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「逃げなくとも良い。連れ戻しに来た訳ではない」
オラクルが咄嗟に閉めようとしたドアを押さえ、コードは言った。
その口調は、宥めるように優しい。
「……だったら__」
「ここでは話も出来ん。中に入れてくれ」
コードに穏やかに言われ、オラクルは仕方なく相手をアパートに入らせた。

「怪我をしたと聞いたが、もう大丈夫なのか?」
リビングに入ると、自分がここの主であるかのようにソファに座り、コードは訊いた。
「…どうしてそれを?」
「エララに聞いた。何があったのかは、エララも知らないと言っていたが」
幽かに、オラクルは眉を顰めた。
エララが自分の怪我のことをコードに話したのが、裏切りのように感じられたのだ。
「それより、この前は済まなかったな。きつい言い方をしてしまって」
オラクルが黙っていると、コードは苦笑した。
「俺様、妹たちに悪い虫がつくのが心配でな」
「悪い虫……って?」
「不届きな男どもの事だ。と言っても、お前には判るまいが」
いずれにしろ悪かったと、コードは詫びた。そしてその態度は、オラクルがまだコードを信頼しきっていた頃と変わらない。
オラクルは、奇妙な落ち着かなさを感じた。コードが以前のような優しい態度で自分に接し、気遣ってくれるのが、何だか奇妙に思える。
「……今日は何の用で来たの?」
思い切って、オラクルは訊いた。
「…研究所に戻る気は無いか?」
「__!連れ戻しに来たんじゃないって__」
「無理やり連れ戻す積りは無い」
オラクルの言葉を遮って、コードは続けた。
「もし、お前が戻ってくる気になったのなら、俺様はいつでもそれを歓迎する__言いたいのは、それだけだ」
「…研究所に戻るだなんて、そんな事……」
言いかけて、オラクルは口を噤んだ。
このところずっと、オラトリオといても気詰まりなだけだ。エモーションと会っている時は少しは気が晴れるが、エララやユーロパの事を考えると憂鬱になる。
「7年の間、お前は俺様の許にいた」
静かに、コードは言った。
「7年の間、俺様たちはうまくやってきた__そうでは無いか?」
コードの言葉に、オラクルは答えなかった。
黙ったまま俯く。

こうしていると、かつての日々が蘇ったようだと、コードは思った。
オラクルはコードに取って、何より大事な『成果』であり、我が子のように愛しい存在でもあった。
初めての『成功例』であっただけに感情移入しすぎた事を、今では後悔している。だから第2世代のクローンの事は、恋人のように扱っていながら感情移入しすぎないように自らを律している。
だが、オラクルはコードに取って、余りに特別な存在だ。
今更、それを変える事など出来ない。

「……だって…コードにはあの子が……」
俯いたまま呟いたオラクルの言葉に、コードは幽かに眼を細めた。
「…怒っているのか?__俺様が、お前のクローンを造った事を」
オラクルは答える代わりに白い喉許を押さえた。
呼吸(いき)が、苦しい。
クォータの屋敷で見た少年の遺体が脳裏に蘇る。
「あれを造ったのは、お前の代わりが欲しかったからだ」
だが、と、コードは続けた。
「それは無駄な試みだった。誰も、お前の代わりにはなれない」
背筋が震えるのを、オラクルは覚えた。
「俺様にはお前が必要だ__他の、誰でも無く」

再び口を噤んでしまったオラクルを、コードは黙ったまま見つめた。
第2世代のオラクルは目が見えないにも拘わらずとても人なつこい性格で、恐れることを知らないようにすら見える。
今、彼の目の前にいるオラクルとは対照的だ。
『初めての成功例』を、コードを含む研究員たちはとても気を遣って育てた。
神経質なほど徹底して大切にし、あらゆる『害悪』から護った。
その結果、オラクルは文字通り無垢で人を疑うことを知らないように育っただけでなく、脆弱と呼べるほど繊細だ。



「__これを」
やがて、1枚の封筒をコードは差し出した。
「列車のチケットが入っている。もし、お前が研究所に戻りたくなったらその時には……」
いつでも、待っている__そう言い残して、コードは席を立った。





数日後。
「今度の休み、どっかに行かねえか?」
朝食を食べながら、努めて明るくオラトリオは言った。
オラクルがここ数日、塞ぎ込んでいるようなので、少しでも気を晴らしてやりたいと思ったのだ。
だが、オラクルは黙ったまま首を横に振った。
溜息を吐きたいのを、オラトリオは何とかこらえた。あれ以来、オラクルはずっとこんな調子で、オラトリオが心配しても気遣っても取り付く島もない。
時折、どうにも遣り切れない気持ちになる。
オラクルがエモーションと毎日、会っているのだと思うと尚更。
自分とオラクルの関係の危うさを、オラトリオは改めて思った。
友人とは呼べない。
恋人では無論、無い。
初めて言葉を交わした日、オラクルが怯えているのを見て護ってやりたいと思った。
だが今、自分がオラクルの為にしてやれる事は何も無いように思えた。
そして、オラクルが自分に与えてくれるものも。

玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰だろうと思いながら、オラトリオは席を立った。奇妙に重苦しい雰囲気を変えてくれるなら、どんな訪問者でも歓迎したい気分だった。
だが、ドアの外に立っていたのは、オラトリオが予想もしていなかった相手だった。
「………」
己の眼を疑い、オラトリオは絶句したままその場に佇んだ。
目の前には、15歳前後のほっそりした少年が立っている。
そして、彼はオラクルに生き写しだった。
「……オラトリオ……?」
名を呼ばれ、オラトリオは心臓を鷲みにされたかのように感じた。
「__そう……だ…が」
「良かった」
言って、少年は微笑んだ。けれども、オラトリオの顔を見ようとはしない。視線はまっすぐ前に向けたまま。
ずきりと、胸が痛むのを、オラトリオは感じた。
この少年は、眼が見えないのだ__8年前に逝った、従兄弟のオラクルと同じように。
「今日からここで暮らすようにって、コードに言われたんだけど」
屈託無く、少年は言った。
「…コードと一緒に来たのか?」
「うん。でもコードはもう帰っちゃった」
オラトリオはコードを追うことを考えたが、それを即座に否定した。この少年を、放ってはおけない。
「__とにかく…中に入ろう」
少年の背をそっと押して、オラトリオは相手をアパートに入らせた。

少年の姿を見たオラクルの反応は、オラトリオの予想通り__厭、それ以上だった。
「__酷…い……」
白い頬が、傍目にもはっきり判るほどに蒼褪める。
「その子と私を交換したんだね?コードは私を連れ戻したがっていたから、それで……」
オラクルの言葉は、オラトリオには心外だった。
「…っと待てよ、オラクル。俺がそんな事を__」
乱暴にドアを閉め、オラクルは自室に閉じ篭もった。
「……オラトリオ……?」
もう一度、そして不安そうに、少年はオラトリオの名を呼んだ。
「あ…あ…。済まなかった、驚かしちまって」
言って、オラトリオは宥めるようにそっと少年の肩に触れた。
が、彼自身、混乱していた。
オラクルはコードと会ったのか?
いつ?アパートを出ていた2日の間に?
エモーションはその事に関係があるのか?
何より__オラクルは、自分がクローンだと、知っているのか……?
「…何か飲むか?それに、朝飯は食ったのか?」
混乱を覚えながら、オラトリオは優しく少年に訊いた。



「仕事に行かなきゃならないから俺は出かけるが」
閉ざされたドア越しに、オラトリオはオラクルに呼びかけた。
「帰ってきたら話そう__良いな?」
呼びかけに、オラクルは答えなかった__オラトリオも、それを期待していた訳では無いが。
「__じゃあ、出かけるか」
少年に、オラトリオは言った。
「どこに行くの?」
「俺は仕事に行かなきゃならないからな。その間、お前の面倒をみてくれる人の所に連れて行く」
オラトリオの説明に、少年は安堵したように微笑った。

オラトリオと少年が連れ立って出かける姿を窓越しに見下ろしながら、オラクルは言いようの無い苦しさを覚えた。
少年はかつてコードにそうしていたようにオラトリオの腕に縋り、オラトリオは少年をとても気遣って……。
荒々しく、オラクルはカーテンを閉めた。
自分が何故、こんな荒んだ気持ちになるのか判らない。
それでも……
オラトリオが、あの少年に優しくしている姿を見たくはない……












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