(5)

微動だにせず、『イルカ』はカカシを見据え続けた。
肩に千本を生やしたまま倒れているカカシはぴくりとも動かず、生命反応も感じられない。
それでも『イルカ』は動かなかった。
ただ、横たわる相手を見つめる。
やがて、『イルカ』は馴染みのある配を感じ、眉を顰めた。
「何をぼうっとしている。巻物は手に入れたのか?」
『イルカ』はたった今、現われた相手を見、それから視線を逸らした。
「あんたも少しは動いたらどうだ。何もせずに報酬だけ受け取る気か?」
「ここまでのお膳立てをしてやったんだ。充分だろうが」
後から現われた男はぼやきながら、地面の上に横たわるカカシに歩み寄った。
「巻物ならこっちだーよ」
背後からの声に、『イルカ』ともう一人の男は同時に振り向いた。
二人が振り向くのと、クナイが空を切ったのが殆ど同時だった。

その光景は、カカシの目にスローモーションのように映った。

驚いたように見開かれた眼。
まっすぐにこちらを見つめる黒曜石の瞳。
鋭利な鉄が肉を切り、骨を砕く鈍い音。
ゆっくりと、崩れるように倒れる『イルカ』の姿。

まるで、自分が深手を負わされたかのような痛みと吐き気に、カカシは眉を顰めた。
ゆっくりと息を吸い、吐いてからカカシはもう一人の男見据える。
男は『イルカ』を盾にして、己の身を護ったのだ。
「アンタが…暗部中枢に潜り込んだ獅子心中の蟲だったとはな」
暗部総帥に対峙し、カカシは言った。




初めてはたけカカシに求愛された時、俺は自分の正体に気づかれたのかと思った。
だがあの男はそんな素振りは全く見せなかった。何度も食事や酒に誘われるうちに、あの男が本気で求愛しているのだと気づいた。
俺は迷った。
元暗部のエリート上忍の側にいれば、アカデミーの生徒や同僚たちからでは得られない貴重な情報が手に入るかも知れない。だが、同性で格上の相手の求愛を受け入れるのは、『うみのイルカ』らしく無い。
迷った末、俺はあの男の求愛を拒んだ。だが、あの男は諦めなかった。何度断っても、何度でも求めてくる。
食事や酒だけなら断る理由が無かったので、その誘いには応じた。俺はあの男の執拗さに呆れながら、いつしかあの男と過ごす時間を楽しむようになっていた。
そんな自分の気持ちに気づき、俺は動揺した。
俺の動揺に気づいたあの男は、それに付け込んで半ば強引に俺を手に入れた。嫌、強引だったのは初めだけだ。巧みな愛撫と甘い言葉、何よりあの男の笑顔に、俺は呆気なく陥落したのだ。
そして、関係は続いた。
あの男は任務の機密に拘わることは一切、喋らなかった。それでも、側にいて親密な時間を過ごせば、それなりの情報は得られる。

──────アナタの、笑った顔が好き。
俺は『うみのイルカ』のように晴れやかには笑わない。
──────よく気がついて思いやりがあるところが好き。
子供の頃から周囲の者たちの顔色を伺って過ごして来た。孤児根性って奴だ。
──────純粋で頑固でまっすぐなところも好き。
俺には『自分』なんてモノが無い。だから、どんな役でも演じられる。
──────アナタが、好き。
馬鹿だよ、あんたは。

あの男の笑顔を見る度に、俺は内心の苛立ちを抑えるのに苦労するようになった。それでも、俺は里に情報を流し続けた。
そうする事で、俺は多分、はたけカカシの側に居続る事を正当化していた。

はたけカカシを暗殺せよとの命令を受けた時、来るべきものが来たのだと、俺は思った。
はたけカカシに全てを打ち明けるという馬鹿げた考えは、浮かぶと同時に消えた。それは、情事の時に本当の名を呼んで欲しいと思うのと同じくらい、馬鹿げている。
俺は、『うみのイルカ』ならばどうするだろうと考えた。
恐らく、『うみのイルカ』ならば命令どおりにはたけカカシを殺すだろう。『うみのイルカ』は里を護って死んだ両親を誇りに思っている。そして自身も里の為とあれば、何でもするだろう。
『うみのイルカ』ならばはたけカカシを殺す。そして、後を追うだろう。
けれども俺には出来なかった。
俺は、『うみのイルカ』では無いから。

はたけカカシとの間に特別な関係がある事を、俺は里に報告しなかった。ただ単に、ナルトを通じて元・担任と現・上司の間柄で、度々一緒に飲みに行く程度には親しいとだけ報らせていた。
ナルトに慕わせるように仕組んだのは、里の命令に従っての事だ。
その為に敢えて怪我までして、ナルトの底力を試した。
それ程、里の命令には従順な俺が、はたけカカシとの関係は隠した。
理由など無い。
ただ、報告する必要は無いと思っただけの事だ。
けれどもどうやら俺とはたけカカシの間の関係は里に知れていたようだ。恐らく、はたけカカシを監視する為に、俺とは別の誰かが送り込まれていたのだろう。
俺は白を切って、はたけカカシの暗殺命令の実行を先延ばしにした。
理由など無い。
ただ、俺にははたけカカシが殺せなかった__それだけの事だ。



──────アナタの中の俺を殺して下さい。

突然、言い渡された別れに、俺は為すすべも無かった。こんな日がいつか来るのだと理性では判っていた。だが、あんな風に突然にとは、思ってもいなかった。
はたけカカシを失った俺は、『うみのイルカ』であり続ける事が出来なくなっていた。
笑わなくなり、同僚や生徒たちから心配された。教師を続ける自信が無くなってアカデミーを辞めたいと申し出ると、暗部への配属を命じられた。
暗部で俺は、何も考えずに任務を遂行した。
大名の御落胤の幼子を暗殺した時にも、何も感じなかった。『うみのイルカ』ならば心を痛めただろう。
けれども、俺は『うみのイルカ』では無い。
やがて、はたけカカシを殺害して禁術の巻物を奪い、里に帰還せよとの命令が下った。
何も考えずに首を縦に振った少年の頃のように、俺は命令に従った。




「影分身か…流石だな」
肩を千本で射抜かれた『カカシ』が眼の前で消えるのを見ながら、暗部隊長は呟いた。
「罠なのがみえみえなのに何の手立ても講じずにのこのこついてく訳が無いデショ?それより__」
倒れ伏す『イルカ』の姿に、カカシはある種の憤りを感じた。
「仲間を盾にするなんて、アンタ、忍の屑だな」
「仲間なんぞじゃ無い」
言葉と共に隊長は素早く印を組み、術を発動させた。カカシは地面を蹴って跳び、攻撃をかわしながら印を組む。
「火遁、紅蓮華!」
たった今、『イルカ』からコピーしたばかりの術だ。
隊長は余裕の表情で炎を避けた。
「何処、狙ってやが__何……!?」
炎はまるで生き物のように隊長の後を付け狙う。カカシは『イルカ』が立っていた場所に移動し、それと殆ど同時にクナイの雨が隊長を襲った。
「矢張り、そうか」
口の中で、カカシは呟いた。
この森に仕掛けられたトラップは、踏みつけたり縄に足を引っ掛けた時に発動するような幼稚な子供だましとは違う。恐らくは熱に反応して作動し、どこまでもターゲットを追尾する紅蓮華と連動して執拗に相手を追い詰める。
幽かに、カカシは口元を歪めて苦笑した。
紅蓮華は強力な術だが、ターゲットのチャクラに反応させる為には、その相手のチャクラをよく知っている必要がある。
つまり、裏切り者を始末するか、自分が『仲間』を裏切るか、そのいずれかの状況でしか使えない。
「ぐぅっ……!」
腕を数本のクナイで射抜かれた隊長の背後に素早く移動すると、カカシは金縛りの術で相手の動きを封じた。


「…暗部隊長ともあろうアンタが、何故、里を裏切った」
「暗部隊長だからこそだ」
カカシの問いに、隊長は憎憎しげに言うと、カカシの足元に唾を吐いた。
「貴様も暗部は長かったんだ。暗部がいかに割りの合わない役職か、良く知っている筈だ」
火影直属のエリート集団。
だがそれだけに危険な任務が多く、心身両面を蝕まれる。
それに耐えられなくなって去る者も少なくなく、殉職者も多いことから暗部の構成員は異動が激しい。カカシやこの隊長のように長く暗部に勤めた者はごく少数だ。
「一度、暗部の飯を喰ってしまったら今更、内勤になんぞ戻れない。だが暗部なんぞやってられるのは若いうちだけだ。戦場で死にたくなかったら早々に引退して、為すべき事も収入も無い無為な日々を惨めに過ごすだけ__俺はそんなのは御免だ」
「だから?重要機密に拘わる事の多い暗部の立場を悪用して、情報を敵に売ってたのか?」
隊長は口元を歪めて嗤った。
「いい稼ぎになったぜ。これを最後に里抜けして、優雅に暮らす積りだった」
「抜け忍に安息など無い」
「今の木の葉に抜け忍にかかずらわる余裕があるとでも思うのか?」
隊長の言葉に、カカシは答えなかった。
確かに今の木の葉の状況では、抜け忍を追う余裕は少ない。

「……あの人は、お前の仲間でなければ何だ?」
倒れている『イルカ』を瞥見し、カカシは訊いた。
「…雨の里の草だ。腑抜けた野郎だった」
「腑抜けだと?」
「貴様を始末するように命じられていたのに、命令に従わなかった。貴様とは寝てたんだろ?寝首を掻くなり毒を盛るなり、機会は幾らでもあった。奴が貴様を始末してればこんな事には…!」
吐き棄てるように、隊長は言った。
金縛りの術で動きを封じられていなければ、地団太を踏んでいたところだろう。
「俺は裏切り者の始末も雨の里から依頼されていた。だからあの草と貴様を始末し、同時に巻物を奪って俺には疑いがかからないシナリオを作ったって訳だ。上出来だったろう?」
これから己の身に起こる事に対する恐怖の故か、或いはカカシを動揺させて逃れるチャンスを得ようとしているのか、暗部隊長はその地位に似つかわしくなく無様に喚き続けた。
目的が後者だったとしたら、その効果は無かった。
カカシは冷静だった。と言うより、心が冷えていた。
あたかも、感情が麻痺したかのように、何も感じなかった。
そして、黙したまま『イルカ』を見下ろした。




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