(6)


カカシはゆっくりと『イルカ』に歩み寄った。そして自分が何をしようとしているのか判らぬまま、『イルカ』の傍らに膝を付いた。
抱き起こすと、まだ幽かに息がある。
「……イルカ…先生……?」

呼びかけると、『イルカ』がうっすらと眼を開く。
それが偽りの名だと判った今でも、反射的に唇を漏れたのは何度も繰り返し呼んだ愛しい名だ。
重症だが、医療術を施せば生命は助かるかも知れない。
だが、その後は……?

「どうして、一緒に暮らしていた頃に俺を殺さなかった?簡単に俺を殺せる機会は、幾らでもあったのに」
言ってしまってから、カカシは後悔した。

一体、どんな言葉を期待しているのだ?

『イルカ』の漆黒の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。別れを告げた日に見たのと同じ、綺麗な涙だった。
「何で…アナタが泣くの?」
「…んたが…馬鹿だから……」

それは最初の問いへの答えであるようでもあり、そうでは無いようでもあった。
胸が痛むのを、カカシは感じた。比喩ではなく、物理的な痛みだ。
『イルカ』の胸をクナイが深々と刺している、その同じ場所に痛みを覚えた。

「…安心して」
カカシの言葉に、『イルカ』が意外そうに眼を瞠る。
「長く苦しませたりはしないから」
「……頼む……」
覚悟を決めたらしく、『イルカ』はゆっくりと目を閉じた。
そしてカカシは、『イルカ』の胸を貫くクナイに手をかけた。


















深い沼底から浮上するような感覚に、『イルカ』はもがいた。
呼吸が、苦しい。
押さえつけられているような重苦しさから逃れようと手を振り回す。
不意に、温かい何かに触れた。
それが何なのか確かめようと、『イルカ』は重い瞼を上げた。
「気がつきましたか」
眼の前には、藍色の瞳と紅の瞳。
優しげな微笑を浮かべた白い貌。
「__なっ……!」
咄嗟に半身を起こそうとし、胸に走った激痛に『イルカ』は眉を顰めた。
「動かないで。まだ起きちゃダメですよ?」
「…どうして……ひと思いに殺すのは止めて、尋問部に引き渡す気か?」
「まさか」
短く言うと、カカシは『イルカ』をベッドに横たえ、毛布をかけ直した。
「順を追って説明しますから、落ち着いて聞いてくださいね?興奮すると傷に触りますから」
『イルカ』の手を軽く握ったまま、カカシは続けた。
「アナタは5年前のAランク任務の時に雨隠れの里で捕らえられ、洗脳されたんです。そして、自分が雨の里の草だと信じ込まされた」
「……何をバカな__」
「5年前にアナタが任務中に敵に捕らえられた事、それから2ヵ月後に生還した事が、記録に残っています。無論、アナタの記憶は消されたでしょうが」

ベッドに横たわったまま、『イルカ』はゆっくりと息を吸い、そして吐いた。
消毒薬の匂いが鼻につく。

「…そんな作り話をして何の意味がある?」
「記録は本物ですよ」
「だとしても__だとしてもそれは本物のうみのイルカの記録であって、俺は……」

『イルカ』は視線を逸らせた。
熱っぽくて身体がだるい。
息が苦しい。
まともに頭が働かない。

「…ね、『うみのイルカ』は三代目火影のお気に入りだったんですよ?その『うみのイルカ』が殺されて他の誰かが成り済ましたのに、火影様が気づかなかったなんてあり得ると思いますか?」
「…それは……」
カカシは『イルカ』の額にかかる髪を、そっとかき上げた。
「アナタは、雨の里に『帰り』たいんですか?会いたい人や、懐かしい場所はあるんですか?」

『イルカ』は、ゆっくりと首を横に振った。
帰る場所など何処にも無い。
雨の里にも、
木の葉の里にも。

「……もし…今のあんたの話が本当だとしても…俺は5年の間、ずっと雨に木の葉の情報を流し続けて来た。その罪は__」
「アナタに罪はありませんよ。それに、アナタに対する罰はもう、下っています」
相手の言葉に、『イルカ』は不安げに表情を強張らせた。
その不安を宥めるように、カカシは『イルカ』の手を撫でた。
「当分の間、軟禁。身柄は、俺が預かります」

『イルカ』は黙ったまま、眼の前の男を見上げた。
自分が意識を失っている間に、この男がどれだけ奔走したか、手に取るように判る。

「…どうして…?何故、今更俺を庇ったりするんですか?あんたは俺を棄てたのに……」
「…心外だ」
幽かに、カカシは眉を顰めた。
「でも、ごめーん、ネ?アナタを哀しませたくなかったからアナタと別れただなんて、身勝手すぎたよね」
「……カカシさん……」
「アナタが俺より先に逝ってしまう可能性を、俺は考えていなかった。アナタが内勤だからとかじゃなくて、俺の意識が考える事を拒否してた」

カカシは『イルカ』の手を引き寄せ、指先に軽く口づけた。
いつもは温かかった手が、今は、冷たい。
危うくその温もりが永遠に失われる所だったのだと思うと、カカシは背筋が寒くなるのを感じた。

「アナタは俺を忘れて他の誰かと幸せになって、俺は全てのしがらみを断ち切って『獣』に戻る__それが、お互いの為だとあの時は思ったんです。」
でも、とカカシは続けた。
「眼の前でアナタが死に掛かっているのを見た時、俺には…耐えられなくなった」
泣き笑いのような表情を浮かべ、カカシは言った。
『イルカ』の、漆黒の瞳が潤む。
「…あんたはそんな弱音は吐かない人だったのに……本当は辛いくせに、弱みを晒さない意地っ張りだった癖に……」
「…うん、ゴメン」
「あんた、本当に……馬鹿だよ」
「…うん」
『イルカ』の漆黒の瞳から、幾筋もの透明な滴が零れた。
カカシは『イルカ』を抱きしめ、そして、唇を重ねた。






俺の傷は思ったより深く、当分は病室に軟禁される生活が続くだろう。
はたけカカシは暗部の任務に戻ったのであれ以来、会っていない。
言伝がもたらされる事も遣い鳥が来ることも無い。
それでも俺は、不思議と孤独を感じなかった。
木の葉の里に潜入して以来、ずっと孤独だった。嫌、雨の里にいた時も、ずっと。

それが偽りの記憶なのか本物の記憶なのか、俺には判らない。

『うみのイルカ』が雨の里に捕らえられていたという記録が本物だとしても、それは俺がうみのイルカだという証拠にはならないし、その逆もしかりだ。
記憶とは曖昧で移ろい易い。
記憶操作術など使わなくとも、先入観は記憶を歪めるし、感情は記憶の色合いを変える。

今の俺に判るのは、ただ一つだけ。
あの男が__カカシさんが__俺を想っていてくれるなら、俺は『うみのイルカ』でいられる。

そんな蜘蛛の糸より危ういよすがに縋る俺は、つくづく愚かだと思うけれども。
それでも俺は、あの強くて意地っ張りで甘えん坊で寂しがり屋の野良猫が戻って来たら、『お帰りなさい』と言ってやろうと思う。

今度こそ、心から笑って。











Fin.



後書のような物
カカシがイルカに別れを告げ云々はふゆきさんの『樹海の糸』から設定をお借りしましたが、その後は勝手な捏造です。
最初は死にネタだったんですが、『イルカ』さんを不幸にしたくなくてぐーるぐると悩んで二ヶ月(!)以上も更新、ほったらかした挙句にこうなりました;
珍しくハッピーエンドで書いた本人が驚いてます(をい;;)
ぢつは最後に、『イルカ』の生命を助ける代わりに全ての記憶を消去する、とカカシが綱手と約束した…というエピソードを付けようかとも思いましたが、それだとやっぱり『イルカ』さんが不幸なので止めました。
蛇足ながら、不幸バージョンはこちら。

BISMARC




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