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オラクルには無闇に近づいたり、接触しようとしたりしないでくれと、みのるは言った。
「接触…って?」
「身体に触るって事よ。握手も駄目」
酷く怯えてしまうからと、みのるは説明した。
「…何故__」
「あなた、コードとは知り合いなの?」
オラトリオの質問を無視して、みのるは聞いた。
聞いた事の無い名だ。オラトリオは正直に答えた。幽かに、みのるは眉を顰める。
「オラクルと最後に会ったのは7年前だと言ったわね?」
一瞬、オラトリオは迷った。このままオラクルの知人である振りをしていれば、オラクルに関してもっと詳しい話を聞けるかも知れない。が、その為には話をでっち上げなければならないし、それはオラクルがみのるに話している事と食い違うだろう。そしてそれは、治療の重大な妨げとなってしまう。
「……すみません、人違いです」
「人違い?」
「ええ…。名前も同じオラクルだし、生き写しってくらいに良く似ている。でも、彼が俺の知っているオラクルである筈がありません」
「確かに別人だと断言できるの?もし__」
首を横に振って、オラトリオは相手の言葉を遮った。
「俺の知っているオラクルは__従兄弟だったんですけど__亡くなったんです、7年前に」
みのるの表情が僅かに曇った。そして、医師ではなく一人の人間として、悔やみの言葉を述べた。が、みのるはすぐに医師の表情に戻り、守秘義務を理由にこれ以上、オラクルに関して話す事を拒んだ。
「…俺だってここの医者ですぜ?」
「私の患者の治療に関しては部外者だわ」
そう言われては、オラトリオもそれ以上、食い下がる事は出来なかった。
「…でももし、何かお役に立てる事があれば、その時には」
「__ええ…その時には、ね」
みのると別れたオラトリオは、オラクルが座っていたベンチの所に行ってみた。余程、怯えていたらしく、オラクルはスケッチブックをその場に残していた。
スケッチブックを手にとり、オラトリオはパラパラとページをめくってみた。ここの中庭らしい風景や、どこかの公園らしい風景が柔らかいタッチで描かれている。
オラトリオはスケッチブックを手に、午後の仕事に戻る為に、医局に向かった。
その日は木曜だった。
最初にオラクルを見掛けたのも木曜、次に会ったのも木曜だ。オラクルが毎週、必ず通ってくるとは限らないが、その可能性にオラトリオは賭けた。
前の晩、当直でその日はもう仕事が終りだったから、早めにカフェテリアに行き、全体が見通せる席に腰を降ろした。その上、ここからなら中庭も見渡せる。
11時にカフェに入り、何度か眠ってしまいそうになりながら、待った。そして12時近くになった頃、漸く目当ての相手を見つけた。
オラトリオは席を立ち、相手の視界に入らないよう、移動した。オラクルがトレイを手に、窓際の席に座るまで、じっと待つ。それから、静かに相手に歩み寄った。
「また会ったな」
声を掛けると、オラクルは驚いて皿の上にサンドイッチを落とした。が、逃げ出そうとはしなかった。
「……お前は本当にここのドクターで、コードとは関係ないんだな?」
「ああ、勿論。コードなんて奴、聞いた事もない」
オラトリオの言葉に、オラクルは少し、安心したようだった。
「座っても良いか?」
「どうして?席は他に沢山、空いてるじゃないか」
オラクルの言葉に、オラトリオは軽く笑った。
「お前と少し、話がしたい」
「みのる先生はお前は悪い人じゃ無いって言ってたけど…。でも小児科のドクターなんだろう?私は子供じゃ無い」
思わず、オラトリオは笑った。笑ってしまってから、オラクルが気を悪くしたのではないかと思った。が、オラクルはただ、訳が判らなそうに、きょとんとした表情でこちらを見つめている。
怯えていなければ、オラクルは世間ずれしていない子供の様だった。
オラトリオは改めて名を名乗り、ここの医大を卒業して今年から研修医として勤務しているのだと話した。オラクルは興味なさそうに聞き流し、窓越しに中庭を眺めながらサンドイッチを齧った。
オラクルの無関心を良い事に、オラトリオはじっくりと相手の姿を観察した。
髪も瞳もオラクルと同じ色だ。
大きな瞳も形の良い唇もほっそりした顎も、透けるような膚の白さまでオラクルに生き写しだ。
穏やかな声も、おっとりした喋りかたも同じ。左利きであるところまで一緒だ。
これが奇跡なら、神のなせる業なのか、それとも悪魔の仕業か……
「…お前は絵描きなのか?」
オラクルがサンドイッチを食べ終わるのを待って、オラトリオは聞いた。
「スケッチブック、捜したんだけど」
「あ…あ。あれは俺が預かってる」
オラトリオの言葉に、オラクルは意外そうに相手を見た。
「…返してくれ」
「勿論、返すさ。返そうと思って、お前を捜してたんだ」
「だったら早くそう、言ってくれれば良かったのに。みのる先生に伝えるとかして」
悪かったと、オラトリオは謝った。そして、外見年齢の割に子供っぽい態度が奇異な感じを与えるものの、オラクルの話す事は充分に論理的だと、内心で思った。
「なあ…。時間があんなら、これから俺のアパートに来ねえか」
オラトリオの言葉に、オラクルは即座に首を横に振った。同じ事を言ったら喜んで付いてきそうな相手が、看護婦に5、6人、患者の若い母親に2人は少なくともいると、オラトリオは思った。
「スケッチブックは俺の部屋にあるんだ。医局に置きっぱなしには出来ねえだろ?」
何気ない風を装ってオラトリオは言った。が、オラクルは更に激しく首を振り、俯いた。白い頬が、幽かに蒼褪める。
同性から部屋に誘われただけでこれ程の拒絶反応を示すのには、理由がある筈だった。そして恐らく、その事とコードは何らかの関係がある__
「…俺の所に来るのが嫌なら、お前んとこに持ってってやるぜ。今日は夜勤明けで、仕事はもう終りなんだ」
この近くに住んでるのか__オラトリオの質問に、オラクルは答えなかった。
「一人暮らしなのか?家族は?」
家族という言葉に、オラクルの指先がぴくりと震えた。オラトリオはそれを見逃さなかった。
暫く悩んでから、オラクルは市内にあるホテルの名を告げた。そこのロビーで今夜8時に待っている、と。
オラクルが指定したのが高級ホテルだったので、オラトリオは幾分か意外に思った。が、ホテルのロビーを指定するのは住んでいる所を知られたくない為だろうと思い、その時間にスケッチブックを持って行くと約束した。
アパートに戻ったオラトリオは、何時間か眠り、目覚めるとシャワーを浴びた。一旦はカジュアルな服を着たが、待ち合わせ場所がかつては宮殿だった高級ホテルである事を思い、もう少し改まった服に着替える事にした。
ロビーに行くだけなのだからフォーマルである必要はあるまいと思いながら、何度かネクタイを結び直す。
漸く気に入った結び方に落ち着き、生乾きの髪をかき上げた。そして眼鏡をしていくかどうかで迷い__軽く笑った。自分がまるで、デートに行く気分である事に気付いたから。
長身で整った顔立ち、スポーツ万能のオラトリオは、中学の頃までは女の子の憧れの的だった。そのうちの何人か、好みのタイプの子と映画を見に行ったりした事はある。が、さほど楽しいとは思えなかった。そんな事をする時間があったら、オラクルの見舞いに行く方が良かった。
高校の頃には、自分の想いを自覚していた。同性に恋をするなど異常だと、悩んだ。医師になる為に進学校に進んだ為、その頃は思い悩む暇もない程、勉強に打ち込んだ。
女性と付き合うようになったのは、大学に入ってからだ。
その頃にはもう、オラクルはいなかった。いくら想っても、永遠に手の届かないところに逝ってしまった。
その心の隙間を埋めようと、声を掛けて来た何人かと付き合った。
が、長続きはしなかった。
私の他に、好きな人がいるんでしょう?
異口同音に言って、彼女たちはオラトリオの不実と裏切りを責めた。そして、オラトリオの前から去って行った。
「…どういう積もりなんだ、お前は?」
鏡に向かい、オラトリオは呟いた。
どれほど似ていようと、あれは彼の愛したオラクルでは無い。恐らく心に傷を持ち、何かを怖れ、何かから逃れようとしている。
オラクルにどんな事情があるのか、全く判らないのだ。生半可な気持ちで関わり合いになるべきでは無いのかも知れない。
それでも……
オラクルが怯える姿を見た時、護ってやりたいと思った。ただ単に、彼が従兄弟のオラクルに似ているからそう思っただけかも知れないが。
指定されたホテルのロビーに、オラトリオは約束の5分前に着いた。広々としたロビーはシャンデリアの灯かりで華やかに照らされ、待ち合わせをする宿泊客の為に、ゆったりした椅子が何十客も置かれている。無論、待ちあわせに利用しようとするのは宿泊客ばかりでは無いが。
「お待ち合わせですか?」
ボーイが近づいてきて、礼儀正しく聞いた。ここを利用するには何か飲むものを注文しなければならないのだと、オラトリオは気付いた。
もう一度、ロビーのテーブルを見回した時、オラトリオは思いがけない相手の姿をそこに認めた。
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