
思わず溜息を吐いてしまいそうになったのを、イルカは何とか押しとどめた。
昨夜、カカシが帰った後もカカシの事が気になって、殆ど眠れなかったのだ。そもそもカカシの現れる前から、暗部の任務に就いているカカシの心中を想い、寝つきが悪かった。すぐに眼が覚めたのも、眠りが浅かったからだろう。
それなのに、カカシを追い返すような真似をしてしまった。
アスマの話でショックを受けたのは事実だが、カカシの話も聞くべきだった。
「二度と来ません」と言った時の、カカシの哀しげな瞳が脳裏に浮かんで消えない。
思い出すと、胸が痛む。
「…カカシ先生の事は心配するな」
笑顔を見せて、イルカは金色の頭を撫でた。もう一度、カカシと話し合ってみようと思いながら。



「やっぱりね…」
誰もいない草原を前に、カカシは呟いた。
「俺は約束を守ってんだから、君もちゃんと出て来てよ」
ぼやくように言いながら、カカシには判っていた__あの少年に会えるのが、どんな状況の時なのかが。
一度目は夕方の逢う魔が時。二度目は夜だった。今は昼間だが、時間はおそらく関係ない。
一度目に会ったのも二度目の時も、任務の後だった。
正確に言えば、人を殺めた後。
誰かの血で武器を濡らした後に、決まってあの少年が現れたのだ。

俺に…何をさせたいんだ……?

カカシは、自分の手を見た。
他人の眼には見えない血で、赤黒く穢れている。
自分を恨み、呪って死んでいった者たちの憎悪の表情が眼に浮かぶ。
恐怖に打ち震え、命乞いをしながら死んでいった者たちの叫び声が耳の奥で木霊する。
十年以上も暗部にいたのだ。
殺した相手の数など数え切れない。
「呪いってヤツ…?それとも__報い…かな」
言って、カカシは幽かに嗤った。
矢張り自分には暗部が__血と死臭に塗れた闇の世界が__似合いなのだ。
長く里に留まるべきではなかったし、里に居続けたところで身に染み付いた死臭が消える訳でも無い。
そう遠からぬ内に、犯した罪を償う時が来るだろう。
ふと、イルカの髪の感触が蘇る。
ぎゅっと、カカシは手を握り締めた。
イルカに触れるべきでは無かったのだ。イルカに触れるには、自分の手は余りに穢れている。
イルカに近づいたのも間違いだった。所詮、自分は芯から暗部が相応しい男なのだ。イルカには、あの優しく情感豊かな人には似つかわしくない。
側にいれば、いつかきっとイルカを傷つけてしまうだろう。
だが、今ならまだ、間違いを正せる。
「…君との約束は守るよ」
少年の座っていた切り株に向かって呟くと、カカシは踵を返した。






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