(3)


オラクルは眼を開け、時計を見遣った。午前10時を15分、回っている。こんな時間なのに、起きる気になれない。
多分、オラトリオが出張に出掛けてからだろう。日毎にだるさが募り、身体を動かすのが億劫になったのは。だからと言って、運動機能に異常がある訳では無い。
ただ、何もする気になれない。
正確には何もしていない訳では無い。ボディは動かさなくとも、今まで通りに<ORACLE>を管理している。検索要求があったのも判るし、それをバックグラウンド・プロセスやサーバー・プロセスが処理しているのも手に取るように判る。

全ては整然と管理され、整合性がとれ、均衡を保っている。
それが私の世界__<ORACLE>(わたし)の全て…

電話のベルの音に、オラクルは幽かに眉を顰めた。この部屋に電話があるなんて、気付かなかった。人間の研究員用の寮なのだから、電話くらいあって当然だが。
ベッドから出、リビングに行って受話器を取る。動きそのものは滑らかだ。そう、運動機能に異常がある訳では無いのだ。
『オラトリオ?やっと捕まえたわ』
オラクルが口を開く前に、相手__女性の声だ__は言った。
『本当につれない男だわね。何度、約束をすっぽかせば気が済むのよ。今夜こそはつきあって貰うわよ』

ただの社交辞令だ

『オラトリオ?聞いてるの?もし__』
オラクルは、受話器を置いた。


部屋を出ると、オラクルは本体のある部屋に向かった。誰にも会いたくなかったし、話したくもなかった。それでも、もう暫くしたらインフォメーションセンターに勤務しなければならなくなる。コストをかけてボディを造って貰ったのだから、それに見合うだけの仕事はしなければならないと言う訳だ。
本体のある部屋は、二重の厚い扉で閉ざされていた。人間がこの部屋に入るには、指紋と網膜パターンを読み取らせ、有資格者である事を認識させる必要がある。
オラクルがその前に立つと、扉は重い音を立てて開いた。現実空間で、ボディの他に思い通りになるものと言ったら、この部屋の装置くらいのものだろう。
自分の本体に歩み寄り、軽く触れる。これを自分の身体として認識した事は無い。ハードウエアより、ソフトウエアの創り出す空間こそが、オラクルの世界だから。
オラトリオ専用の大きな椅子に、身を預ける。

オラトリオが帰って来るまで、此処で待っていよう。
後、3日と1時間45分…



「…クル、オラクル…!」
揺り動かされ、オラクルは眼を覚ました。すぐ間近に、心配そうなオラトリオの顔。
「…お帰り、オラトリオ」
「お帰りじゃねえだろ。部屋にも何処にもいなくて心配したぜ?」
ボディの調子でも悪いのか?__オラトリオの問いに、オラクルは首を横に振った。
「そうじゃ無いよ。ただ…お前が帰って来るまで何もやる事が無いから、スリープモードにしておいただけで」
「何もって…お前、俺がいない間、ずっと寝てた訳じゃねえだろうな」
「まさか」
短く、オラクルは言った。が、3日も眠っていたのだから、似たようなものだ。
オラトリオは軽く肩を竦めた。
「まあ、良い。どこも具合が悪くねえんなら、部屋に戻ろうぜ。ヨーロッパの土産もあるし」
言って、オラトリオはオラクルに手を差し伸べた。


街並みを映した写真が美しいカレンダー。小振りの額に入った風景画。紅茶とジャムのセット。壁掛けにもなる絵皿。何枚もの絵葉書…
オラトリオのお土産は、どれもオラクルの好みの品だった。それでも、オラクルが期待していたのは別の物だった。
「写真も沢山、撮ってきたぜ。帰って来る途中、現像に出したから、明日には見られる」
「…CGは無いのか?」
躊躇いがちなオラクルの言葉に、オラトリオは改めて相手を見た。
「CG…って__。現実空間に出られたのに、そんなもの必要ねえだろ?」
オラクルは、視線を逸らした。
オラトリオが出張から帰った時には、オラトリオの構築するCGを二人で見るのが楽しみだった。時には3DCGを構築して、仮想の森の中を散歩したり、湖にボートを浮かべたり…
「CGでも写真でも無く、実物を見られるんだぜ?」
オラクルの顎に軽く触れて上向かせ、オラトリオは言った。
「本物の海でも湖でも。森でも高原でも__何処でもお前の行きたい所に行って、本物の花や草に触れて」

本物…?

オラクルは、眼を伏せた。

人間にとって仮想でしかなくても、私には…

オラトリオはオラクルを抱き寄せ、宥めるように優しく髪を撫でた。
「今度、旅行に行かねえか?ヨーロッパならここよりずっと涼しいし、街もお前の気に入るだろうし」
日本でも良いと、オラトリオは続けた。
「そう言や、信彦がお前に会いたがってたな。今まではお前に触れる事が出来なかったから__ま、余り触らせたくはねえけどよ」
オラトリオの言葉に、オラクルは軽く笑った。
その時、電話が鳴った。
「はい__ああ…。一昨日?俺は出張で__」
オラトリオの背中を、オラクルは見るとも無く見遣った。電話の相手は、一昨日、かけてきた女性なのだろう。困惑したように、オラトリオが髪をかき乱す。
「だから何度も言ったように、今、手の放せねえ用事があるんすよ。話したっしょ?」
オラクルは黙って寝室に入り、ドアを閉めた。


膝を抱えて、オラクルは床の上に座り込んだ。オラトリオには現実空間でたくさんの知り合いがいて、その中には女性も少なからず含まれる事など、考えてみれば当然だ。
ただ、考えた事が無かっただけで。
極、限られた者しか訪れて来ない<ORACLE>とは違うのだ。

そんなもの必要ねえだろ?

もう…私の為にCGを造ってくれる気は無いのか…?

CGでも写真でも無く、実物を見られるんだぜ?

それが現実空間では『本物』であって、現実空間では正しいやり方だとしても…

溜息を吐き、オラクルはゆっくりと立ち上がった。陽射しが眩しい。カーテンを引く為に窓際に歩み寄ろうとした、その動きが止まった。
視界が、赤く染まる。
膚の下を何かが蠢くような激しい不快感。
嘔吐感と、目眩と、耳鳴り。
そして身を貫くような恐怖…
「__オラ…ト__」
そのまま、オラクルは意識を失った。


「エララさん、エモーションさん」
三姉妹が揃って歩いている姿を認め、シグナルは手を振って声を掛けた。
「__と、ユーロパ」
「あんたって本当にいつになっても変わらないわね」
相変わらずなシグナルに、ユーロパはやや憮然として言い、姉二人は微笑った。
「『起動して10年も経つのに最新型(できたて)の頃と変らず、馬鹿だ』って言うんだろ?くそパルスにもいつも言われてるよ」
別に気にしていないといった態度で、シグナルは言った。戦闘能力は向上したものの、性格は変わらない。それが自分の個性なのだと、今では自覚している。
「それよりお揃いで、どっかお出掛けですか?」
「ユーロパと同じ日に休みが取れましたので」
「一緒にお買い物に行こうと思いまして」
エララとエモーションが答えた。エララとユーロパは看護ロボットとして大学病院に勤務している。人間の看護婦同様、休日は不定期だ。T・Aの案内係りを勤めるエモーションとの三人では、なかなか休日が合わない。
「オラクル様もお誘いしようと思いましたのに、先程、伺ったらお部屋にいらっしゃいませんでしたの」
「そう言えば最近、オラクルの事、見てないな…。折角ボディが出来たのに、いっつも部屋に閉じ篭もってるみたいでさ」
あ、と、エモーションが小さく声を上げた。
「今日はオラトリオ様が出張から帰ってらっしゃる日でしたわ。それではオラクル様、私たちに付き合って下さるのは無理ですわね」
「馬鹿兄がオラクルを独り占めしたくて閉じ込めてるんでなきゃ、良いけど」
ぼやくように言ったシグナルの言葉に、エモーションは幽かに苦笑した。


「…クル。オラクル…」
耳元で、聞き慣れた声が囁く。何とか眼を開け、わずかに首を巡らした。
とても奇麗な暁の瞳。そして、安堵感をもたらしてくれる雄々しい笑顔。
「オラト__」
途中で、オラクルは言葉を切った。

高い丸天井(ドーム)。
広々した空間。
数多(あまた)の本棚。
何より、全てがあるべきようにあるという感覚…

「ここ…は…」
オラトリオに助けられて半身を起こし、オラクルは周囲を見回した。嫌、見回す必要など無かった。視覚情報に頼らなくとも、何処に何があるのか、手に取るようにはっきりと判る。そもそも、本棚や本はデータを具象化したCGに過ぎないのだから。
「侵入者への恐怖のせいで、ボディの制御が狂ったんだな。ボディへのリンクが切れて、コントロール不能になった」
苦々しげに、オラトリオは続けた。
「ボディが出来て外に出られりゃ、少しは恐怖心も薄らぐかと思ってたのにな」
侵入者どもは灼き払った。もう、安心して良い__言って、オラトリオは改めてオラクルを抱きしめた。
オラクルは、ぼんやりと空間を見遣った。
恐怖が和らがないのは当然だ。プログラムは以前通り、本体にあるのだから。喩え人格プログラムもロボットのボディに移されたとしても、データを棄てて逃げる事など赦されない。
ゆっくりと、オラクルは眼を閉じた。
全てが、整然としている。
整合性が取れ、均衡が保たれ、調和している。
当然だ。
そうであるように、管理しているのだから。


「落ち着いたら、戻ろうぜ」
オラトリオの言葉に、オラクルの指先が震えた。
「…どうして?」
「どうしてって__」
「<ORACLE>(ここ)にいれば、全てがきちんと整ってるのに、現実空間はままならない事ばかりだ。どうしてあんなボディに閉じ込められて、自由を奪われなきゃならないんだ?」
オラトリオは、すぐには答えられなかった。
オラクルの言葉は、余りに意外で。
「…閉じ込められてって、お前__」
「私は人間じゃ無い。お前ともエモーションとも他のロボットとも違う。私は<ORACLE>なんだ」
オラトリオの手を振り払い、オラクルは相手から離れた。その後ろ姿を、オラトリオは半ば呆然と見遣った。
「<ORACLE>(ここ)が私の世界なんだ。ここに住んでいるというより、<ORACLE>は私そのものだ。細胞が人間を形作り、ロボットが部品から造られるように、<ORACLE>の全てのプロセス、プログラムが私を構成している」
黙ったまま、オラトリオは前髪をかき上げた。
そう、本当は意外でも何でもない__判っていた。さもなければ、この歳月は、全ての想いは喜劇でしかなくなってしまうだろう。
笑う事の出来ない喜劇に。

判っていた。
お前は<ORACLE>だから、決して俺のものにはならない。
<ORACLE>から引き離して、俺だけのものにしたかった。
そんな事は不可能だと、判ってはいたけれど。

「人間に取って、CGや電脳空間がただの仮想でも、作り物の偽物でしかなくても、私には…」
オラトリオは黙ったままオラクルに歩み寄った。そして、背後からそっと抱きしめる。
「…お前が偽物だなんて、思っちゃいねえぜ」
「偽物だよ」
苦い笑いと共に、オラクルは言った。
「お前が造られる前は、私にCGなんか無かった。五感も無かった。ただ、<ORACLE>として存在していた」

私がそのままだったら、お前は私を愛してはくれなかっただろう?

醒めた問いに、喉を絞められるようにオラトリオは感じた。
「無理だよね…。お前に微笑む事も出来ないし、抱きしめても貰えない。だから…」

CGを得た事は嬉しい。
でも、それ以上は望まない。
思考調整が取り除かれた今でも…

オラトリオは、オラクルを抱きしめる腕に力を込めた。
2年前、オラクルのボディを造るプロジェクトが発足する前に、みのるに聞いた事を思い出す。みのるはそれを、当時既に故人となっていた養母から聞いたのだ。

オラクルは最初から思考調整などされていない。
思考調整されているという思い込み__それだけで充分だった。
オラクルは、<ORACLE>だから。
いくら意志と感情を持っていても、如何にそれが人間と似ていようと、ロボットはロボット。プログラムはプログラムでしかない。喩え彼らが人間と対等になり得ても、別な存在である事に変わりは無い…

みのるはオラトリオに話さなかったが、もしもオラクルのパーソナルプログラムが本体から離され、HFRのボディに移される計画が立てられたなら、彼女は反対していただろう。
もしも<ORACLE>が非常な危機に陥ったら、オラトリオはオラクルのパーソナルを逃がそうとするに違いない。オラクルに危害が及ばないよう、ボディと本体のリンクを切って。
だが、そんな事をしてしまったら<ORACLE>は制御(コントロール)を失い、システムが機能不全に陥る。<ORACLE>の守護者であるオラトリオに、そんな真似は赦されない。
もしもそうなったら、オラトリオは混乱し、人格プログラムに酷いダメージを受けるだろう__それが、みのるには予測できた。

「…お前は自分で自分の可能性を狭めてるだけだ」
やがて、オラトリオは言った。
「現実空間でボディが出来たからって、お前は何も失っちゃいねえ。今まで通り、<ORACLE>を制御できるし、こうやって電脳空間に戻っても来れる。今はまだ、現実空間に慣れていねえから__」
「どうしてそんな事をしなければならない?」
相手の言葉を遮って、オラクルは言った。
「私が『世間知らず』だから?何も知らないで、ひとつの空間に閉じこもって、本当は可哀相なのに、そんな事も気付かずに自分を幸せだと思い込んでるから?」
「__オラクル…」
オラクルは振り向き、オラトリオを見つめた。
「私は幸せだったよ。<ORACLE>から出られなくても、実体を持たなくても」

お前は…幸せじゃ無かったのか…?


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