(4)

それからというもの、俺はイルカ先生を避けた。
元々、受付所くらいでしか会う機会はないのだから、避けるのは簡単だった__物理的には。
好きになり始めた頃、イルカ先生に会いたくて受付任務のシフトを調べたのだ。あの頃は、あの人に報告書を受け取って欲しくて、任務が早く終わるように7班の連中にはっぱをかけたり、逆に上忍待機所で時間を潰したりして過ごしたものだった。
今はあの人と会うのを避けるため、こうして待機所で暇を潰している。
「ちょっとあんた、何やってるのよ」
いきなり不機嫌な言葉を投げかけられ、俺は読んでもいないイチャパラから視線を移し、相手を見た。
不機嫌そうに腕を組んで、紅がこちらを見下ろしている。
「何の話?」
「何の話、じゃ無いわよ。イルカ先生の事に決まってるでしょ?」
そうだろうとは、俺も思った。
俺がイルカ先生と付き合い始めた時、『騙されて弄ばれるイルカちゃんが可哀想』だと俺を罵ったのは他ならぬ紅だ。
「あんたのせいで皆、迷惑してるのよ。任務で疲れて帰ってきた時に、あの笑顔で『お疲れ様でした』って言われるのが、どれ程の癒しになってたか、改めて痛感してるわ」

紅の言葉で、俺は自然とあの人の笑顔を思い出した。
息が、苦しい。

「何があったか知らないけど、あんたが悪いに決まってるんだからとっとと謝っちゃいなさい。あの笑顔を曇らせた責任、きっちり取って貰うわよ?」
確かに、けじめはつけなければならないだろう__そう思いながら、俺は無言で席を立った。
「ちょっとカカシ、逃げる気?」
「調べ物をしなきゃならないのを思い出しただけ」
紅のほうに振り向きもせず、ひらひらと手だけ振って俺は言った。
「あんたがそんないい加減な態度でいるなら、私がイルカ先生を取っちゃうわよ?」
「……それも良いかもね」
「カカシ……?」
俺は不快な息苦しさを持て余したまま、待機所を出た。

この2週間の間、俺は何度かイルカ先生に会って、別れを告げようと思っていた。
イルカ先生のアパートの前まで行ったのに決心がつかず、引き返したのも1度や2度では無い。
俺はある時は自分の未練に苦笑し、ある時はそれを呪わしく思った。
だが紅に言われるまでも無く、こんな中途半端な状態をいつまでも続ける訳には行かない。
「カカシ先生…?」
資料室にいた俺に、声をかけたのはイルカ先生だった。
紅の奴が、俺の居場所を教えたのか?紅が、ここまでお節介な女だとは思わなかった。
だがお節介だと思うのは俺の奢りなのだろう。
俺はイルカ先生の笑顔を独り占めにした積りでいた。だがイルカ先生の笑顔は、誰のものでもないのだ。
側に近づいてきたイルカ先生の顔を良く見ると、驚くくらいやつれてしまっている。
これでは紅が怒るのも無理は無い。
「あの…お話ししたいことが……」
「……そうですね」
出来るだけ穏やかな口調で、俺は言った__イルカ先生を抱きしめて、2週間前の事は忘れてくださいと言ってしまいたい衝動と戦いながら。
「今夜……俺の家に来て頂けますか?」
「…伺います」
俺が答えた時、アカデミーのチャイムが鳴った。
イルカ先生は、授業の合間だったのだろう。まだ何か言いたい事があるようだったが、何も言わず、急いで資料室を出て行った。



その夜、俺はイルカ先生のアパートを訪ねた。
はっきりと別れを告げ、持ち込んだ荷物は持って帰る積りだった。
「上がって下さい。あの…すぐに夕飯の支度をしますから」
玄関先で突っ立っていた俺に、イルカ先生は困惑したような表情で言った。俺は笑顔を見せて__と言っても口布も額宛もしたままだが__首を横に振った。
「飯は結構です。話だけしたら、すぐに帰りますから」
「カカシさん、そんな……」
イルカ先生は苦しげに眉を顰め、僅かに躊躇ってから俺の口布を引き降ろし、唇を重ねた。それから俺の足元に跪き、服の上から俺を愛撫する。
どちらかと言えば消極的なあの人がそんな事をするのは初めてだった。
俺のズボンを下ろそうとしたあの人を、俺は止めた。
「立って下さい、イルカ先生。そんなんじゃ話も出来ないでショ?」
「話なんか聞きたくありません…!こんな一方的に……あんまりです…」
イルカ先生は普段の穏やかさとは別人のように取り乱した。
こんな風に取り乱すのは、俺の任務が長引いて帰りが遅れた時以来だ。
オビトが死んだ時にも、こんな風に取り乱したのだろうか?
そう思うと、俺の心は痛んだ。
「落ち着いて下さい、イルカ先生。…ね?悪いようにはしませんから」
俺はイルカ先生を抱きしめて、子供をあやすようにして宥めた。

「……すみません。取り乱したりして……」
暫くそうしている内にイルカ先生は落ち着きを取り戻し、俯いて言った。
俺たちは居間に入り、卓袱台を囲んで座った。
イルカ先生はお茶を淹れると言ってくれたが、俺は断った。
「こうやって会うのは、もう終わりにしましょう」
前置きも無く、俺は言った。
予想はしていたらしく、イルカ先生も今度は取り乱さなかった。
「…何故ですか?」
「お互いの為になりません。アナタは俺を愛していないし、それが判った今、アナタの側にいるのは辛いです」
「……何故……」
もう一度、イルカ先生は同じ言葉を繰り返した。
「あなたを好きで無かったら、あなたとこんな関係になる訳が無いでしょう?それなのに、どうして俺があなたを愛している事を信じてくれないんですか?」
「アナタが暗部にいた理由、俺に話してはくれませんでしたよね?」
俺の言葉に、イルカ先生は困ったように視線を逸らした。
「それは……里の機密に拘わる事なので……」
「アナタ、『裏』だったの?」
俺の言葉にイルカ先生は俺を見、それからまた、視線を逸らした。

俗に『裏暗部』と呼ばれる組織があるらしいとの噂は、俺の耳にも入っていた。
火影直属の組織であるだけでなく、暗部よりも更に機密度の高い任務を専門に扱い、その存在そのものが最高機密であるとか、秘密を護る為にその構成員は世襲であるとも噂されていた。
一説では、暗部ですらこなせないような汚れ仕事をさせる為の組織で、その構成員は『人』では無いとすら言われる。
噂は曖昧でその真偽は疑わしいが、イルカ先生が__と言うより黒鷺が__『裏暗部』だったとしたら、そしてその職位が世襲のものなら、いろいろな疑問が解ける。

「…それが里の最高機密に拘わるなら、恋人にも話さなくて当然ですよね。俺たちは、忍なのだから」
でも、と俺は続けた。
「オビトには、全てを打ち明けていたんでしょう?」
「里の機密に拘わる事なんですよ?誰にも話してなんかいません。それに、どうしてそんなにオビトさんに拘るんですか?とっくに亡くなった人なのに」
俺は答える代わりに額宛を外した。
吸い寄せられるように、イルカ先生は写輪眼を見た。
俺は卓袱台の下に隠して素早く印を組み、写輪眼を発動させた。一種の幻術で、これを喰らった人間は催眠術にかけられたようになり、本心を喋ってしまう。本来は尋問に使う術だ。
「オビトに拘っているのはアナタの方でショ?どうして、いつも俺の写輪眼ばかりを見るんですか?」
「…それは……」
イルカ先生は戸惑うように言葉を濁した。
が、既に目が虚ろになっている。術にかかった証拠だ。
「あの人が……オビトさんが必ず俺の元に帰ってくると約束してくれたから……どんな姿になっても…喩え姿が変わっても…と……」

なんて事だ

俺はその時初めて、親友を呪った。そして、オビトの写輪眼を俺に移殖した里を呪った。
イルカ先生は俺に移植されたオビトの写輪眼を見てオビトを偲んでいたどころか、俺の中にオビトを見ていたのだ。俺はイルカ先生にとって身代わりというよりむしろただの器で、オビトの写輪眼を生かし続ける為の道具でしか無かった。
「……オビト兄ちゃん……?」
夢見るような眼差しで、イルカ先生は俺を__嫌、オビトの写輪眼を見た。
「約束を…守ってくれたの……?」
躊躇いがちに伸ばされたイルカ先生の手を、俺は軽く握った。
「…そうだよ。イルカ」
「オビト兄ちゃん……!」
13の少年の心に戻って俺に抱き付いてきたイルカ先生の背に、俺は腕を回した。
そのまま、あやすように背中を撫でる。
「俺…ずっと待ってたんだ。必ず帰ってくるって約束してくれたから……。父ちゃんと母ちゃんは帰って来なかったけど、オビトはそれでも必ず帰ってくるって約束してくれたから……」
信じてた、と、イルカ先生は繰り返した。
「カカシから好きだって言われた時に、それはオビトの言葉なんだって思った」
「……どうして?」
「俺はカカシを殺そうとした事もあるのに、カカシが俺を好きになる筈なんか無いから」
無邪気な言葉が、真綿で首を絞めるように俺を苦しめた。
これ以上、聞きたくなくて、俺は「解」と唱えた。

「…俺…は何を……」
術の解けたイルカ先生は、驚いたように目を瞠った。
「それが、アナタの本心なんですよ」
「違います…!幻術を使うなんて卑怯だ」
俺が卑怯なら、アナタは残酷だ__内心で、俺は呟いた。
「どうしてこんなマネをするんですか?俺を嫌いになったのなら嫌いになったと、はっきり言われた方がずっとマシです」
「……嫌いになんか、なれません」
愛されてなどいないと判った今でも、嫌いになどなれない。
想いを、断ち切る事など出来ない。
「だったら……何故なんですか?確かに俺はオビトさんが好きでした。両親を一度に亡くして寂しかったし、誰かに縋りたかったんです」
でもそれは、とイルカ先生は続けた。
「恋愛感情とは別なものです。少年にありがちな年上の同性への憧れと孤独な境遇が生み出した、蜃気楼みたいな物でした」

アナタは残酷だ__もう一度、内心で俺は呟いた。
オビトは聡くもイルカ先生の本心に気づいていたのだ。だから必死に自分の感情を抑え、自分を慕う少年と深い関係になるのを避けた。
オビトは真剣にイルカ先生を愛していた。
だからこそ『蜃気楼』が消え、少年が現実に目覚めて自分から離れていく事を懼れたのだ。失えばその痛みが余りに大きいと判っていたから、手に入れようとはしなかったのだ。

「それでもアナタは、今でも『蜃気楼』を追っている」
独り言のように、俺は呟いた。
「…それは__」
「アナタの孤独は、俺では癒せない」
多分、オビトにも癒せなかっただろう。
イルカ先生の心の闇には13の孤独な少年が棲んでいて、今でも両親の帰りを待っているのだ。
「…そんな言い方では納得できません。俺と別れたいなら、俺を好きでは無くなったとはっきり言って下さい」
俺は、イルカ先生を見た。
純粋でまっすぐなところは、少年の頃から少しも変わらない。
そして純粋さとは、残酷なものだ__幼い子供が、時には残酷であるように。
「俺はね、オビトを殺したんですよ」
残酷な純粋さに答えるように、俺は言った。
「……何の話を……」
「オビトは俺が殺した。それが、事実です」



暗部には俺にライバル意識を燃やしている奴がいた。
ライバル意識と言うより、敵視していると表現した方が正しいと言える位、そいつの敵愾心は強かった。
そいつは名門の出で、本来ならオビト達とスリーマンセルを組んで四代目に指導を受ける筈だったのに、どこの馬の骨とも判らない俺のせいでその地位を手に入れ損ねたというのが俺を敵視する理由らしかった。
初めの内、俺はそいつを無視していたが、その態度が却ってそいつの敵愾心を煽ってしまったらしい。
そして俺も若かったから暴言を吐かれれば黙ってもいられず、二人の関係はどんどん悪化する一方だった。
暗部の部隊長は俺たちの敵愾心を利用しようとし、俺たちはしょっちゅう同じ任務に就かされた。
部隊長の思惑は当たり、俺たちは互いに相手を出し抜こうと功を競い、かなりの戦果を上げた。
そして、俺たちの関係は険悪などという言葉では表現できないほど、酷いものになってしまっていた。

そんな或る日、そいつが急に俺に挑みかかって来た。
そいつの恋人を俺が寝取ったと言うのが理由だ。
その頃の俺は節操とか倫理とかいう言葉とは無縁だったから、誘われてそれなりに気に入れば誰とでも寝た。その中にそいつの恋人とやらもいたのかも知れないが、俺を誘ったくらいだから恋人だと思っていたのはそいつだけで、相手はそうは思っていなかったのだろう。
俺がそう言ってやると、そいつはますますいきり立って俺に攻撃を仕掛けた。
忍同士の私闘は無論、禁じられている。
が、尻尾を巻いて逃げるなど、あの頃の俺には出来なかった。
それでも、奴が本気で俺を殺そうとしていると気づいた時、プライドを棄てても戦いを止めるべきだった。
だが俺は顔を斬られ、逆に理性を失った。
あの時、オビトが止めに入っていなかったら、きっと俺たちは二人とも死んでいただろう。

オビトのお陰で俺は死ななかった。
そして、俺の雷切をまともに喰らったオビトが死んだ。

殺気を察知して駆けつけた暗部は、状況を把握するなり迅速な行動に出た。
オビトの写輪眼を摘出して、左目を失った俺に移殖したのだ。
今思えば、オビトが致命傷を負った時に写輪眼を摘出する事は、以前から決まっていたのだろう。オビトに限らず、血継限界を持つ忍の死には、そういう残酷な儀式が付き纏う。
俺は私闘を行った咎を受けなかった。
嫌、オビトの写輪眼を受け継ぐ事が、俺に下された罰だった。少なくともあの頃の俺には、そうとしか思えなかった。
俺は鏡を見るたびに罪悪感に苛まされ、薬の副作用に苦しめられた。
あの頃の俺はボロボロだった。
そしてイルカ先生も、同じように辛い時期を過ごしたのだろう。
そうでなければ、あれだけの実力がありながら、暗部を辞めてから中忍になるまで2年以上もかかった筈が無い。
俺はオビトを殺し、イルカ先生を苦しめた。
その俺が、イルカ先生の恋人でいられる訳が無い。



「そ…んな……嘘です……」
俺の話を聞き終わったイルカ先生は、呆然として俺を見つめた。
嘘であれば良いと、俺は心から思った。
「残念ながら、これが真実です。毎朝、慰霊碑に行くのは自分を戒める為だと、前に話したでしょう?」
「……そ…んな……」
魂を抜かれた者の様に、イルカ先生は繰り返した。
その漆黒の双眸は、俺もオビトの写輪眼も見てはいなかった。
俺は自分の荷物をまとめると、イルカ先生のアパートを出た。






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