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オラトリオの方を……えば良かった

耳に飛び込んできた、意味の判らない言葉

あなた、何て事を……

ヒステリックな声に、聞かなければ良かったと思った

嫌――そんな意味で言ったんじゃ、無い

金縛りにあった様に、身体が強張る

判ってるわよ。あなたは――

ヒステリックな声に、聞かなければ良かったと思った
生まれて来なければ、良かった…と







目を覚ました時、コードは吐き気と耳鳴りを覚えた。
意識が、朦朧としている。
それでも、自分が後ろ手に手首を縛られ、全裸でいるのは判った。
「……気がついた?」
柔らかく微笑して、オラクルが聞いた。
何かの間違いだ――咄嗟にコードが思ったのは、それだった。オラクルの態度は、それ程に穏やかで優しかったから。
「気分は?」
満足そうに笑いながら、オラクルはスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。紙と鉛の擦れ合う音が、コードの鼓膜を刺激する。
「……何の真似だ」
漸く、それだけ聞いた。


先に行ってて貰えますか?

困惑気に眉を顰め、済まなさそうに言った恋人の姿を思い出す。
その日、コードはオラトリオと駅前で落ち合った。いつもの様に、そのままオラクルのマンションに向かおうとした時、オラトリオの携帯が鳴ったのだ。
急な仕事の打ち合わせだと、オラトリオは言った。フリーライターのオラトリオには、よくある話だ。だからコードも、特に気にも留めなかった。
鍵を預かり、オラトリオの従兄弟のマンションに一人で向かった。

オラトリオもコードも、家族と共に住んでいる。家族には隠している恋人と会うのに、自宅は都合が悪かった。かと言って、男同士でホテルなど利用できる筈も無い。
オラトリオの同い年の従兄弟は、かつて両親と共に住んでいたマンションに一人暮らしだ。イラストレーターで、平日の昼間は所属するデザイン事務所で働いている。
オラトリオはフリーライター。コードは剣道の師範。
その二人が会うには、平日の昼間の方が都合が良かった。そしてオラクルは、その時間帯は部屋にいない――
需要と供給のバランスの結果、コードは大学の後輩である恋人と、その従兄弟のマンションで会うのが常になっていた。

無論、初めの内は落着かなかった。
いくら『兄弟以上に親しい間柄』だと説明されても、他人の部屋に、本人の留守に上がり込むのは気が引けた。オラトリオも同じ気持ちならしく、帰る前には何の痕跡も残さぬほど奇麗に掃除して行った。来た時以上に奇麗にしていくのだから、その意味では”痕跡”は残るのだけれど。
掃除だけでは無かった。
いつ来ても殆ど空の冷蔵庫を、オラトリオは手料理で満たして行くのが常だった。

お前を嫁に貰ったら重宝するな

軽い嫉妬から口走った言葉に、オラトリオは苦笑しただけだった。



「何の真似だ?」
もう一度、コードは聞いた。
オラトリオに急な仕事の打ち合わせが入り、先に行っていてくれと頼まれて、オラクルのマンションに来た。オラクルが帰って来たのは、それからすぐだった。用事があって、仕事は休んだのだと言って。
ひよっ子はそんな事は言っていなかった――内心の不満と不安を押し隠し、コードは勧められるままにオラクルのいれた紅茶を飲んだ。そして――
意識を失ったのだった。


「思っていた通り、奇麗だね」
思っていた以上かな――再び鉛筆を動かしながら、オラクルは言った。
朦朧とした意識の中でも、自分のあられもない姿が被写体にされているのは判る――改めて、コードは眉を顰めた。
「この前、うちに来た時、シャワー浴びただろ?」
スケッチブックを眺めながら、オラクルは言った。
その時の事を、コードは思い出した。
ひとの部屋だという引け目からか、二人の逢瀬はいつも落着かなかった。無論、ベッドは使わない。いつもソファか、ラグを敷いたフローリングの床の上で愛を交わした。
それでもそんな事が何度もあれば、慣れも出て来る。そしてその日は、酷く暑かった。
ちゃんと洗濯して返すから大丈夫だと言うオラトリオの勧めのままに、コードはシャワーを浴びた。その途中にオラトリオがバスルームに入って来て、もう一度、愛し合った。
タオルを洗濯してから帰ると言って、オラトリオはコードを先に帰らせた――


「それを見て」
オラクルは、スケッチブックを床の上に置いた。そして、コードににじり寄る。
「私も――お前を抱きたくなった」
「……何――」
唇を塞がれ、コードは言葉を奪われた。後ろ手に縛られている上にのしかかられたせいで、腕と背が痛む。
オラクルは痩せてはいるものの、上背はコードよりずっとあり、易々とコードの動きを封じた。尤も、既に両腕を縛っているのだから、何の困難もある筈は無いのだが。
間近に見つめられ、コードは鼓動が早まるのを感じた。
優しいヘーゼルブラウンの瞳に、信じられない程、冷たい光が浮かんでいる。
「…こんな事をして――」
「オラトリオは、良いって言ってたよ」
当惑しているかのような微笑を浮かべ、オラクルは言った。
「オラトリオは、良いって…構わないって…」

何かの間違いだ

もう一度、コードは思った。けれども、それは酷く弱い思いだった。

オラクルが望むなら、オラトリオはどんな事でも赦すだろう…



何度目かの逢瀬を、コードは思い出していた。
その日も、二人はオラクルのマンションで会っていた。ソファの上で互いを抱きしめ、貪りあう――。そんな時、オラトリオの携帯が鳴った。

傘を持っていないんだ

オラクルの声が、コードの耳にも聞こえた。

――判った。駅まで迎えに行きゃ、良いんだな?

躊躇いも無く言ったオラトリオの言葉に、コードは己が耳を疑った。
まだ肌も熱いままだと言うのに、オラトリオは軽く肩を竦めて言ったのだ。

あいつは身体が弱いから――風邪をひかせる訳にゃ、行かないんすよ

傘なんぞ、買えば良いだろう――言いかけた言葉を、コードは呑み込んだ。従兄弟の為ならば、恋人との逢瀬も平気で中断する。そんな相手に、何を言っても無駄だ。

すんませんね、慌ただしくって。途中まで送ってきますよ?

オラトリオの申し出を、コードは断った。自分も傘を持っていない事を、オラトリオに知られたくなかった。



冷たい指で触れられ、背筋が震えるのをコードは覚えた。
「――いつも…オラトリオにはどんな風にされてるんだ?」
コードの首筋に唇を這わせながら、オラクルは聞いた。声を上げまいと、コードは歯を食い縛った。それでも、冷たい指先の与える柔らかな刺激に、身体が反応してしまう。
「――っ…あ……」
ひとたび声を上げてしまうと、後はもう、なし崩しだった。身体の奥から湧き起こる熱を持て余し、無意識の内に身悶えた。オラクルが、観察するかの様な冷たい眼差しを向けているのに気づく余裕も無かった。

オラクルが望むなら、オラトリオはどんな事でも赦すだろう…

朦朧とする意識の中で、コードはそれだけを思っていた。




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