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翌日、オラクルはアパートに戻った。
入院の必要性は無かったので、病院側は本人の意思を尊重したのだ。
帰る前に、オラトリオは今回もオラクルを担当することになったみのるに呼ばれた。
「何があったのか、オラクルはどうしても話してくれないのよ__1年前も、そうだったけれど」
何があったの?__黒褐色の瞳でまっすぐにオラトリオを見つめ、みのるは訊いた。
喧嘩をしたのだと、他の何人かに話したのと同じ事をオラトリオは答えた。それで、オラクルはアパートを出て行ってしまい、2日の間、行方不明だった、と。
「喧嘩というのは具体的にどういう事?何か脅迫的な事を言ったの?それとも、暴力を振るった?」
まるで口頭試問の時の試験官のような口調で、みのるは言った。が、オラトリオは言葉を濁して答えなかった。
本当の事など、とても言う気にはなれない。
「あなたがそれじゃ、治療にならないでしょう__と、言いたいところだけれど」
言って、みのるは幽かに眉を曇らせた。
「問題は、具体的に何があったかじゃないの。心から信頼している相手に裏切られて、人を信じられなくなった__それが、オラクルを苦しめているのよ」
みのるの口調は穏やかだった。が、それは針の筵(むしろ)のようにオラトリオを苛んだ。





「2日の間…どこにいたんだ?」
アパートに戻ると、オラトリオはオラクルに訊いた。
オラクルは口を噤み、オラトリオの方を見ようともしない。
「あ…いや、話したくなけりゃ、話さなくても良いんだが……」
前夜の病室でのオラクルを、オラトリオは思い出していた。怖いから側にいてほしいと、オラクルはそう言ってオラトリオに縋ったのだ__オラトリオのした事に怯え、アパートを出て行ったにも拘わらず。
考えられるのは、2日の間に何か、オラトリオがした事よりもずっと恐ろしいめに遭ったのではないかという事だ。この街の治安は良い方だが、オラクルのような世間知らずが一人でいれば、どんなトラブルに巻き込まれないとも限らない。
「……オラクル?」
静かに、オラトリオは相手の名を呼んだ。
「この間の事は、本当に済まなかった。もう2度とあんな事はしないと誓う。だから……」
俺を信じてくれ__その言葉を、オラトリオは言わずに噛み殺した。そんな言葉を口にするのは、余りに身勝手な気がしたから。
オラクルは、口を噤んだままでいた。
2日の間、どこにいて、何があったか__それを話す気には、とてもなれなかった。
自分のクローンの、無残な姿。
それは思い出すだけで背筋が震えるほど恐ろしい光景で、言葉にして語る気になどとてもなれない__相手が、誰であろうと。
だがそんな事があったなど知らないオラトリオには、オラクルが話してくれないのは不信感の現われとしか思えなかった。
「…そろそろ昼飯の時間だが、外に食いに行くか?」
オラトリオの言葉に、オラクルは激しく首を横に振った。
クォータに見つかることを恐れたのだ。
だが事情を知らないオラトリオには、オラクルの拒絶の理由が理解できない。
仕方なく、オラトリオは一人で買い物に出ることにした。この数日、ずっとオラクルを探し回っていてスーパーにも行っていなかったから、家には碌に食べるものも無かった。
「__っそ……」
アパートのドアを閉め、オラトリオは低く、毒吐いた。





「それではオラクル様のお見舞いに行って参りますわね」
「…お姉さま、あの__」
「勿論、エララさんが出かけるまでには戻りますから、それまでおばあ様をお願いね」
自家製のタルトを持っていそいそと出かける姉を見送りながら、エララは複雑な心境だった。
エモーションがオラクルに好意を抱いているのは判っている。そして、それが単なる好意以上の強い感情ちである事も。
初めの頃は、エララはそれを喜ばしいことだと思っていた。オラクルはとても穏やかで優しそうな人だし、二人が恋人同士になれれば良いと思うと、別の街に住んでいるユーロパに電話で話した事もある。
それだけに、オラクルが怯えてパニックを起こした姿を目の当たりにしたのはショックだった。
悪夢に魘されるオラクルをゆり起こそうとして手を振り払われた、その時の痛みが蘇る。
オラクルのカルテが精神科にある事を知ったのもショックだった。そしてオラクルはそのまま精神科に回され、すぐに退院したものの、1日は入院していたのだ。
「……お姉さま、それをご存知なのかしら」
呟いて、エララは軽く溜息を吐いた。
精神科の治療を受けているからといって『異常者』扱いするのは偏見に過ぎないと判っているし、オラクルをそんな眼で見る積りもない。エモーションが事情を知った上でオラクルに好意を寄せるなら、それに反対する気も無い。

でも、何もご存知ないのだったら……?

知っていた方がエモーションの為だと、エララは思った。だが、そんな事を口外するのは医療従事者の守秘義務に反する。
その時、電話が鳴った。
「カシオペアでございます__あら、お兄様」
『エララか。近々また、そちらに行くかも知れんので電話した』
兄の言葉に、エララは苦笑した。
「自宅に帰るのに、余所余所しいおっしゃりようですわね。でもおばあ様がお喜びになりますわ」
いつ、いらっしゃいますの?__エララの問いに、日にちまでは決めていないがと、コードは答えた。
「今度もオラクルさんがご一緒ですか?オラクルさんはお元気ですか?」
『今度は…多分、連れては行かんと思うが__そちらのオラクルはどうしている?』
僅かに、エララは眉を顰めた。
オラクルがアパートを飛び出した朝、カシオペア家に来てコードと会っているのだが、エララはそれを知らない。無論、オラクルとコードが知り合いだとも思っていなかった。
「お兄様…あの方をご存知なんですの?」
迷いが、エララの胸を過ぎった。
医師の有資格者であるコードになら、オラクルが精神科の治療を受けていることを話しても良いような気がしたのだ。そして、それをエモーションに告げるべきかどうか相談したい……
『ああ……。知っている』
誰よりもオラクルの事をよく知っているのは自分だ__そう思いながら、コードはそれ以上を語らなかった。
「あの…怪我をなさってうちの病院に運び込まれたんですけど、それで__」
『怪我?一体、何があった』
「…判りません。街外れで倒れていたのを、通りがかった方が病院に連れて来られたのですけど、何があったかはどのドクターにもおっしゃらなくて…」
『それはいつの話だ?怪我の程度は?』
矢継ぎ早な質問に戸惑いながら、エララは自分の知る限りを答えた__オラクルが精神科に回されたことは、結局話さなかったが。
『判った__また後で連絡する』
訊くだけの事を聞くと、コードは一方的に電話を切った。
もう一度、エララは溜息を吐いた。







1週間後。
「…口に合わなかったか?」
朝食を半分以上、残したオラクルに、オラトリオは訊いた。
黙ったまま、オラクルは首を横に振った。
「もう…悪い夢は見てないんだろ?」
「…睡眠薬を飲んでるから」
出来るだけ優しくオラトリオは訊いたが、オラクルの返事は素っ気無かった。
溜息を吐きたいのを、オラトリオは何とか抑えた。
あれから1週間。オラクルはずっとこんな調子だ。
何かを恐れてアパートから1歩も外に出ようとしないし、食欲がムラで食べたり食べなかったりする。
オラトリオと碌に口をきこうとせず、まともに視線も合わせない。
「__まだ…怒ってるのか?」
思い切って、オラトリオは訊いた。
黙ったまま、オラクルは首を横に振る。
オラトリオのした事に、怒っている訳ではない。ただ不安なだけ。
自分がクローンなのだと知って、不安は一層、強まった。

私はお前の何?
死んだ従兄弟の身代わり?

それを、オラトリオに訊きたい。
だが訊けなかった。答えを聞くのが怖くて。

火を点けたばかりの煙草を、オラトリオは揉み消した。
悪いのは自分なのだと判ってはいる。だが最後までした訳でもないのにいつまでも頑なな態度をとり続けるオラクルに、苛立ちを感じるのをどうにも出来ない。
エモーションが毎日、来ているらしいのも、オラトリオの神経を逆撫でした。エモーションはオラクルがクローンだと知ってからも、オラクルに対する態度を変えない。
エモーションのオラクルへの気持ちの強さが判れば判るほど、オラトリオは憂鬱になった。男同士の関係が『異常』なものだという認識は今のオラクルには無いかもしれないが、それを受け入れてくれる事など、望めそうにもない。
「…今日は悪ぃけど、夕飯までに戻れそうに無いぜ。適当になんか食べててくれ」
席を立ちながら、オラトリオはコーヒーの残りを喉に流し込んだ。
オラクルは、何も言わなかった。





その日の午後。
チャイムが鳴った時、オラクルは躊躇いもなくドアを開けた。
あの後、毎日来てくれているエモーションだと思ったのだ。
が、ドアの外に立っていたのはエモーションでは無かった。
「__コード……」
恐怖に、オラクルは身が竦むのを感じた。










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