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「__クォータ……」
「矢張りあなたでしたか、オラトリオ」
会うのは2年ぶりだった。その頃は二人ともまだ学生だった。今は、二人ともビジネススーツを着ている。もっとも、貧乏な研修医と違って、クエーサー財閥の御曹司は、この高級ホテルのロビーにしっくりと溶け込んでいた。
ボーイの態度が変わるのを、オラトリオは感じ取った。それまでの通り一遍の礼儀正しさから、心のこもった恭しさとでも呼べるものに変わったのだ。
二人が同じ高校に通っていた頃、クォータはオラトリオに連れられて学校に来ていたオラクルに会い、自宅の薔薇園に誘った。その屋敷の荘厳さを見れば、クォータがかなりの資産家の子息であるのは明らかだった。
が、オラトリオはそんな事には興味は無かった。彼の気に障ったのは、クォータがオラクルに一目惚れしたらしい事だった。

「どうしてお前がここにいるんだ?」
「__そう…運命でしょうか」
クォータの言葉に、オラトリオは軽く眉を顰めた。
高校卒業以来でクォータに会ったのは、今から2年前だ。偶然、街で出会い、オラクルがどうしているか聞かれた。そして、オラクルが葬られている場所を教える事になったのだ。
「そんな説明じゃ判らねえぜ。俺はオラクルに会いにここに来たんだ」
クォータが答えるまでに、一瞬の間があった。
「彼は…本当にあなたの従兄弟のオラクルでは無いのですね?」
「当たり前だろう。あいつは7年も前に死んじまった。それに目は見えねえし、走るなんて絶対に無理だ」
「いずれにしても…奇跡であることに変わりはありませんね」
クォータのその言葉に、オラトリオは同意せざるを得なかった。

オラクルに出会ったのは3ヶ月ほど前の事だと、クォータは話し始めた。
その日、彼はレストランで昼食を取った後、すぐに社に戻らずに近くの公園に行った。その日は天気が良かったし、緑の中で少し息抜きをしたかったのだ。
ベンチのひとつに、所在なさげに座っているオラクルを見たのはその時だった。
その時のやり取りは、オラトリオが初めてバス停でオラクルを見かけた時と似ていた。やはりクォータも「オラクル」と呼びかけ、オラクルは驚いて逃げようとした。
が、逃げられなかった。その時、疲労とショックのせいで熱のあったオラクルは、一旦、立ち上がったものの、そのままふらふらとベンチに腰を降ろした。だからクォータは、オラトリオの様にオラクルを追って行き、怯えさせてしまわずに済んだ。

「初めは…あなたが私に嘘をついたのだと思ったのですよ。あなたは私がオラクルに会うのを不快がっていた様ですから。お葬式にも呼んで貰えませんでしたし」
オラトリオは、クォータの恨み言には答えなかった。
クォータは続けた。
「でもあの人は、あなたの名も私の名も聞いた事はないと言った。逆に、私がコードに頼まれてあの人を探しに来たのではないのかと、尋ねられました」
ここでも”コード”だ__オラトリオは思ったが、黙っていた。
「私はもっと詳しい事情を聞きたかったのですが、あの人はそれっきり口を噤んでしまって…。それで私の名刺を渡して、連絡をくれるように言っておいたのですよ」
オラクルからクォータの携帯に電話があったのは、その日の夜だった。
何処にも行く宛てが無いのだと、オラクルは言った。今夜、泊まる場所も無い…と。

「それで、ここの部屋を都合して差し上げたという訳です」
オラトリオは運ばれてきたジントニックのグラスを傾けた。幽かに、眉を顰める。
「…じゃあ、オラクルはずっとここに住んでるのか」
「ええ。今のところは」
「ここはお前の親父の持ち物か何かなのか?」
「正確には違いますが…私がここの部屋の何室かを、自由に使える立場である事は確かです」
何でもない事のように、クォータは言った。確かに、彼にとっては何でもない事なのだろう。
だがオラクルは、泊まる場所も無いと言ってクォータに頼ったのだ。所持金も殆ど無かっただろう。だとすれば、それ以降のオラクルの生活の面倒は、全てクォータが見ている事になる。

何を代償に……?

その考えが、オラトリオの気を重くさせた。

「俺はオラクルに会いに来たんだ」
「スケッチブックを返しに来たのでしょう?ああ、それですか。私からお渡ししておきます」
差し出されたクォータの手を、オラトリオは振り払った。
「あいつに直接でなけりゃ、渡せねえな」
クォータは眉を顰めた。
「…あの人は何かに怯えていて、とても警戒心が強いのですよ。私がどれほど辛抱強く、あの人に接したか判りますか?最初のうちはろくに口もきいてくれなくて……最近やっと、少しずつ事情を話してくれるようになったのです」

オラトリオは、もう一度、ジントニックのグラスに口をつけた。
クォータの言う事が本当なら、少なくともオラクルに代償を強要してはいない。みのるは「握手も駄目」と言っていた。それほど警戒心の強いオラクルが、意に染まぬ事を強制されてまで、クォータに頼り続けるとは思えなかった。

「あなたをオラクルに近寄らせて、折角、解けかけてきた警戒心を強めたく無いのですよ」
「だが、俺は医者だぜ?」
オラクルから聞いてないのかと、オラトリオは水を向けた。クォータは眼鏡の位置を、軽く直した。
「まさかあなたがあの大学病院にいるとはね……。やはりこれは、偶然というより奇跡と呼ぶべきでしょう」
「あそこの精神科に通うよう、勧めたのはお前か?」
クォータは頷いた。
「不安で眠れない事があると言っていましたから」
「コードって、誰だ?」
「…お兄さんだそうです。血の繋がりの無い」
やや躊躇って、クォータは答えた。
「オラクルはそいつの所から逃げてきたのか」
「そうらしいですね」
「何があったんだ?」
矢継ぎ早なオラトリオの質問に、クォータは肩を竦めた。
「それは、どうしても話してくれようとしないのですよ」
聞きだそうとすべきでもないのでしょう__視線を宙に漂わせ、クォータは言った。

オラトリオは改めて、オラクルに会わせてくれと繰り返した。クォータは根負けし、フロントから内線電話を掛けた。
程なく、オラクルがロビーに姿を現した。
ボーイは心得ているらしく、注文もしないのに紅茶を持って来た。
従兄弟のオラクルも紅茶が好きだったと、オラトリオは思った。紅茶の薫が好きで、コーヒーは口にしなかった。たくさんの薬を飲んでいたせいで、紅茶を飲むのも制約つきだったが。
「持って来たぜ」
「ありがとう」
オラクルは礼を述べたものの、にこりともしなかった。その時オラトリオは、一度もオラクルの笑顔を見ていない事に気付いた。

従兄弟のオラクルは、いつも穏やかな微笑みを絶やさなかった。
どんなに顔かたちが似ていても、二人のオラクルの印象が違うのは、そのせいだった。

「最近はちゃんと眠れてるのか?」
少しでもオラクルと話していたくて、オラトリオは聞いた。オラクルは頷いた。
「みのる先生が処方してくれた薬が身体に合ったみたいだ」
「そいつは良かったな。いつも木曜に通ってるのか?」
オラクルは少し躊躇い、それから頷いた。
オラトリオはコードの事を聞くかどうか迷い、止める事にした。今はまだ、オラクルに充分、信頼されているとは言えない。

暫く3人は、あたり触りのない会話で時間を潰した。
「それじゃあ、お休み」
紅茶を飲み終えると、席を立ってオラクルは言った。引き留めようとしたオラトリオを、クォータは遮った。
「また絵が描けたら見せて下さいね」
オラクルは頷き、エレベーターホールの方に歩いて行った。
「私はオラクルの絵を買っているのですよ」
オラクルの姿が見えなくなると、オラトリオに向き直ってクォータは言った。そして、口元に幽かに皮肉な笑みを浮かべる。
「決して、愛人を囲うようにして、生活費を渡している訳ではありません」



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