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オラクル…?

何時もの様にバスを降り、自分が勤務する建物のレンガの壁を見遣った時、オラトリオは我が目を疑った。
道路の向かい側。反対方向のバス停にも、丁度バスが停まっていた。乗り込もうとする乗客の中に、オラトリオは懐かしい人の姿を認めたのだった。
「オラクル…!」
衝動に駆られるままオラトリオは道路を横切り、相手の名を呼んだ。青年は振り向き、驚いたようにオラトリオの方を見た。そして、逃れるように急いでバスに乗り込んだ。
「オラクル__」
もう一度、だが今度は口の中で呟くように、オラトリオは言った。
バスは、走り去っていった。



あれが、オラクルである筈は無い。

外来の受け付けが終り、入院患者の回診も終って時間が空くと、改めてオラトリオは思った。
大好きだった従兄弟。
いつの頃からか、それ以上の感情を抱くようになった。けれども、想いを告げる事は無かった__その時間が無かったから。
オラトリオの同い年の従兄弟だったオラクルは、生まれつき全盲で心臓に欠陥があり、殆ど歩く事も出来なかった。オラクルの為に医師を目指したオラトリオが、念願叶って医大に合格したその歳に、18の若さで逝ったのだ。
今、オラトリオは研修医として、母校の大学病院の小児科にいる。
オラクルを喪ったと言うのに、何故、医者になどなったのか判らない。ただ、心の隙間を埋めようとするかのように一心に勉強に打ち込んだ。インターンになった今では度々、夜勤があり、勤務の傍らで勉強を続ける必要もあり、酷く多忙だ。
そうして忙しくしていれば、オラクルを思い出し、心の痛みを感じずに済んだ。

あんなに早く逝ってしまうなら、もっと見舞いに行ってやれば良かった。
どっちにしろ助からなかったのなら、もっと何度も海に連れていってやりたかった。
報われる事は無くとも、せめて想いを告げていられたら……

手術の失敗で__成功率は、絶望的に低かった__オラクルが亡くなる数日前、オラトリオはオラクルを病院から連れ出し、オラクルが行きたがっていた海に連れ出したのだ。
その時の事を、オラトリオは今でもはっきりと思い出す。
オラクルに請われ、想いを込めて謳った事。
衝動に駆られるままに、オラクルに口づけた事__
オラクルは拒まなかった。けれども、それだけではオラクルの気持ちまでは判らない。あの時オラクルは、自分に残された時間が極僅かでしかない事を、感じ取っていたに違いない…


当直なので仮眠室で医学書を読みながら、オラトリオは昼間の事を思い出していた。
ほっそりした華奢な身体つき。
ヘーゼルブラウンの、癖のない髪。
近くで見た訳ではないから判らないが、多分、瞳も同じ色なのだろう。
そして、眼も鼻も口元も、驚く程、オラクルに似ていた__或いは、思い込みのせいかも知れないが。
眼鏡を外し、オラトリオは軽く目頭を揉んだ。そして、もう一度、自分に言い聞かせる。
あれがオラクルである筈は無い…と。



他人の空似でしか無いとは思いながら、オラトリオは翌日から出勤する度に、あの青年の姿を捜すようになった。この付近には他に何も無い。だからあの場所でバスに乗ったからには、この病院を訪れたに違いないのだ。
医師や薬剤師のような病院関係者?通院している患者?それとも入院患者の見舞いに来たのか…?
見舞いに来たのでは無いと、オラトリオは思いたかった。誰かの見舞いに来ただけなら、もう二度と来ないかも知れない。嫌、通院患者でも、いつまでも通っているとは限らない。
自分が所属しているのが小児科である事を、オラトリオは恨めしく思った。少なくともそれでは、あの青年が患者でも、会える可能性がずっと減ってしまうから。



その日の昼休み、カフェで遅めの昼食を取った後、オラトリオは病院の中庭に出た。
この病院の建物は元々、大司教の城館で、中庭は当時を彷彿とさせる美しい庭園になっている。近代的な内装と古風な外観は不釣り合いの様だが、歴史を重んじるこの国では、それは珍しい取り合わせでは無い。そしてこの庭園は、多くの患者や病院関係者の憩いの場となっていた。
カフェで買ったコーヒーを飲みながら、オラトリオは庭園をそぞろ歩いた。時折、あの青年がいはしまいかと、周囲に視線を走らせながら。
だがまさか、本当に彼がそこにいるなどと、思いもしなかった。
その青年はベンチに一人で座り、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。
「__オラクル……」
無意識のうちにその名を口にし、オラトリオは相手に歩み寄った。青年はオラトリオに気づくと、驚いたように立ち上がった。そして、その場から駆け出したのだ。

「オラクル…!待てよ、オラクル……!」
オラトリオはすぐに相手に追いつき、細い腕を掴んだ。
「何で逃げんだよ。俺はただ__」
「私に触るな!」
半ば叫ぶように言って、青年はオラトリオの手を振り払った。訳が判らず、オラトリオは困惑した。
「…なあ、どうして逃げるんだ?俺は別に怪しい者じゃねえぜ。ここの医者で__」
「どうしたの?」
声を掛けられ、オラトリオは振り向いた。白衣を着た小柄な東洋人の女性が、そこに立っていた。
オラトリオは、以前、先輩の医師から彼女を紹介された事がある。日本から外科医の夫と共に研修に来ている女医だ。
「今日の約束は11時からだったわね?」
青年ににこやかに微笑んで、彼女は言った。青年は時計を見、困ったように眉を曇らせた。もう、1時近い。
「私は別に、今からでも構わないわよ?」
辛抱強い女医の言葉に答える代わりに、青年はオラトリオの方を見た__脅えたような眼差しで。そして首を横に振ると、逃げるようにその場から駆け出した。
「オラクル__」
後を追おうとしたオラトリオの腕を、女医は軽く掴んで止めた。
「あなた確か…研修医のオラトリオ君ね?小児科だったかしら」
「そうです、みのる先生」
漸く相手の名前を思い出し、オラトリオは言った。
「オラクルの事を知っているの?」
「……古い友人です。会ったのは、7年振りですが」
青年の名がオラクルである事に驚きながら、咄嗟にオラトリオは言った。みのるは、幽かに眉を顰めた。
「だったら…私の患者を怯えさせないで欲しいわ」
みのるの専門が精神科である事を、オラトリオは改めて思い出した。



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