ホテルでアフタヌーンティーを愉しむ頃には、オラクルの気持ちも大分、落ち着き、和んでいた。 温室の中は外より過ごし易く、外に比べると散りかけの花も少なくて、蘭などが高貴な美しさを競うように咲いていた。 紅茶の味も申し分なく、何種類かの紅茶を選び、缶に入れて買って帰った。勿論、茶器やティーストレーナーも。 「誰かと思ったら、オラトリオじゃない」 研究所に戻ってきた所で、オラトリオは声を掛けられ振り向いた。研究助手で、普段から気安く言葉を交わす間柄の若い女性だ。 「やあシルヴィア。制服着てるって事は仕事なのか?週末だってのに」 「そ、週末なのに。あなたは良いわね。お洒落しちゃって、デート?」 オラクルは黙ったままオラトリオから離れた。どうしてそんな事をしたのか、判らない。 「ま、そんなとこかな」 「ずるいわね、人が仕事してる時に。今度、私を誘いなさいよ。そう言えば食事に連れて行ってくれるって約束、どうなってるの?」 オラクルは二人に背を向け、歩き出した。 「おい、オラクル。待てよ」 「オラクル?オラクルって、あの<ORACLE>の__」 「悪ぃなシルヴィア。後で埋め合わせするぜ」 研究助手との会話を強引に切り上げ、オラトリオはオラクルの後を追った。 「なあ…何、怒ってるんだよ」 部屋に戻ると、出来るだけ優しくオラトリオは言った。 「…随分、親しそうだったな」 「ただの社交辞令だろうが」 「食事に連れて行く約束をしたって」 オラトリオは肩を竦めた。 「連れてけって言うから、その内って答えた__向こうだって本気で約束したなんざ思ってねえぜ」 「それが…現実空間のやりかたなのか」 非難するような眼でオラクルに見つめられ、オラトリオは溜息を吐いた。 「言った通り、ただの社交辞令だ。人間と付き合うには必要な事なんだ。お前は今まで人間と直で接した事が無ぇから判んねえだろうが」 「人間に直接、対応した事だってあるよ」 インターフェース・プログラムでは対応しきれない時には__苛立たしげに、オラクルは付け加えた。オラトリオはもう一度、溜息を吐いた。 「そういう時の人間は仕事の顔、表の顔しか見せねえの。第一、<ORACLE>へのアクセスには時間単位で課金されるからな。無駄話なんぞ、する訳もねえ」 「要するに、私は『世間知らず』で何も判っていないって言うんだろう?」 「オラクル…」 二人の間に、沈黙が降りた。オラクルは疲れきったように、ソファに腰を下ろした。オラトリオはオラクルに歩み寄り、ヘーゼルブラウンの前髪を、そっとかき上げた。 「今日は疲れたんだろう…初めて外出したんだしな」 優しく囁かれ、オラクルは眼を伏せた。 「紅茶、いれてやろうか?それかハーブティーかホットミルクでも」 オラトリオが監査から疲れて帰って来ると、いつもオラクルはそう言って、オラトリオを労ったものだ。それからソファに寄り添って座り、オラトリオは愛する者の許へ戻ってきた幸福を、オラクルは愛する者が戻ってきた安堵を味わった。 幸せだったのに… そう、幸せだった。現実空間に出られなくても。現実空間に実体(ボディ)を持たなくても。それを哀しんだ事も、不満に思った事も無い。 現実空間への憧れが無かったとは言わない。けれどもそれは、余りに弱く曖昧な感情で、むしろ懼れの方がずっと強かった。 「…もう、寝たい__お前も明日は早く出なければいけないんだろう?」 「俺に付き合って早起きする事は無いぜ?」 「見送りたいから…」 そう言ったオラクルの額に、オラトリオは軽く口づけた。 ヨーロッパへ1週間の監査出張。その準備を済ませたオラトリオを、オラクルは幾分か不思議そうに眺めた。 「そういう格好をしていると、人間みたいだな」 冷却用コートの必要がなくなってから、オラトリオは監査にはスーツ姿で行く事にしていた。 「まあ、外見はな。お前だって着替えりゃ充分、人間で通用するぜ。昨日だって俺達、人間に見られてたぜ?」 「何だか不思議だな…。でも、似合ってるよ」 「惚れ直したか?」 軽くウインクしたオラトリオに、オラクルは微苦笑した。 「1週間で戻る」 言って、オラトリオはオラクルを抱き寄せた。 「研究所の外に出る時は、誰かに一緒に行って貰えよ。皆、それぞれ仕事があるが、手があいてる時には付き合ってくれるよう、頼んどいた。遠慮する事はねえぜ?」 「うん…判った」 「それからクレジット・カードと小銭を忘れるなよ。現実空間じゃ、何をするにも金がかかるんだからな」 「…判ってる」 「怪しげな客引きや物売りは相手にするな。って言うより、そういう連中がいる所に近づくな」 「判ってるよ。それより、出掛けないと飛行機に乗り遅れるぞ」 オラクルの言葉に、オラトリオは相手に口づけ、それからスーツケースを手に取った。オラクルは研究所の入り口までオラトリオを見送り、そこで二人は別れた。 「ご機嫌よう、オラクル様」 オラトリオがヨーロッパに発って3日後、オラクルの部屋をエモーションが訪れた。 「やあ…いらっしゃい、エモーション」 <ORACLE>で客を迎える時のように微笑して、オラクルは言った。この3日の間、オラクルは部屋から一歩も外に出ていなかった。 「紅茶をいれてらしたんですの?」 「練習しようと思って。少しは上手にいれられるようになったと思うんだけど」 「お味見させて頂いてよろしいですか?」 エモーションの言葉に、オラクルは微笑んで頷いた。 オラクルのいれた紅茶を、とても美味しいとエモーションは誉めた。漸くコツをつかんで、納得の行くいれかたが出来るようになったのだと、オラクルは話した。 「オラトリオ様がお留守で、お寂しいでしょう?」 エモーションの問いに、オラクルは曖昧に頷いた。 「外に出ていらっしゃれば宜しいのに。研究所の敷地から出なくても、小さな公園や、テニスコートもありましてよ」 「誘ってくれるのは嬉しいけど…」 でも、と、オラクルは首を振った。 「私は戦闘型じゃ無いし、この暑い屋外で走ったりするのは無理だよ」 「判りますわ…私も運動は苦手ですもの」 エモーションもオラクルも、他のHFRに劣らない運動性能のボディを与えられている。戦闘型に比較すればその能力は劣るものの、ボディを得て3年も経っているエモーションが未だに運動能力に劣るのは、ハード以外の要因があるからだった。 「この前…オラトリオ様とご一緒に、植物園にいかれたんですわね?」 オラクルは頷いた。 「がっかりなさったでしょう」 悪戯っぽい笑顔と共に言われ、オラクルは相手の顔を見つめた。 「私も初めて行った時、がっかりいたしましたもの。だって、CGの方が奇麗なんですから」 オラクルは促すでも無く、相手が続けるのを待った。エモーションはカップを傾け、ダージリンの薫と味を楽しんでから続けた。 「花が美しく咲いていられる時間というのは、とても短いのです。盛りを過ぎればすぐに萎れ、枯れてしまいます。蕾のうちに害虫や病気にやられてしまったり…。だからこそ、美しく咲いた花を、人は愛でるのですわ」 …だから…? 「いつも奇麗なCGも良いのですけれど、短い期間だけ美しく咲く現実の花も素敵ですわよ」 私が嬉しかったのは、オラトリオがそれを私にくれたから 私が奇麗だと思ったのは、オラトリオがそれを造ってくれたから それ以外の理由なんて無い それが、何故、いけない…? 「__ねえ…エモーション?」 ティーカップの中を見つめたまま、オラクルは言った。 「現実空間にボディを得て、君は幸せになった…?ボディと引き換えに、君は電脳空間への潜入能力を失った。それでも…?」 オラクルの言葉に、エモーションはすぐには答えなかった。カップを傾け、白磁のうえに透明な琥珀色を見遣る。 「私は、今でも幸せです」 けれども、幸せはひとそれぞれ。自分の幸せが、オラクルの幸せと同じだと言う積もりはエモーションには無かった。 「じゃあ、質問を変えるよ」 微苦笑して、オラクルは言った。 「電脳空間で、君は不幸せだった?」 現実空間に出る事が出来ず、現実空間に実体(ボディ)を持たないせいで? エモーションは、相手を見つめた。ヘーゼルブラウンの髪と同じ色の瞳には、電脳空間にいた時のようなノイズは見られない。感情の機微が、幽かな色調の変化に現れる事も無い。 それでも、穏やかな微笑に隠された苦悩は感じ取れる__或いは、思い込みかも知れないけれど。 「いいえ」 短く、だがはっきりと、エモーションは言った。 「だったら…何故?」 「それは…自分でも良く判りませんわ。妹達を抱きしめてみたいとか、単なる好奇心とか、与えられた機会を逃したくなかったとか…」 申し出を聞いた時には酷く悩んだ。迷い、悩んだ挙げ句、決意したのだ。その決意が正しかったかどうかは、今でも判らない。後悔している訳では無いが。 「それでも、自分で決めた事ですから」 微笑んで言うエモーションの言葉に、オラクルは背筋が凍る様な、恐怖に似た感覚を覚えた。 誰も…聞いてくれなかった。 私の意志など、誰も… next/back |