(2)
俺がその事に初めて気づいたのは、恋人同士の濃密な時間を過ごした夜の事だった。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。
あの人は俺の左目の上の傷痕を指先でなぞり、閉じた瞼に何度も口付けた。
「くすぐったいです」
俺は陽だまりの中で眠る猫のように満たされた気分で言った。
「凄く綺麗な色なので、つい…」
「…写輪眼がですか?」
意外に思って、俺は聞き返した。
藍に近い空色の瞳を綺麗だと言われた事はよくある。そしてそれが俺の生まれ持った瞳の色だ。
だがイルカ先生が綺麗だと言ったのは、写輪眼の方だ。
「…気色悪いとか不気味だと言われたことはあっても、綺麗だと言われたのは初めてですよ」
「俺は、好きです」
どこか恍惚とした眼差しで俺の左目を見つめ、あの人は言った。
そして、瞼に口付けを繰り返す。
「それでも最初にこれを見た時は驚いてたでショ?」
何となくこそばゆい気持ちになって、俺は言った。
イルカ先生は困惑したように俺を見た。俺は、余計な事を言ったと後悔した。
「…そろそろ寝ましょう。明日も早いですから」
俺はイルカ先生を抱き寄せて、目を閉じた。
初めてイルカ先生に俺の写輪眼を見せたのは、イルカ先生に何度目かの求愛をした時だった。
あの人は俺の言葉が信じられない、本心で言っているのならば、ちゃんと顔を見せてくださいと言った。
俺は口布を下ろし、額宛も取った。
あの人は驚いたように俺の顔を__と言うより俺の写輪眼を__見つめた。
――――ゴメンナサイ。気持ち悪いでショ?
謝った俺に、あの人は「いいえ」と言ったようだったが、言葉にはなっていなかった。
俺は、改めてあの人に向き直った。
――――包み隠さぬ俺の本心です。アナタを、愛しています。
――――考えさせてください……。
暫く躊躇った後、視線を落とし、あの人は言った。
――――考えれば答えが出るんですか?気持ちの問題でしょう?
――――気持ちの…整理をしたいんです。
俺はあの人を抱き寄せた。あの人は驚いたように俺を見た。
それまでだったら、あの人は俺の手を振り払っただろう。
だがあの時には、あの人は俺を振り払わなかった。
俺は、あの人に口付けた。
――――俺の気持ちはお伝えしました。
アナタの返事を待っています__言って、俺はあの人を離した。
俺たちが結ばれたのは、それから2週間後の事だった。
翌日、イルカ先生はいつも通りだったので、俺もその事はすぐに忘れた。
別に、拘るような事ではないと思ったのだ。
だがそれからというもの、俺はイルカ先生がいつも俺の左目を見つめているように感じ始めた。
外で額宛をしている時には別だ。
他の者が皆そうであるように、イルカ先生も俺の右目を見て話す。顔の露出している部分が右目だけなのだから当然だろう。
だが家に帰って二人きりでいる時、俺は口布も額宛も外している。
そしてそういう時に、あの人が見るのは俺の左目だけなのだ。
初めは気のせいかと思った。
気のせいでないにしろ、別にどうでも良い事だとも思った。
けれども俺には何かが引っかかった。それで或る日、イルカ先生に訊いてみた。
「イルカ先生、俺の写輪眼が気になるんですか?」
「……え……?」
「だっていつも、俺の左目ばっかり見てるでショ」
笑って、俺は言った。けれどもあの人は視線を逸らし、口を噤んでしまった。
俺は内心、狼狽し、そして幾分か不安になった。
「やっぱりこれ、気持ち悪いですよね」
「違います!そんな事…ありません」
額宛で左目を隠そうとした俺を、イルカ先生は止めた。
そして、酷く哀しそうな眼で俺を見る。
どうしていいか判らず、俺は口を噤んだ。
「…俺、風呂入れて来ますね」
言って踵を返したあの人の後姿を、俺は為すすべも無く見送った。
俺はあの人が打ち解けてくれたのだと思っていた。
だが俺たちの間には触れてはいけない秘密がいくらもあるのだと、改めて思い知らされた。
それでもまだその時には、俺はあの人に愛されているのだと信じていた。
数日後、俺は予定より早く家に戻った。7班の任務が、早めに終わったのだ。
俺は食料などを買い込んで家に帰った。イルカ先生は先に戻っている筈だ。
普通に家に入れば良かったのだが、その時、俺は気配を消し、音も立てずにイルカ先生のアパートに入った。どうしてそんな事をしたのか覚えていないが、ちょっと驚かせたかったとか何とか、他愛も無い理由だったに違いない。
イルカ先生は寝室に居た。
そして、俺が持ち込んだ写真立てを見つめていた。
「…イルカ先生?」
「……!」
イルカ先生は驚いて写真立てを落とした。
「す…済みません!大事な物なのに……」
あの人は俺に謝り、慌てて写真立てを拾い上げた。幸い、ガラスもフレームも無事だ。
それなのに、あの人はひどく狼狽していた。
「…その写真が、どうかしたんですか?」
「……え……?」
「初めてその写真を見た時にも、今みたいにじっと見つめていましたよね」
写真は、20年くらい前の物だ。
俺たちの先生だった四代目と、スリーマンセルの仲間が写っている。
「俺はただ、子供の頃のカカシ先生がすごく可愛いから……」
「その頃には、まだ写輪眼じゃ無かったですけどね」
俺の言葉に、イルカ先生は意外そうな表情でこちらを見た。
俺自身、何でそんな事を言ったのか判らない。
20年前の俺は、まだ写輪眼を持っていなかった。隣に写っているオビトが、俺の写輪眼の本来の持ち主だ。
オビトが死んだ時に、俺はオビトの写輪眼を移植された。
それから暫くは、地獄のような日々だった。
俺はオビトの死に責任を感じ、罪悪感でズタズタになった。
そんな状態では任務に差し支えると言って、上層部は俺に抗欝剤を投与した。その他にも移殖された写輪眼に拒絶反応を示さないように何種類かの薬を投与され、薬の副作用を押さえる薬を更に投与された。
あの頃の俺は、文字通り身も心もボロボロだった。
何かを考えるのが辛くて、休む間もなく任務に打ち込んだ。何とか写輪眼が使えるようになると、狂ったように大量の技をコピーし、しょっちゅうチャクラ切れで倒れていた。
俺がビンゴブックに載るほど有名になったのは、強さよりもあの当時の悪鬼のような残忍さのせいだったに違いない。
そんな俺の唯一の心の支えは、黒鷺の思い出だった。
あの子が護ろうとしている里ならば、あの子のいる里ならば、俺も護りたいと思った。
任務がどれほど残酷でも、その手段がどれほど汚くても、里を護る為に必要なのだと思えば少しは救われた。
尤も、そんな風に考えられるようになったのは、落ち着き始めてからだったが。
「皆…あなたの大切な人達だったんですよね」
改めて写真を見つめ、イルカ先生は言った。
「ええ…。皆、逝ってしまいました」
温もりが欲しくなって、俺はイルカ先生を抱き寄せた。
イルカ先生は俺の背に腕を回し、抱きしめ返してくれた。
「俺もアナタも大切な人たちを喪いました。でも今、俺にはアナタがいて、アナタには俺がいる」
「…カカシさん…」
イルカ先生は、俺の背に回した腕に力を込めた。
イルカ先生の身体の温もりが、心地良い。
俺は写真の事も写輪眼の事も忘れ、その心地よさに身を委ねた。
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