「あいつらの担任だったうみのイルカと申します」
「…はたけカカシです」
初めて会ったかのように言ったあの人に、俺も初めて会ったかのように挨拶を返した。
それから、あの人は笑った。
俺が初めて見る、お日様のように明るい笑顔だった。





(1)


自分の腕の中にすっぽりと収まって、まだ熱の残る身体を押し付けてくる相手を背後から抱きしめて、アスマはゆっくりと紫煙を吐いた。
戯れるように首筋を軽く舐めると、イルカはくすぐったそうに笑って身をよじる。
気だるいまでに甘く、濃密な時間。
互いの身体からはまだ血の匂いが消えていなくて、それだけに一層、凶暴で貪欲な感情が掻き立てられる。
だが、その日、アスマは情人との行為に没頭できなかった。
「……なあ、妙な噂を聞いたんだがな」
「何ですか?」
別に、どうって事も無い下らねぇ噂だがと、アスマは続けた。
「カカシのヤツがお前に付き纏ってるって言う連中がいてな」
「付き纏うだなんて……カカシさんに失礼でしょう」
「だから。下らん噂だ」
言って、アスマはもう一度、煙草を深く吸い、そして紫煙を吐いた。
「お前がカカシと寝てるって、わざわざ俺に言いに来る暇な馬鹿がいたってだけだ」
下腹部を撫でながら言うと、イルカはさも可笑しそうにくすくすと笑った。

やはり、噂は噂に過ぎなかったのだとアスマは思った。
決してイルカを疑う訳では無いのに、こうして確かめずにはおれない自分の臆病さを嗤いたくなる。

「カカシって奴は忍としちゃ優秀なんだろうが、人間的にはな…」
「……人間的に、どうなんですか?」
アスマの腕の中で寝返りを打ち、相手に向き直ってイルカは訊いた。
「6歳で中忍。暗部に入ったのは11の時だ。そんな奴に、まともな人間の常識が通用すると思うか?」
「…天才にはありがちな事でしょう?確かに優秀すぎて、周囲とうまくやっていけない所はあるのかも知れませんが」
イルカの言葉に、アスマは幽かに眉を顰めた。
「…随分、奴を庇うじゃねえか。それにお前、カカシの事をよく知ってるみたいな口ぶりだな」
イルカはすぐには答えなかった。
暫く躊躇うように視線を泳がせ、それから半身を褥の上に起こす。
「今夜はもう、帰ります」
「…イルカ?」
「朝の点呼の時に、自分の宿舎にいないとまずいですから」
服に手を伸ばしたイルカの腕を、アスマは押さえた。
「そんなのは建前だけで、任務の無い時にはどこで何をしようと自由だ。お前のとこの部隊長に何か言われたんだったら、俺が文句を言ってやる」
「部隊長は関係ありません」
「だったら……カカシか?」
アスマの言葉に、イルカは驚いたように眼を見開いた。
聞くのではなかったと、アスマは思った。だが言ってしまった以上、自分を誤魔化すことは出来ない。
「やっぱり…噂は本当だったんだな?奴に何をされた?事と次第によっちゃ__」
「止めて下さい。カカシさんは……」
言い淀んで俯いたイルカの両肩を、アスマは掴んだ。
「あの野郎に脅されてるのか?そうなんだな?」
「……違います。脅されも、無理強いもされていません」
「だったら……」
アスマは一旦、言葉を切った。

イルカが自分を裏切ったなど信じられない。信じたくない。
これには、何か理由がある筈だ。
だが、或いは__

「……だったら、お前は自分の意思で奴と寝てるのか…?」
イルカは暫く口を噤んでいた。
やがて意を決したように顔を上げる。
「いけませんか?」
言って、イルカは微笑った。






「遅かったね」
暗闇の中から声を掛けられ、イルカの肩が幽かに震えた。
「……カカシさん?灯りもつけないで何やってるんですか?」
「月を見てた」
言って、カカシは微笑った。
すぐに闇に眼が慣れ、イルカは安堵してカカシの側に座った。
カカシはいつも気配を消しているので、姿が見えないと不安になるのだ。
「任務はとっくに終わった筈なのに、遅かったじゃない。待ちくたびれちゃったよ?」
「済みません。返り血を浴びてしまって、それを洗い流すのに手間取って……」
カカシはイルカを抱き寄せ、まだ濡れている髪に口づけた。
「そのままで良かったのに。その方がソノ気になるし」
「でも俺は……駄目なんです」
俯いてしまった恋人の頬に触れ、カカシは相手を間近に見た。
「血の匂いに、耐えられない?」
「……忍として、失格ですね。こんな俺が暗部にいるなんて……可笑しいでしょう?」
カカシは暫く黙ったままイルカを見つめていた。
それから、もう一度、相手の頬に優しく触れる。
「…アンタみたいな人は初めてだよ。アンタみたいな、心の綺麗な人は」
「……本当は軟弱だって、そう思ってるんでしょう?」
幽かに頬を赤らめ、半ば拗ねたような、半ば甘えるような口調でイルカは言った。

カカシが鼻梁に傷のあるその少年に初めて会ったのは、先月の事だ。
幾つかの小隊が合同で取り組む大掛かりな任務。イルカはその時、暗部に入ってまだ2ヶ月目で、1年前に中忍になったばかりだった。
暗部にはイルカのような少年がほぼ定期的に配属されて来る。中忍の中でも優秀と認められた者が研修を兼ねて送り込まれるのだ。
そういう少年たちは野心と自信に満ちている。時に自信過剰な程だ。
そして過剰な自信は本人の命取りや任務の失敗を往々にして引き起こす。
だから暗部の厳しい任務を通じて意識を改めさせ、真に強い忍へと鍛え上げるのだ。

そんな少年たちの中にあって、イルカは信じられないくらい、謙虚だった。
他の少年たちからは軟弱者呼ばわりされてすぐに孤立してしまったが、真面目で努力家のイルカは上忍の間では受けが良かった。
そんなイルカに、カカシはほんの気まぐれの好奇心から声を掛けた。珍しい小動物でも見つけたような気分だったのだ。
イルカは躊躇いながらもカカシを受け入れた。
初めてでないのはすぐに判ったが、それでもイルカが初々しい事に変わりは無く、カカシにはそれが酷く新鮮に感じられた。
一度きりの積りだった関係を何度も重ね、その度にイルカに対する愛しさが募った。
そして、これが『恋』というものなのだと思った。

「アンタは暗部に来たばっかりなんだから、慣れないのは当然だよ」
言いながら、カカシはイルカの身体をその場に横たえた。
「…カカシさん、俺__」
「任務の事なんか忘れさせてあげる。俺に任せて…俺の事だけを考えて」
イルカは相手の身体の下で身じろぎ、口づけようとしたカカシをかわした。
「今夜はそんな気持ちになれないんです。どうしても……任務の事が……」
「だったら少し、酒でも飲む?気が紛れるよ?」
「済みません、さっきからずっと具合が悪くて……今夜は自分の宿舎で寝ますって、それだけ言う積りで来たんです…」
イルカの言葉に、カカシは整った眉を僅かに顰めた。
甘い感情が急速に冷たい別のものに変わってゆくのを、自分でもはっきりと感じる。
カカシの感情を察したのか、イルカは不安そうに相手を見上げた。
「具合が悪いんじゃ、仕方ないよね」
イルカの不安を鎮めるように、カカシは微笑した。
けれどもその微笑に、感情は伴われていない。
「でももし、今まで他の男に抱かれてたから俺と寝るのが厭だってのなら、相手の男を殺しちゃうけどね」
イルカは黙ったまま相手を見つめた。
それから、視線を逸らす。
「……さすが暗部ですね。噂の広まるのが早いです」
「……否定…しないんだな…?」
カカシの声が、幽かに震える。
イルカは暫く躊躇い、それからもう一度、カカシを見上げた。
そして、微笑む。
「いけませんか?」




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