(2)



幽かに震える手で、イルカは引き戸を開けた。
里外れの小さな庵。
そこに死んだとばかり思っていたカカシがいるのだとナルトに聞かされ、居ても立ってもいられず駆けつけたのだ。
何度も知らせようと思ったが、カカシに止められて出来なかったのだとナルトは言っていた。だが今、会わなければ二度と会えなくなってしまう。だから話したのだ、とも。
言葉の意味を理解するのに暫く時間がかかった。
ショックが大き過ぎて、思考が麻痺したのだ。
それから、イルカは走った。
走りながら何度も繰り返した。
何故……と。

庵の戸を開けたイルカを出迎えたのはカカシの忍犬だった。
忍犬は普通の犬より長く生きるとは言え、もうかなりの老犬だ。
「ご主人は誰にも会わん。特にイルカ、お主にはな」
「……どうしても止めると言うなら……」
クナイを手に身構えたイルカから、パックンはついと目を逸らした。
「ワシの気付かぬうちに勝手に入ったなら、ワシの責任ではない」
「……ありがとう…」

部屋に入ったイルカは、その場で立ちすくんだ。
薄暗い部屋の中で力なくベッドに横たわっているカカシは見る影も無くやつれ果て、別人かと見まごう程だ。
静かに歩み寄ると、相手がゆっくりを瞼を開けた。
カカシはすぐには何も言わなかった。
信じられないといった表情で暫くイルカを見つめる。
「……イルカ…先生……?」
「……カカシさん……」
「…どうして……アナタがここに…」
視線を逸らし、カカシは苦く笑った。
「絶対に話すなって言っておいたのに…ナルトの奴__」
「こ…の大馬鹿野朗……!」
激しい衝動に突き動かされるままに、イルカはカカシの襟首を掴んだ。
「生きてるなら生きてるって、何で教えてくれなかったんですか?この2年の間、俺がどんな気持ちでいたか……」

イルカの手から、すっと力が抜けた。
寝着の上からカカシの身体に触れると、初めの印象よりも更にやつれてしまっているのが判る。
左目は摘出され、良く見れば身体の左側が極端にやせ衰えている。

「……脊椎を損傷して、左半身不随になったんですよ…。こんな姿、アナタに見せられるワケないでショ?」
「……だから…生きている事を俺に隠してたんですか……?」
愕然として問うたイルカに、カカシは苦笑した。
「2年前に何とか生命は取り留めたけど、いずれ長くは持たないって綱手さまにも言われてたんですよ。だったらアナタには俺の事なんか早く忘れて、ナルトと幸せに__」
「馬鹿野朗……」
震える声で、イルカはカカシの言葉を遮った。
「どうしてあんたはいつもいつもそうやって、苦しみは自分だけで背負おうとするんですか?あんたは昔からそうやって、辛い時にも俺に何も話してくれない。『何でもないです』って言われるだびに、俺がどんな気持ちになってたか、あんた、判ってるんですか…!?」
「……イルカ先生……」
カカシにはイルカの言葉が意外だった。
時折、駆り出される暗部の任務で荒んだ気持ちになって家に戻った時、イルカに心配させたくなくて敢えて明るく振舞った。
オビトや四代目の死を思い出し、身を切られるような辛い想いをしても、イルカには知られまいと気遣った。
それは全てイルカを思いやっての事で、イルカを哀しませたくないが為にした事だった。
だがまさかその『気遣い』のせいで、却ってイルカを傷つけていたなどと考えもしなかった。
「喜びも悲しみも分かち合ってこそ恋人と呼べるんじゃないんですか?それなのにあんたは俺に弱みを見せてくれない……」
だから、と、大粒の涙を流しながらイルカは続けた。
「だから……俺は不安になったんです。俺が…本当にあんたに必要とされているのかって……」
「……それで、ナルトを……」
カカシの言葉に、イルカは頷いた。
「そうだったんですか……」
言って、カカシは自嘲気味に笑った。

誰かを真剣に好きになったのは、イルカが初めてだった。
だからイルカに好きになって欲しくて嫌われたくなくて必死で、イルカの為ならば何でもした。
その自分が何故、イルカに裏切られたのか判らず、この2年の間もずっとその事で苛まされ続けていた。
理由が判った今、愚かだった自分を戒める気持ちより、ずっと悩んでいたもやもやが解けて肩の荷が下りたような気分だ。

「イルカ先生、ゴメンね…。アナタの為を思ってした筈の事で、アナタを傷つけてしまっていた事に気づけなくて…」
カカシは改めてイルカを見、微笑った。
「でもこれでもう、俺は思い残す事は何も無いです。だから、アナタは俺の事は早く忘れて幸せになって下さい」
「……だから……」
「…イルカ先生…?」
「だからあんたは大馬鹿野朗だって言うんだ…!」
カカシの襟首を掴み、ベッドの上に上体を引き起こしてイルカは怒鳴るように言った。
「人の話をちゃんと聞いてねえのか?俺はあんたが嫌いになった訳でも好きでなくなった訳でもねぇんだ。死んだって聞かされた時にもすごいショックで2年がかりで何とか立ち直って、それが急に生きてたって聞かされて……もうすぐ死ぬからって、忘れられる訳なんかあるか……!」

イルカの流す涙が、カカシの頬を濡らした。
透明で純粋で、温かい涙だ。
カカシは暫く何も言えず、イルカを見つめ続けた。
それから、口を開く。

「今でも……俺を好きでいてくれるの?」
「…言ったでしょう?忘れられる訳なんか無いって」
でも、と、手の甲で涙を拭いながらイルカは言った。
「誤解はしないで下さい。ナルトの事だって真剣に好きです。一人の男として、心から愛しています」
「……妬けるな」
短く、カカシは言った。

ナルトへのイルカの想いを改めて聞かされて、どす黒い炎が胸のうちに灯る。
それは醜く愚かしい感情であり、余命いくばくもない自分には無用なものだと思っていた。
だが今は、その苦しみこそが生きている証なのだと思える__たとえ、もうすぐ死ぬのだとしても。

「…俺はアナタに嫌われたくなくて、自分の良いところだけ見せようと見栄を張っていたのかもしれない。アナタとナルトの関係に気付いた時だって、本当は嫉妬で狂いそうだったのに気付かないフリを続けた…」
「…あんたが気付いているのに気付かない振りをしてるんだって事は判ってました。それで俺は、ますますあんたの気持ちが判らなくなって……」
カカシは何とか動かせる右手で、イルカの頬に触れた。
そうしてイルカに触れると、改めて愛しさが募る。

このままずっとイルカと一緒にいたい。
死にたくは、無い。

「俺は愚かだったけど…アナタの事は誰よりも愛していました」
「俺だってあんたを……」
「俺を……忘れないでいてくれる……?」
その言葉を口にした途端、胸に熱いものがこみあげてカカシの右目を濡らした。
思えばイルカの前で泣くのは初めてだ。
父のサクモが亡くなった時、決して泣くまいと誓った。
その時から、泣けなくなってしまっていた。
常に感情を殺し、冷静であろうと努めた。
それは忍としては必要な資質なのかも知れない。が、最愛の者の前でも感情を晒す事が出来ないなら、恋人としては失格だろう。
それでもイルカを愛している。
その気持ちは、抑えようが無い。
「忘れないで……俺を…忘れないで……」
右腕でイルカを抱き寄せ、何度も口付けを繰り返しながらカカシは言った。
「忘れません…忘れられない……」
「思い出すのはたまにでも良い。でも…忘れないで…」
うわ言のように同じ言葉を繰り返しながら、カカシは不安を感じていた。
時が経てばイルカが自分を思い出すことも少なくなるだろう。
かつては激しく深かった恋慕の情も、いつかは淡い思い出になってしまう。
死とは、そういう事だ。
「……アナタに…俺を刻み付けさせて」
間近にイルカを見つめ、カカシは言った。



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