(2)


ホテルでアフタヌーンティーを愉しむ頃には、オラクルの気持ちも大分、落ち着き、和んでいた。
温室の中は外より過ごし易く、外に比べると散りかけの花も少なくて、蘭などが高貴な美しさを競うように咲いていた。
紅茶の味も申し分なく、何種類かの紅茶を選び、缶に入れて買って帰った。勿論、茶器やティーストレーナーも。
「誰かと思ったら、オラトリオじゃない」
研究所に戻ってきた所で、オラトリオは声を掛けられ振り向いた。研究助手で、普段から気安く言葉を交わす間柄の若い女性だ。
「やあシルヴィア。制服着てるって事は仕事なのか?週末だってのに」
「そ、週末なのに。あなたは良いわね。お洒落しちゃって、デート?」
オラクルは黙ったままオラトリオから離れた。どうしてそんな事をしたのか、判らない。
「ま、そんなとこかな」
「ずるいわね、人が仕事してる時に。今度、私を誘いなさいよ。そう言えば食事に連れて行ってくれるって約束、どうなってるの?」
オラクルは二人に背を向け、歩き出した。
「おい、オラクル。待てよ」
「オラクル?オラクルって、あの<ORACLE>の__」
「悪ぃなシルヴィア。後で埋め合わせするぜ」
研究助手との会話を強引に切り上げ、オラトリオはオラクルの後を追った。


「なあ…何、怒ってるんだよ」
部屋に戻ると、出来るだけ優しくオラトリオは言った。
「…随分、親しそうだったな」
「ただの社交辞令だろうが」
「食事に連れて行く約束をしたって」
オラトリオは肩を竦めた。
「連れてけって言うから、その内って答えた__向こうだって本気で約束したなんざ思ってねえぜ」
「それが…現実空間のやりかたなのか」
非難するような眼でオラクルに見つめられ、オラトリオは溜息を吐いた。
「言った通り、ただの社交辞令だ。人間と付き合うには必要な事なんだ。お前は今まで人間と直で接した事が無ぇから判んねえだろうが」
「人間に直接、対応した事だってあるよ」
インターフェース・プログラムでは対応しきれない時には__苛立たしげに、オラクルは付け加えた。オラトリオはもう一度、溜息を吐いた。
「そういう時の人間は仕事の顔、表の顔しか見せねえの。第一、<ORACLE>へのアクセスには時間単位で課金されるからな。無駄話なんぞ、する訳もねえ」
「要するに、私は『世間知らず』で何も判っていないって言うんだろう?」
「オラクル…」
二人の間に、沈黙が降りた。オラクルは疲れきったように、ソファに腰を下ろした。オラトリオはオラクルに歩み寄り、ヘーゼルブラウンの前髪を、そっとかき上げた。
「今日は疲れたんだろう…初めて外出したんだしな」
優しく囁かれ、オラクルは眼を伏せた。
「紅茶、いれてやろうか?それかハーブティーかホットミルクでも」
オラトリオが監査から疲れて帰って来ると、いつもオラクルはそう言って、オラトリオを労ったものだ。それからソファに寄り添って座り、オラトリオは愛する者の許へ戻ってきた幸福を、オラクルは愛する者が戻ってきた安堵を味わった。

幸せだったのに…

そう、幸せだった。現実空間に出られなくても。現実空間に実体(ボディ)を持たなくても。それを哀しんだ事も、不満に思った事も無い。
現実空間への憧れが無かったとは言わない。けれどもそれは、余りに弱く曖昧な感情で、むしろ懼れの方がずっと強かった。
「…もう、寝たい__お前も明日は早く出なければいけないんだろう?」
「俺に付き合って早起きする事は無いぜ?」
「見送りたいから…」
そう言ったオラクルの額に、オラトリオは軽く口づけた。


ヨーロッパへ1週間の監査出張。その準備を済ませたオラトリオを、オラクルは幾分か不思議そうに眺めた。
「そういう格好をしていると、人間みたいだな」
冷却用コートの必要がなくなってから、オラトリオは監査にはスーツ姿で行く事にしていた。
「まあ、外見はな。お前だって着替えりゃ充分、人間で通用するぜ。昨日だって俺達、人間に見られてたぜ?」
「何だか不思議だな…。でも、似合ってるよ」
「惚れ直したか?」
軽くウインクしたオラトリオに、オラクルは微苦笑した。
「1週間で戻る」
言って、オラトリオはオラクルを抱き寄せた。
「研究所の外に出る時は、誰かに一緒に行って貰えよ。皆、それぞれ仕事があるが、手があいてる時には付き合ってくれるよう、頼んどいた。遠慮する事はねえぜ?」
「うん…判った」
「それからクレジット・カードと小銭を忘れるなよ。現実空間じゃ、何をするにも金がかかるんだからな」
「…判ってる」
「怪しげな客引きや物売りは相手にするな。って言うより、そういう連中がいる所に近づくな」
「判ってるよ。それより、出掛けないと飛行機に乗り遅れるぞ」
オラクルの言葉に、オラトリオは相手に口づけ、それからスーツケースを手に取った。オラクルは研究所の入り口までオラトリオを見送り、そこで二人は別れた。



「ご機嫌よう、オラクル様」
オラトリオがヨーロッパに発って3日後、オラクルの部屋をエモーションが訪れた。
「やあ…いらっしゃい、エモーション」
<ORACLE>で客を迎える時のように微笑して、オラクルは言った。この3日の間、オラクルは部屋から一歩も外に出ていなかった。
「紅茶をいれてらしたんですの?」
「練習しようと思って。少しは上手にいれられるようになったと思うんだけど」
「お味見させて頂いてよろしいですか?」
エモーションの言葉に、オラクルは微笑んで頷いた。
オラクルのいれた紅茶を、とても美味しいとエモーションは誉めた。漸くコツをつかんで、納得の行くいれかたが出来るようになったのだと、オラクルは話した。
「オラトリオ様がお留守で、お寂しいでしょう?」
エモーションの問いに、オラクルは曖昧に頷いた。
「外に出ていらっしゃれば宜しいのに。研究所の敷地から出なくても、小さな公園や、テニスコートもありましてよ」
「誘ってくれるのは嬉しいけど…」
でも、と、オラクルは首を振った。
「私は戦闘型じゃ無いし、この暑い屋外で走ったりするのは無理だよ」
「判りますわ…私も運動は苦手ですもの」
エモーションもオラクルも、他のHFRに劣らない運動性能のボディを与えられている。戦闘型に比較すればその能力は劣るものの、ボディを得て3年も経っているエモーションが未だに運動能力に劣るのは、ハード以外の要因があるからだった。
「この前…オラトリオ様とご一緒に、植物園にいかれたんですわね?」
オラクルは頷いた。
「がっかりなさったでしょう」
悪戯っぽい笑顔と共に言われ、オラクルは相手の顔を見つめた。
「私も初めて行った時、がっかりいたしましたもの。だって、CGの方が奇麗なんですから」
オラクルは促すでも無く、相手が続けるのを待った。エモーションはカップを傾け、ダージリンの薫と味を楽しんでから続けた。
「花が美しく咲いていられる時間というのは、とても短いのです。盛りを過ぎればすぐに萎れ、枯れてしまいます。蕾のうちに害虫や病気にやられてしまったり…。だからこそ、美しく咲いた花を、人は愛でるのですわ」

…だから…?

「いつも奇麗なCGも良いのですけれど、短い期間だけ美しく咲く現実の花も素敵ですわよ」

私が嬉しかったのは、オラトリオがそれを私にくれたから
私が奇麗だと思ったのは、オラトリオがそれを造ってくれたから
それ以外の理由なんて無い
それが、何故、いけない…?

「__ねえ…エモーション?」
ティーカップの中を見つめたまま、オラクルは言った。
「現実空間にボディを得て、君は幸せになった…?ボディと引き換えに、君は電脳空間への潜入能力を失った。それでも…?」
オラクルの言葉に、エモーションはすぐには答えなかった。カップを傾け、白磁のうえに透明な琥珀色を見遣る。
「私は、今でも幸せです」
けれども、幸せはひとそれぞれ。自分の幸せが、オラクルの幸せと同じだと言う積もりはエモーションには無かった。
「じゃあ、質問を変えるよ」
微苦笑して、オラクルは言った。
「電脳空間で、君は不幸せだった?」

現実空間に出る事が出来ず、現実空間に実体(ボディ)を持たないせいで?

エモーションは、相手を見つめた。ヘーゼルブラウンの髪と同じ色の瞳には、電脳空間にいた時のようなノイズは見られない。感情の機微が、幽かな色調の変化に現れる事も無い。
それでも、穏やかな微笑に隠された苦悩は感じ取れる__或いは、思い込みかも知れないけれど。
「いいえ」
短く、だがはっきりと、エモーションは言った。
「だったら…何故?」
「それは…自分でも良く判りませんわ。妹達を抱きしめてみたいとか、単なる好奇心とか、与えられた機会を逃したくなかったとか…」
申し出を聞いた時には酷く悩んだ。迷い、悩んだ挙げ句、決意したのだ。その決意が正しかったかどうかは、今でも判らない。後悔している訳では無いが。
「それでも、自分で決めた事ですから」
微笑んで言うエモーションの言葉に、オラクルは背筋が凍る様な、恐怖に似た感覚を覚えた。

誰も…聞いてくれなかった。
私の意志など、誰も…



next/back