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『今週末は駄目だよ――先約がある』
言って、オラクルはオラトリオの誘い――いつもの様に、家に食事をしに来ないかという――を断った。
「来週でも良いぜ?お前の都合の良い日で」
コードと共ににオラクルのマンションに写真を探しに行った日から、2週間が過ぎていた。
『来週って言われても……』
なるべくさり気なく、オラトリオは誘った積もりだったが、オラクルは言葉を濁した。
「…別に、今すぐ決めなくても良いぜ。また後で――」
『ちょっと待って』
言葉を遮られ、オラトリオは僅かに緊張を覚えた。送話口を塞いだらしく、携帯からは何の音もしない。
誰か、部屋にいるのだ。
『……やっぱり来週も駄目だよ――悪いけど』
「――嫌…都合がつかねえならしょうがねえし…」
くすりと、幽かに笑う声が聞こえた――気のせいかもしれないが。
『じゃあ、そういう事で』
オラトリオに二の句を告げる暇を与えず、オラクルは電話を切った。
「…良かったんですか?本当に」
「お前との約束の方が先だから」
クォータの言葉に答えるると、オラクルは携帯の電源を切った。
「オラトリオたちの家に食事に行くのは子供の頃からの習慣を続けてるだけで…意味は無いんだ」
言って、幾分か物憂げに髪をかきあげたオラクルの横顔を、クォータはじっと見つめた。
仕事では、オラトリオとの方が付き合いが長い。直接会う前から、オラクルの事はオラトリオから聞かされていた。自分自身の事も家族の事も余り話さないオラトリオだが、オラクルの事はよく口にした――本人は、その事を自覚していなかっただろうけれど。
オラトリオがオラクルに恋心を抱いているのだと、クォータはすぐに気付いた。そして、どんな女性でも意のままにできそうな男が、選りによって同性の従兄弟に恋などしている事を、可笑しく思ったものだ。
けれども初めてオラクルに会った時、冷笑は熱い興味に変わった。
現実感がないと言っても良いほどの、透明で繊細な雰囲気。
耳よりもむしろ心に心地良い、穏やかな声。
見蕩れるほど奇麗な微笑み――
けれども、クォータの興味を引いたのは、そして彼の心を魅了したのは、オラクルの優しげな外見に隠された暗く冷たい『何か』だった。
オラクルを知れば知るほど、その『何か』はより深く、より暗い姿をクォータに示した。無論それはいつも巧みに隠されてはいたが、クォータの眼には明らかだった。
彼自身、底の無い深淵を、隠し持っているから。
「仲が良いのですね、あなたとオラトリオは」
「…そうでも無いよ」
猫のように身を摺り寄せて来るクォータの肌の熱を幾分か煩わしく思いながら、オラクルは言った。
「そうですか?でも、よく行き来はしているのでしょう」
「それはただ、家が近いから…」
子供の頃は、もっと頻繁にオラトリオの家に行っていた。父親が出張で不在がちな人だったので、母親と共によく食事に呼ばれたのだ。
養父母が亡くなってからは、週末はいつも実の両親の家で過ごした。オラクルはそんな事はしたくもなかったが、そうでもしなければ、彼らは不安ならしかった。一人暮らしをしたいという要求を認めさせる為に、彼らの要求にも応えた――それだけだった。
成人して大学も卒業すると、そんな必要も無くなった。それに、実の両親――意識の上では叔母夫婦だが――はずっと外国にいて、家には滅多に帰って来ない。
いずれにしろ、古い習慣を続ける必要など、どこにも無かった。
「――オラクル…」
愛撫しようとした手を振り払われ、クォータは恨めしそうに相手の名を呼んだ。
「今日はもう、疲れた」
冷たく言って、オラクルは寝返りを打ち、クォータから離れた。
あの夜、何があったのかは、朧げにしか覚えていない。ただ、その後、クォータから電話がかかってくるようになり、週に1、2度はこうして一緒に過ごしている。
クォータに興味が無いのは以前と変わらなかったが。
それでもこうしてクォータと会っているのは、多分、ただ単に、彼が『楽な相手』だからだろう。要求される事もしてやらなければならない事も殆ど無く、快楽を与えてくれる。
それが愉しいと、思っている訳ではなかったが。
「つれない人ですね……」
絡み付くような言葉を無視し、オラクルは眼を閉じた。
週末。
オラクルの部屋から出てきた相手の姿に、オラトリオは軽く眉を顰めた。
『先約』の相手がまさか彼だなどと、考えもしなかった。それ以前に、オラクルは外で食事でもするのだろうと思っていた。コードとあんな事があったばかりで、もう次の恋人――コードとは恋人同士とは言えなかったが――がいるだろうとは、思えなかったから。
「――オラトリオ」
相手の姿に気付き、クォータは幽かに唇の端を上げた。
「…何でお前がここにいる?」
「オラクルが気分が優れないと言うので、薬を買いに行く所ですよ」
「それじゃ答えになってねえぜ」
オラトリオの言葉に、クォータは軽く肩を竦めた。
「プライヴェートな事です」
言って、クォータは再び冷笑った。
オラトリオは、自分の耳を疑った。
今までに何度もオラクルの気まぐれに驚かされた事はある。が、オラクルが新しい恋人にクォータを選んだなどと、とても信じられなかった。
「…病気だってんなら、俺が看病するぜ」
「私に帰れ…と、そう、おっしゃりたい訳ですか」
「あいつは子供の頃から身体が弱くて、熱がある時には牛乳を飲んだだけで吐いちまう――他人のお前じゃ、あいつの看病なんか出来ねえぜ」
『他人』という言葉に、クォータは幽かに眉を顰めた。そして、精神的な繋がりの希薄さを、血の繋がりで補おうと――恐らくは、無意識に――しているオラトリオの足掻きに、もう一度、冷笑った。
「……オラクル…?」
ベッドに力無く横たわっている相手の名をそっと呼ぶ。
「オラトリオ…?どうしてお前がここに…」
驚いて、オラクルは相手を見上げた。クォータが薬を買いに出て行った筈なのに、代わりに現れるのがオラトリオだなどと、予想もしていなかった。
「都合が悪いってのは電話で聞いてたがな。お前はいつもちゃんとしたもの食ってねえし、何かあると何も食わなくなっちまうから、心配で……」
オラトリオの言葉に、オラクルは眉を顰めた。
子供の頃から、ずっとそうだった。
いつもいつも、オラトリオは健康で明るくて幸せそうで。
自分は病弱で、やりたいことの半分も出来なくて、両親に苦労をかけて。
実の両親から見捨てられ、養父母にも煩わしがられ……
オラトリオの方を、貰えば良かった
呪縛のように、忘れられない言葉――あれからもう、二十年近くが過ぎたというのに。
「――大丈夫…か?」
黙り込んでいるオラクルに、オラトリオは聞いた。
「……クォータは?」
「あ…あ。帰ったみてえだ」
「お前が帰らせたのか?」
きつい口調で問われ、オラトリオは困惑した。
「――何で……あいつなんだ?」
こんな事を言うべきでは無いと思いながらも、黙っていられずにオラトリオは言った。
仕事でのクォータとの付き合いは、オラトリオの方が長いし、会う頻度もずっと多かった。それにオラトリオはフリーライターで、オラクルはデザイン事務所に勤め、組織の一員としてクォータと接している。その意味では、オラトリオの方がずっと”深く”クォータと接してきたと言える。
そのオラトリオに言わせれば、クォータは『厭な奴』以外の何者でも無かった。
きつい締切りを何とかこなして仕事を仕上げた時でも嫌味しか言わない。オラトリオの書いたものに対する評価も辛辣だ。他にも何人かの編集者を知っているが、クォータのような人間は他にはいない。
「選りに選って、どうしてあんな野郎なんだ?」
「…お前はクォータが嫌いなんだ」
オラクルの言葉が、オラトリオには酷く意外だった。
オラクルの前では、クォータは別の顔を見せるのかも知れない。多分、フリーランサーに対する軽蔑の裏返しで。
或いは、もっと違う理由があるのかも知れないが。
「…お前は好きなのか?」
「どうして…そんな事を答えなきゃいけない?お前には関係ないだろう?」
オラクルの口調の冷たさが、オラトリの心を掻き乱した。
「関係はあるぜ。俺は――」
お前が好きだから……
言いたいのに言えない言葉。
酷くもどかしく、苛立たしく、切ない――
「私は大丈夫だよ」
幽かに微笑み、全てを拒絶するような穏やかな口調で、オラクルは言った。
「帰ってくれないか?」
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