ゆっくりと、オラクルは瞼を上げた。それだけの動作がひどく億劫だ。 光が流れ込んで来る。 音も。 センサーが拾った外部信号を変換して認識しているんだな… ぼんやりと、そんな事を思った。 「…オラクル?」 耳元で、聞き慣れた声が囁く。何とか眼を開け、わずかに首を巡らした。 とても奇麗な暁の瞳。そして、安堵感をもたらしてくれる雄々しい笑顔。 「__オラトリオ…」 唇から言葉が漏れる。 発音はもう少し、矯正した方が良さそうだ。 でも…そもそも此処ではどんな言葉で喋れば良いんだ? 「大丈夫か?オラクル」 もう一度、優しく囁かれ、オラクルは何とか笑顔を見せた。きっとひどくぎこちない表情なのだろうと思いながら。 「手を貸しちゃいかん。自分で起きさせるんだ」 オラトリオがオラクルに触れようとすると、周りで見守っている研究員の一人が言った。オラトリオは軽く肩を竦め、もう一度、オラクルに呼びかけた。 「大丈夫…一人で起きられるから…」 言って、オラクルは調整台の上に半身を起こした。急激にCPU使用率が上がり、視覚信号が乱れる。言ってみれば、『目眩』だ。 オラクルは、何度か瞬いた。今度は瞼の動作もスムーズだ。『目眩』もすぐに収まった。 「ちょっと手を動かしてみてくれ。座ったままで良い」 研究員に言われるまま、オラクルは腕や指を動かした。一度、やってしまえば、二度目にはずっと楽になる。 少し、気持ちが楽になったので、オラクルはもう一度、オラトリオに微笑んで見せた。表情の制御には、まだ訓練が必要そうだ。 「じゃあ、今度は立って。歩行機能をチェックする」 そうして、オラクルは初めて自分の脚で、現実空間に降り立った。 「疲れただろ?初めての事だからな」 一通りの動作確認が済むと、研究員たちは部屋を出て行った。顕著な問題は認められない。プロジェクトの成功は間違いないだろう__そう言った彼らは満足そうだった。 「…これからどうするんだ?ボディの自由時間なのは判るけど」 起動して25年、オラクルは初めて自分のボディを得、<ORACLE>の外に出たのだ。それでも、<ORACLE>の管理者である事に変わりは無い。今も、リンクされた<ORACLE>を制御している。 正確に言えば、<ORACLE>本体の方からオラクルのボディを制御しているのだ。 主要なプログラムは今もスーパー・コンピュータの本体にある。ただボディから視聴覚情報を得ているので、人格プログラムはボディの中にいるように感じるのだが。 「1週間は研究所を離れるなって言われてるからな。研究所内でも見たきゃ案内するけど。今日は部屋に帰って休んだ方が良いだろ」 嬉しそうに、オラトリオは言った。 オラクルにボディを与えるこのプロジェクトの立ち上げに、オラトリオは文字通り東奔西走して根回ししたのだ。無論、言い出したのはオラトリオでは無い。人間の賛同者がいなかったら、誰もロボットの言葉になど耳を貸さなかっただろう。 「歩くのが疲れたんなら抱いてってやるぜ?」 「大丈夫だよ。…って言うより、そんな姿を研究員たちに見られたらまずいだろう」 心配そうに言うオラクルに、オラトリオは肩を竦めた。 「まあな。お前の歩行機能に異常が生じたんじゃないかとか何とか、騒ぎになり兼ねねえよな」 二人は、研究所内に用意された部屋に行った。オラトリオとオラクルの部屋は別々に用意されているのだが、サポートの必要性を名目に、オラトリオは同室で過ごす事を認めさせていた。 寝室と、リビングルーム。リビングの一隅にはキチネット(簡易キッチン)もある。要するに、人間の研究員の為の寮の一つなのだ。そしてその空間を、オラトリオは出来るだけオラクルの好みに合うように、設えていた。 「気に入ったか?」 言って、オラトリオはオラクルを背後から抱きしめた。 ずっと、抱きしめたいと思っていた。 電脳空間だけでなく、この現実空間でも。 プロジェクトが発足してから今日までの1年半の間、この瞬間をずっと待ち望んでいた。 「__何だか…妙な感覚だな…」 オラトリオに寄り添って、オラクルは言った。 「私は此処にいて、お前に抱きしめられているのに、もう一人の<ORACLE>(わたし)は今まで通り、稼動しているなんて…」 「お前は此処にいるのさ」 オラクルの頬に口づけ、オラトリオは言った。頬の柔らかさも、髪のしなやかさも、今までと同じ様に感じられる。それが、却って奇妙に感じられるのは確かだ。 「なあ…俺はすっげえ嬉しいぜ」 オラクルの身体の向きを変えてまっすぐに見つめ、オラトリオは言った。 「__私も…」 微笑んで言ったオラクルに、オラトリオは唇を重ねた。 「オラクル様」 「オラクル〜」 次の日、訓練の間の休憩時間にオラクルを訪ねてきたのはシグナルとエモーションだった。かつて電脳空間のみでの存在だったエモーションは、3年前にボディを得、今では妹達同様、現実空間に住まう身となった。 引き換えに、電脳空間への潜入能力は失ったが。 「ご機嫌よう、オラクル様。ボディの調子は如何ですの?」 「悪くないと思うよ」 微笑してオラクルが答えると、シグナルも口を開いた。 「さっきまでオラクルの事、見てたんだけどさあ。起動して2日目のロボットにしちゃ、すっごく動きが滑らかだって。皆、言ってたよ」 「こいつは物覚えが良いのさ」 シグナルの賛辞に、オラトリオが誇らしげに言った。オラトリオは自分の多忙なスケジュールを調整して、この1週間はずっとオラクルに付き添う事にしている。 「それは当然だろう。このボディを制御しているのは直接には皆と同じHFR仕様のプログラムだけど、背後で私の本体が管理を司っているのだから」 オラクルの言葉に、シグナルが不思議そうに聞いた。 「背後で司ってる…って?」 「私は<ORACLE>から出た訳じゃない。私のシステム、私のプログラムは以前通り、スーパー・コンピュータの本体にある。ただボディを通じて五感の感覚情報を得ているから、このボディの中にいるように感じるし、周りからもそういう風に見えるだけで」 シグナルは、頭の後ろで腕を組んだ。 「何か良く判んないけど…オラクルって、<ORACLE>の外に出た訳じゃ無かったんだ」 「ハードの性能の問題だよ」 軽く苦笑して、オラクルは続けた。 「ロボットは筐体制御に多大なシステムリソースを必要とする。その上、<ORACLE>の膨大なデータを管理するなんて、ハード的に不可能なんだ。だから本体の方で、システムも、ボディも制御している」 「よく判んないんだけど、要するにオラクルって僕たちとは違うんだな」 シグナルの言葉に、オラクルはただ困ったように微笑った。 二人の会話を見守るオラトリオの表情が酷く苦々しげなのを、エモーションは見逃さなかった。 訓練と調整と検査の為の1週間は、滞りなく過ぎた。 オラクルは1度、こなした動作は次からは何の苦も無くやってのけ、調整すべき点は特に見出されなかった。テスト項目も順調にこなし、動作確認は無事、終了した。 そして、週末。 「デート?」 「そ、デート。やっと外出許可も出たし、連れて行きたい所が山ほどある。お前はどこ、行きたい?」 問われて、オラクルは小首を傾げた。 「どこって言われても…」 「やっと外に出られるってのに、行きたい所の一つもねえのかよ」 笑って、オラトリオは言った。それから、オラクルを抱き寄せる。 「連れて行きたい所がある。見せたい物がある。CGじゃ無くて、本物を__それがやっと叶うんだ…な」 間近に見つめられ、オラクルは頬が幽かに赤らむのを感じた。 この1週間で、ボディの制御は細かい点も含めて何の問題も無くこなせるようになった。CGの身体を動かすのと、同じ様に感じられる。 「嬉しそうだな、オラトリオ」 「お前は嬉しくねえのかよ」 「…嬉しいよ、勿論」 それなのに、答えるまでにタイムラグが生じるのは何故だろう… 「そんじゃ、俺の決めたとこで良いんだな?最初っから遠出は無理だろうから、近場の植物園にしようと思うんだが?」 「お前の決めたところで良いよ」 決まりだな__言って、オラトリオは席を立ち、クローゼットを開けた。 「着替え。お前の分も用意しといたぜ」 「着替え?」 鸚鵡返しに聞き返したオラクルに、オラトリオは笑った。 「その格好のまんま外に出る気だったのか?お前の世間知らずって直んねえよな」 言われて、オラクルは自分の服を見た。 電脳空間にいる時と同じ黒衣とローブ。ローブの色はマホガニー・ブラウンで、雑色では無いが。 「着替え、手伝ってやるぜ」 「良いよ。自分で着替えるから」 「何を今更、恥ずかしがってんだよ__つっても、まだお前のボディ、ちゃんと見せて貰ってなかったな」 逃れようとするオラクルの腕を掴んで、オラトリオは言った。オラクルはオラトリオの腕を振り払おうとして、それが不可能なのを知った。 力の差があり過ぎる。 電脳空間でなら、力の差など、問題では無かった。<ORACLE>の全てを統御しているのはオラクルだから。 急に不安になるのを、オラクルは覚えた。 「…どうした、オラクル?」 不意に抵抗を止め、黙り込んだオラクルに、オラトリオは聞いた。オラクルは俯き、答えない。 「__すまん…。力、入れ過ぎたか?」 ふざけ過ぎたかもしれない__そう、オラトリオは思った。オラクルと外出できる__その事で、ひどく舞い上がっていたから。 「…自分で着替える」 「__ああ…」 オラクルを寝室に残し、オラトリオはリビングに出た。 植物園に着くまでにはオラクルの機嫌も直っていた。と言うより、見聞きするもの全てが珍しく、オラトリオを質問攻めにしたのだ。 「今のあれは何?」 「あれって、屋台の事か?」 「それが判らないから聞いて__あ、あの人が持ってるあれは?」 「あの人ってどの人だよ」 二人はバスを利用したのだが、車窓の風景はめまぐるしく移り変わり、過ぎ去る。 「再生してよ。3250ミリセカンド、前」 「__オラクル…」 言ってしまってから、オラクルも自分の言葉に気付いた。そして、苦笑する。 「…これはお前の造ったCGじゃ無いんだよね」 「これからは外出する機会も幾らでもある。すぐに慣れるさ」 オラクルの肩に軽く手を置いて、優しくオラトリオは言った。 「…暑い…」 植物園に着いてから3度目にオラクルが言うと、オラトリオはやや大仰に肩を竦めた。 「俺と同じ体温調整機能は付いてる筈なんだけどな」 オラトリオが冷却用コートを必要としなくなったのは7、8年前の事だ。廃熱機能が向上すると共に冷却装置の小型化に成功し、体内に内蔵したのだ。結果、冷却用コートは必需品ではなくなった。それでも、電脳空間でのCGは相変わらずの服装だったが。 「温室の方に行くか?温室の中の方が外より温度が低いからな。外の方がいろんな花が見られるんだが」 オラトリオの言葉に、オラクルは答えなかった。研究所を出て植物園に着くまでの間は、初めて見聞きする風物に眼を奪われていた。でも花は… 確かに色々な種類の花が咲いているし、見た事のない植物もある。 けれども花は花だ。 今更、珍しいとも、特に奇麗だとも思わない。 オラトリオの造ってくれたCGの方が、ずっと奇麗だ。 オラクルは傍らの名前の判らない__知りたいとも思わない__花に軽く触れた。生気が無く、みすぼらしい。 「どうしてこの花はこんなに萎れてるんだ?」 「ああ…散りかけてるんだ」 聞き返すように、オラクルは相手を見た。オラトリオは幽かに眉を曇らせた。 「俺がお前に造って見せたCGの花は枯れたり萎んだりしねえからな。師匠の桜なんか、散り際の見事さをメインに造ってあったりしたが…」 「…どうして?」 理由は判る気がした。が、敢えてオラクルは聞いた。 「お前には、最高に奇麗な花だけを贈りたかったから」 その気持ちは嬉しい。 でも… だったら何故、わざわざこんな暑い中、萎れた花を見に連れ出したりする…? 「カフェにでも入って休もうぜ」 口を噤んでいるオラクルに、オラトリオは言った。 カフェテリアで、二人とも余り口をきかなかった。オラトリオは、<ORACLE>内に初めて花畑のCGを構築した時の事を思い出していた。 そうそう同じネタで何度も感動してくれるとは思ってねえが… あの時、オラクルは本当に嬉しそうだったし、幸せそうだった。だから、初めての『デート』に植物園を選んだのだ。 オラクルは黙ったまま、運ばれてきたアイスティーを一口、口に含みそれからストローでグラスの中を掻き回した。そして、同じ事を繰り返す。 「…何、やってんだ?」 「なかなか丁度良い温度にならないんだ」 一瞬、オラトリオは絶句した。 「お前…そのアイスティーの温度を制御しようってんじゃねえだろうな」 オラクルは幽かに眉を顰めた。 「これがCGじゃ無い事は判ってるよ。私の管理下に無い事も」 思い通りにはならない__温度も味も色も薫も何もかも。 「…口に合わなかったんだろ。植物園付属のカフェじゃな。そう美味い紅茶は期待できねえさ」 ホテルのラウンジで、最高級の紅茶が飲める所を知っていると、オラトリオは続けた。 「ここ見終わったらそこ行くか?そこなら何種類も茶葉を量り売りで売ってるし」 このまますぐに帰りたい。研究所内の部屋にではなく、<ORACLE>へ__そう言いたいのを、オラクルは何とか思いとどまった。 オラトリオは一緒に外出できるのをとても楽しみにしていたのだし、明日からは出張に出掛けてしまう。 一緒にいられる時間は大切にしたい… 「…温室の方を見たいな」 笑顔を見せて、オラクルは言った。 next/back |