-7-
「いらっしゃい」
ドアの向こうで微笑んだ相手の姿に、コードは自分の迂闊さを呪った。
またオラクルの部屋で会いたいと、オラトリオから電話がかかって来たのは3日前の事だ。オラクルは出張でいないし、合鍵があるから大丈夫だと、オラトリオは言っていた。
その口調が酷く躊躇いがちな、苦しげなものである事に、コードはすぐに気付いた。
――どうしても…会って話したい事があるんです
何かあったのかと聞き糾すと、オラトリオはそう答えた。そしてその言葉を、コードは信じた――迂闊にも。
「コード」
踵を返し、そのまま帰ろうとしたコードを、オラクルは呼び止めた。
「帰るんだったら、写真を家に送るよ?」
「――何…の話だ」
酷く厭な予感に、胃が重苦しくなるのをコードは覚えた。
「とにかく中に入ってよ――話すのはそれから」
リビングに入ると、オラクルはソファに腰を下ろした。コードにも座るよう、勧めたが、コードはドアの近くに立ったままでいた。
「…写真とはどういう事だ」
「この前、お前の絵を描いただろう?その時、写真も撮っておいたんだ」
悪びれもせず、オラクルは答えた。絵を描く時に、先に写真を撮るのは習慣みたいなものだと付け加える。
コードは、思わず拳を強く握り締めた。
嗜虐的に縛られて、あられもない姿を晒された――あんな姿を、妹達に見せる訳には行かない。そんな事になれば、妹達がどれほど驚き、嘆き、傷つく事か……
コードは、改めて相手を見た。
外見の穏やかさは全くの見せかけ。これは危険な相手だ。明らかに心を病んで――狂って――いる。
近づくべきでは無かったのだ。
それに、気付くのが遅すぎた。
「……そうやって、ひよっ子も脅しているのか」
それならば、オラトリオがああまでオラクルの言いなりになるのも納得できる。
「何とでも、信じたい事を信じれば?」
「否定はせん訳だな」
コードの言葉に、オラクルは軽く肩を竦めた。
「肯定はしないよ。私がオラトリオを脅す理由なんて、どこにも無い」
「どぼけるな。貴様がひよっ子の弱みに付け込んで利用しているのは明らかだろう。言いなりにして、振り回して――あんな電話までかけさせおって」
憤りに、コードの言葉の語尾が震えた。
幽かに、オラクルが微笑う。
「まだ…オラトリオの事が好きなんだね」
私を悪者にすれば、オラトリオを庇えるから――穏やかに紡がれた言葉に、コードは吐き気を覚えた。
相手に好ましい印象を与えるその穏やかさは、おぞましい冷酷さを包み隠す薄絹に過ぎない。
人間らしい感情など持ちあわせていないに違いないのだ――こうやって人を傷つけながら、平然と微笑んでいられるなどと。
或いは…と、冷めた声が囁く。
オラトリオは脅されているどころか、むしろ『共犯者』なのかも知れない。オラクルの穏やかさ優しさがただのまやかしでしか無かったように、オラトリオも自分を欺いていただけなのかも……
傷ついた色を浮かべた紫の瞳が脳裏に蘇る。
あれは、見せかけなどでは無かった筈だ。酷く辛そうに電話を掛けてきた。あれは、芝居などでは無かった筈だ――
「ひよっ子は、貴様よりずっと増しだ」
相手をまっすぐに見据え、コードは言った。
「あれは故意に人を傷つけるような真似は絶対にせんし、人の傷の痛みも理解出来る。だが貴様は――」
吐き棄てるように、コードは言った。
「感情も心も何も持たない人形だ」
それも、出来損ないの
翌日、午後。
「…どうかなさったんですか?」
打ち合わせの後、オラクルが書類をまとめていると、取引先出版社の編集がそう、聞いた。
「……別に」
「でしたら良いのですが。それでも――」
顔色が優れないし、打ち合わせの間も辛そうだったと、編集者は続けた。
オラクルは、軽く溜息を吐いた。
以前からずっと、彼が自分を気遣ってくれるのは判っていた――その理由も。だから、優しい言葉も細やかな気遣いも拒絶して来た。
けれども……
「余り無理はしない方が良いですよ?確か…一人暮らしでしたね?」
編集者の言葉に、オラクルは改めて相手を見た。
「別に…私は病気じゃないよ」
「だったら――何か酷く厭な事があった?」
オラクルは、不機嫌そうに視線を逸らした。相手は、幽かに苦笑した。
「済みません――質問を変えましょう」
今夜、空いていますか…?――そう、クォータは聞いた。
「…大丈夫ですか?やっぱり、飲み過ぎたんでしょう」
自分より長身な、それでも華奢な相手の身体を支えながら、クォータは言った。
仕事の後、二人で飲みに行き、酔って足元の怪しくなったオラクルを、クォータは送って来ていたのだった。
「……煩いなあ……」
ぼやく相手を何とか寝室まで連れて行き、ベッドに横たわらせる。
「薬が要りますか?必要なら買って来ますけど」
「――水……」
クォータは軽く苦笑し、キッチンへ向かった。グラスに水を注ぎ、寝室に戻る。
グラスを手渡すと、オラクルは一息に水を飲み干した。
それから、ぐったりとベッドに横たわる。
こんな無防備な姿をオラクルが晒すのは初めてだと、クォータは思った。
ずっと以前から――出会った当初から――クォータはオラクルに興味があった。機会あるごとに何度と無くアプローチし、オラクルもクォータの気持ちに気付いている筈だった。
それでも――と言うべきか、だからこそ――オラクルのガードは堅かった。単に友人として接することすら拒み、仕事上の関係に終始しようとしていた。
例外は、たった一度だけ。
オラトリオを――クォータは、オラトリオとも仕事上の付き合いがあった――『急な』仕事の打ち合わせで足止めするように頼まれたあの日だ。
「――オラクル……?」
そっと、クォータは相手の名を呼んだ。
「何があったのか、言いたくなければ無理には聞きませんが、それでも…私にできる事があれば、何でもおっしゃって下さい」
「__何も……私…は……」
眠りに落ちかけているのか、オラクルの声はくぐもり、不明瞭だ。
クォータは躊躇いがちに、オラクルの髪に軽く触れた。振り払おうとしないのを確かめてから、指を絡める。
「あなたが望むならば…」
相手の耳元に唇を寄せ、クォータは囁いた。
私は何でもいたしますよ……
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