crimson －緋色の狂気

暗部の医療室で応急処置を受けた後、イルカはすぐに里の病院に移された。
傷が癒えても、暗部には戻らなかった。
三代目火影の命でイルカは内勤となり、やがてアカデミー教師の職に就いた。
カカシはイルカの見舞いにも行かず、イルカとはそれきりになった。
アスマと会っても、イルカの話題を口にする事は無かった。

（7）

「……安心しろ。俺の事も覚えてないぜ」
暫く黙って煙草をふかしていたアスマが、独り言のようにぽつりと言った。
どうやら、俺を慰めようとしているらしい。
慰めを必要としているように見えたのなら意外だと、俺は思った。
「…どういうコト、それ」
そう思いながら、俺はアスマに聞き返していた。
「文字通り、何も覚えちゃいねぇって事だ。暗部にいた時の事は勿論、それ以前の事も」
「それ以前の事も？」
鸚鵡返しに聞き返した俺に、アスマは頷いた。
「そうだ。……イルカは＿＿」
ドアが開いて、何人かの上忍が入って来た。
アスマは口を噤み、俺もそれ以上は聞かなかった。
だがアスマの言葉は、俺を奇妙に落ち着かなくさせた。

８年前のあの時、俺は罪悪感に打ちのめされた。それまで罪悪感など覚えた事も無かった俺は、酷くうろたえた。そして、自分を呪った。
あの頃の俺は任務を遂行する為の道具としては優秀だったけれど、人間としてはどうしようもないくらい、歪んでいた。数え切れないくらいの術を会得していたが、人として当然、知っておくべき事は何も知らなかったし、知らないという事にすら、気づいていなかった。
あの人の手首に幾つも傷跡があるのに気づいていたのに、それが何を意味するかが判らなかったのだ＿＿あの人が、自分の両手首を切って血まみれで倒れているのを見るまでは。
そんな俺の嫉妬と独占欲が、あの人を追いつめてしまった。

里抜けを口にしたのはあの人への想いの強さを伝えたかったからだが、あの人には酷い重圧だったに違いない。
元々、あの人が想いを寄せていたのはアスマだけで、俺に付き合ったのは『生命を助けられた』という負い目と義務感からだったのだ。
だから、俺はあの人を見舞いもしなかった。俺が会いに行けば、あの人を苦しめるだけだと思ったから。
再会した時にあの人が初対面であるかのように振舞ったのを見て、俺は改めて自分の罪の深さを思った。あの人はもう、二度と俺に関わりたくないのだろうし、そう思われても当然だ。
だから、アスマの事も覚えていないと聞かされて、俺は落ち着かなくなった。
それ以前の事も何も覚えていないのだとアスマは言っていた。
それならば、あの人は俺を覚えていない振りをしたのではなく、本当に＿＿理由はともかく＿＿覚えていないのだ。
それが何を意味するのか知りたいと、俺は思った。
８年前に、あの人の事を碌に理解しなかったがゆえにあの人を苦しめてしまった。何をしてもその罪が購えるとは思わない。だがせめて、あの人を理解したかった。

俺は昔のコネを利用して、あの人に関する噂を集めた。
昔のコネとはすなわち、遊郭で馴染みだった女郎や男娼、暗部の先輩で、俺が利用し、俺の身体を利用していた相手の事だ。
今更、そんな相手に会うのは気が引けた。が、彼らの情報源としての利用価値が、俺に迷いを捨てさせた。何より、あの人を少しでも理解したいという気持ちが、俺を動かした。

その結果、判った事は、俺には余り快く無かった。
あの人は暗部に入る前に既に何人かの男と関係があって、いずれも長続きしなかったらしい。
尤も、その内の一人は戦死してしまったので、続きようも無かったのだが。
あの人の両親が１２年前の九尾事件で亡くなったと聞いた時、俺は意外に思った。
あの事件では忍や里人に多くの犠牲者が出、俺の先生も生命を落とした。だからあの人の両親があの事件の犠牲者だったことは驚くに値しない。
ただ、あの事件で親しい者を喪った人間の多くは、ナルトを忌み嫌っている。それは全くの逆恨みに過ぎない。が、九尾事件で両親を喪ったにも拘わらず、あの人がナルトに目をかけているのは意外だった。
だが、考えてみればあの人は真面目でそして純粋だ。教師でありながら自分の教え子を逆恨みするなど、あの人には似つかわしくない。

久しぶりに会った昔馴染みから、お前は変わったと、異口同音に言われた。
８年も経っているのだから変わるのは当然だと答えておいたが、俺が変わったのは無論、あの時の事件がきっかけだ。
あの人が自らを傷つけた事で、俺は酷いショックを受けた。
本当に、人が変わるほどのショックだった。
それ以来、任務で敵を傷つけ殺めるたびに、血だらけで倒れていたあの人の姿が脳裏に浮かび、俺を苦しめるようになった。
日が経つうちにその映像は色褪せ罪悪感も薄らいでいったが、消えることは決して無かった。そして、自分が殺した相手の無念さと、遺族の哀しみを思うようになった。

それまでの俺は、より強くなる事だけが自分の存在に理由を与えてくれるのだと思っていた＿＿はっきりとではなく、漠然とだが。
恐らく孤児としての生い立ちと、幼い頃からエリートと目されてきた事が、俺にそんな考えを抱かせたのだろう。
それまでの俺は強くなり、戦いに勝つ事だけを考えていた。あの人と出会って初めて、何かを大切にし、守りたいと思うようになった。

俺は新入り潰しを止め、任務では仲間の無事を重視するようになった。
ある日、戦闘に巻き込まれて怪我をしていた仔犬を拾って手当てをした。
仔犬の存在は罪悪感に苛まされ続けていた俺を慰めてくれた。俺は仔犬を手放したくなかったので忍犬に育て上げ、いつの間にか８頭を抱えるようになった。

何をしても俺の犯した罪が購えるとは思わない。
だが今の俺ならば、あの頃のようにあの人を追いつめ、傷つけてしまう事は無いだろう＿＿そんな風に、自分を甘やかしたくなった。
あの人が過去の一切の記憶を失っているのなら、俺があの人に近づいても煩わせはしまい。単に、友人としてだけなら。
そう思うと、俺の心は騒いだ。

俺が変わったように、あの人も変わった。
８年前にもよく笑う人だったが、以前のあの人の微笑には、どことなく儚さとか翳りのようなものが感じられた。恐らく、暗部の生活に馴染めなかったせいだろう。
毎日のように人を傷つけ、殺す。そんな日常は、あの人には似合わない。
暗部が面をつけるのは顔を隠す為というより『人』である事を棄てる為だ。だから狗や狐など、獣の面をつける。
そんな所にあの人が送り込まれて来た理由は判らない。
確かに中忍としては優秀で、暗部の任務をこなせるだけの実力もあった。火影様のお気に入りだそうだから、暗部で実績を積ませて、上忍に昇格させる為の布石だったのかも知れない。
それなのに俺のせいであの人は暗部を去った。
その結果、昇格の可能性は低くなってしまったかも知れないが、血なまぐさい戦場から離れたのはあの人の為に良かったのだろう＿＿８年ぶりに会って翳りのない晴れやかな笑顔を見た時、俺はそう思った。

以前は首の後ろで緩く括っていた黒髪を、頭の高い位置できっちりと纏めているせいで、印象も随分、違う。特徴的な鼻梁の傷痕が無ければ、すぐにあの人だと気づかなかったかも知れない程だ。
それに陽に焼けて、身体つきもすっかり男らしくなり、健康そうだ。
一緒に行った居酒屋であの人はかなりの量の酒を飲み、陽気に笑い、楽しそうに子供たちの話をした。あの晩、俺はあの人が記憶を失っている事を知らなかったから少しも楽しめなかったが、あの人が笑う姿を見るのは心地よかった。
近いうちにまた、あの人を誘ってみようと、俺は思った。今度は俺も楽しめるだろう。

俺は変わり、あの人も変った。
そしてどうやら俺は、もう一度、あの人に恋をしているらしかった。

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