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それからは毎週木曜日の昼休みを、オラトリオはオラクルと共に過ごすようになった。いつも一緒に食べようとオラトリオが誘うと、オラクルは怪訝そうにしながらも断らなかった。
そうして何度目かの昼食を共にしながら、オラトリオはオラクルを美術館に誘った。美術館がどんなところなのか、オラクルは知らなかった。絵が沢山あるところだというと、興味を示し、オラトリオの誘いを受けた。
話すうちに、オラクルがひどく閉鎖的な環境で育ったのが判った。自分の生まれた建物の外に出た事は余り無く、一人で外出する事も滅多になかった。と言うより、コードの所から逃げ出すまでは、一人で外出などした事が無かったのだ。
オラトリオは、病弱な為、病院とサナトリウムの他の世界を殆ど知らなかった従兄弟を思い出した。海に行ったのもたった一度だけ__それも亡くなる数日前だった。
「今度は遊園地ってとこに行ってみたいな」
美術館の帰りに、オラクルは行った。
「それと動物園」
幼い子供のようなオラクルの言葉に、オラトリオは軽く笑った。知能障害がある訳でも無さそうなのに、言う事が妙に子供っぽいのだ。閉鎖的な環境で育てられたのがその理由なのだろうとオラトリオは思い、オラクルの無垢さに好感を覚えた。
その日も、オラトリオはオラクルと一緒に病院のカフェテリアで食事をしていた。
その日、オラトリオは夜勤明けだったから、本来なら1分でも早く帰って眠りたいところだ。が、オラクルと共に過ごす為なら、睡眠時間を犠牲にするなど何の苦にもならなかった。
次にどこに遊びに行くかを、二人は話していた。初めオラトリオを警戒していたオラクルも、遊園地や動物園では子供のようにはしゃぎ、時には笑顔を見せるようにもなっていた。
見蕩れるほど奇麗なその笑顔は、従兄弟のオラクルを彷彿とさせた。
「クォータは、あまり遊びに連れていってくれないんだ。仕事が忙しいからって」
サラダをつつきながら、オラクルは言った。オラトリオは苦笑した。
「俺だって暇な訳じゃねえんだぜ?今だって徹夜明けだし」
「本当に?だったらどうして…」
「少しでもお前と一緒にいたいからだ」
まっすぐに相手の目を見て、オラトリオは言った。普通なら恋心の告白と取って当然のその言葉に、オラクルはただ、不思議そうに小首を傾げただけだった。
オラトリオはそれ以上、踏み込むのは止めて、集めておいたパンフレットをテーブルに並べた。
「ちょっと遠いけどな、ここの遊園地も面白そうだぞ。植物園もあるし」
「俺様の弟をどこに連れて行く気だ?」
殆ど同時に、オラトリオとオラクルは声の主を見た。
30代半ば。細身で切れ長の目。猛禽を思わせる、琥珀色の瞳__
「__コード…」
オラクルの声が震えた。白い頬が忽ちのうちに蒼褪める。
「大丈夫だ、オラクル」
宥めるように言って、オラトリオは素早く席を立ち、庇うようにコードとオラクルの間に立った。
「みのる先生の所に行っていろ。俺も後から行く」
「待て、オラクル__」
オラクルを追おうとしたコードを、オラトリオは引き留めた。オラトリオの方がずっと長身で、腕力では叶わないと見たのか、コードはカフェテリアから駆け出して行くオラクルの後ろ姿を口惜しそうに見送った。
「お前がオラトリオとかいうひよっ子医者だな。クエーサー家の息子と二人でオラクルに付きまとっている」
「保護と言って欲しいぜ」
「保護だと?俺様の大切な弟に、たわ言をほざいていたようだが?」
冷たい笑みを浮かべ、コードは言った。どちらかと言えば女性的な整った顔立ちだけに、その冷酷さは際立って見えた。
「…その『大切な弟』に、あんたは何をした?」
オラトリオに言われ、コードは言葉に詰まった。それまでの傲慢な態度が緩み、視線を逸らす。
「…貴様には関係無い」
「俺もここの医者だからな。患者を護る義務がある」
「オラクルは俺様の弟だぞ」
オラトリオはやや大仰に、肩を竦めた。
「オラクルは成人だろう?大人がどこに行こうと、本人の意思で決める事だ」
それに、と、思い切ってオラトリオは言った。
「あんたが本当にオラクルの親族や保護者であるなら、警察に行ったらどうだ?」
コードは答えなかった。オラトリオの予想通り、コードには警察沙汰に出来ない事情があるようだ。オラクルがひどく閉鎖的な育てられ方をしたらしい事を考えると、オラクルの存在自体、公に出来ないのかも知れない。
「…あれは俺様の手元にいるべきだ」
低く、コードは言った。視線を戻し、猛禽のような瞳でオラトリオを見据える。
「オラクルは特異体質の持ち主だ。病気に罹れば、お前らの如き薮医者では治せんぞ」
「…あんた、医者なのか?」
オラトリオの問いに、コードは答えなかった。
「俺様は諦めんぞ」
言い捨てて、コードは去って行った。
みのるに鎮静剤を打たれ、やっと落ち着いたオラクルを、オラトリオはホテルまで送って行った。そんな時にもオラクルはオラトリオへの警戒を解かず、ロビーで別れ、部屋の場所を教えようとはしなかった。
その週の日曜、オラトリオはいつも待ち合わせる時間にホテルのロビーに行った。行き先を相談している間にコードが現れたから、その日は約束があるとは言えない。が、オラトリオはオラクルが気になっていたし、直接、会う他に連絡手段は無かった。クォータが、オラトリオがオラクルに電話しても、取り次がないようにさせているのだ。
時間を過ぎても、オラクルは現れなかった。オラトリオは嫌な予感がするのを抑えながらクォータに電話した。
クォータは中々、捉まらなかった。苛立ちながら2度、留守電にメッセージを入れ、3度目にかけようとした時、オラトリオの携帯が鳴った。
「クォータか?」
『ええ…私ですよ。どうしたんですか、オラクルの事で急用とは』
オラトリオは、木曜にコードが大学病院のカフェテリアに現れた事を話した。
『どうしてそういう大切な事を話してくれなかったのです?』
「俺がオラクルに電話しても取り次がねえようにさせてる奴から言われたかねえぜ」
『それは…オラクルを怯えさせない為ですよ』
「部屋番号は判らねえんだ。電話だけで、どんな害があるって言うんだ」
クォータは何か言いかけて止めた。このまま会話を続けても、押し問答にしかならない。それに彼は今、大事な取引先とゴルフの途中だった。オラトリオが聞いたら軽蔑しそうだが、これも彼の義務の一つだ。
『とにかく…オラクルは木曜から、熱を出して寝込んでいるんです』
「何だと?てめえこそ、どうしてそんな大事な事を話さねえんだ」
電話の向こうでクォータが軽く溜息を吐くのが、オラトリオには判った。
『オラクルにはちゃんと、あなたよりずっと経験豊富で優秀な医師の往診をして貰いましたよ』
オラトリオは怒鳴りたいのを何とか堪えた。高校で初めて会った時から、クォータの事はいけ好かないと思っていた。クォータがオラクルに一目惚れしたと気付いた時には尚更だった。
が、今はそんな事を言っていられない。
「…オラクルは特異体質で、病気に罹ったら並みの医者では治せねえって、コードの野郎は言ってたぜ?」
『それは…どういう事なんです?』
クォータの口調が、不安そうに変わった。
「判らん。詳しい事は言ってなかったからな。序でに言えば、あの野郎は俺やお前の事も知ってる。このホテルも突き止めてるんじゃねえか?」
どうしてそんな大切な事を早く話さなかったのだともう一度言いかけて、クォータは口を噤んだ。高校生だった頃の、オラクルを巡るライバル意識そのままに、二人は互いを出し抜こうとして来たのだ。
が、コードが現れた今、手を結ぶべきかも知れない。
『…明日の夜9時に、いつものホテルのロビーに来られますか?あなたとは少し話し合う必要があるようですから』
「__判った。明日の9時だな」
短く、オラトリオは答えた。その前にオラクルに会いたいという彼の望みは、即座に拒絶された。
その日の夜、オラトリオが一人でアパートの部屋にいると携帯が鳴った。クォータではなかろうと思いながら、オラトリオは電話に出た。
みのるだった。
「先生、今日は当直ですか?」
『そうなの。で、電話が掛かってきたわ』
説明もなしに、みのるは言った。オラトリオは眉を顰めた。
『木曜からずっと、医局に電話が掛かってくるのよ。名前は名乗らず、オラクルの様子を教えろって』
無論、断ったけれどと、みのるは言った。
『私が出たのは木曜と今日の2回だけだけど。私がいない時には伝言も残さずに切れてしまうのね』
「それは多分…コードですね」
尊大な男の姿を、オラトリオは思い出した。
「次にその男から電話があったら、オラクルが病気なんだと伝えてくれませんか」
『病気なの…?』
「木曜から熱を出して寝込んでいるそうです。俺は直接、会わせて貰えませんでしたが、医師の診察は受けたそうです」
コードから聞かされたオラクルの特異体質の事を、オラトリオは話した。オラクルが病気だと聞けば、コードはもう一度、現れるかも知れない。
或いは危険な賭けかも知れない。が、どうあっても謎を解きたかった。それに、コードの話が本当なら、オラクルには特別な治療が必要なのかも知れない。
『一体…オラクルは何に巻き込まれていて、あなたは何に係わろうとしているの…?』
「…それを今から知ろうとしているんです」
翌日にも、精神科に電話が掛かってきた。みのるはいなかったが、彼女に頼まれて、電話に出た者がこの「謎の男」に伝言する事になっていた。
効果は覿面だった。
コードはすぐに小児科に電話し、呼び出されて電話に出たオラトリオに、オラクルが病気になったのはお前のせいだと言わんばかりに罵った。
相手は名乗らなかったが、声でそれがコードだと、オラトリオには判った。コードの罵詈雑言を聞き流しながら、刑事ドラマのように逆探知が出来たらと、オラトリオは思った。
だが警察は動くまいとも、オラトリオは思っていた。虐待の事実があったとしても、証拠はない。クォータがオラクルと出会った時にすぐに医者に診せていたら、或いは傷痕が残っていたかも知れないが。
コードがオラクルを拉致すれば、警察も動くかも知れないが、それでは遅いのだ。
『今からすぐ、アンプルを持ってそちらに向かう』
一通り罵り終わると、コードは言った。
「アンプルだけ送ったって良いんだぜ?」
『馬鹿者。診察もせずに薬を投与出来るか』
「だったらどのアンプルを持って来るかどうやって決められるんだ。オラクルは特異体質ってより、持病があるんじゃねえのか?」
オラトリオは水を向けたが、コードはそれには答えなかった。
『とに角、必ず俺様をオラクルに会わせろ。そうだな…明後日の夜8時に、オラクルが監禁されているホテルに行く』
「監禁してる訳じゃ__」
乱暴に、電話が切れた。オラトリオは肩を竦め、クォータの電話番号をプッシュした。
水曜までの間に、オラトリオはコードの住んでいる場所を推測しようとした。特急を使って丸2日もかかる場所など、国内には無い。が、オラクルもコードも言葉の訛りは無かったから、外国人とも思えない。
そして、この街には特急停車駅は無い。一旦、ローカル線に乗り換えなければならないのだ。ならば、コードがいるのはローカル線から更にローカル線を乗り継がなければならないような辺鄙な場所なのだろうか。オラクルがひどい世間知らずな事や、コードが何か表沙汰に出来ない事に拘わっているらしい事を思えば、それは充分、有り得た。
約束の時間の5分前にロビーに着くと、いつものボーイがオラトリオをバーに案内した。奥まった場所のボックス席に、クォータがいた。
「オラクルの容体は?」
オラトリオの問いに、クォータは幽かに眉を顰めた。
「熱が下がらないらしいのですよ」
「一昨日、聞いた時には__」
「ええ、快方に向かっている様だったのですが、またぶり返してしまって」
オラトリオは舌打ちした。
「だったら…コードが持ってくる薬に頼るしかねえのか」
この日二人は、オラクルに会わせる事を条件に、コードから全てを聞き出す積もりでいた。
時間に30分近く遅れ、コードが姿を現した。コードはすぐにオラクルに会わせろと言ったが、オラトリオとクォータは、事情を全て打ち明けない限り、オラクルには会わせないと、強硬に繰り返した。
「……貴様ら、テープレコーダーなんぞ持っていないだろうな」
これ以上、押し問答を続けても無駄だと判ると、コードは言った。そして、今から話す事は『仮定の話』に過ぎないと念を押し、第三者には決して喋らない事を約束させてから、話し始めた。
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