
-7-
息の続く限り、オラクルは走った。
クォータの屋敷は街から離れたところにある。街を出てからは、ずっと1本道だった__前の日、車で来た時の記憶を頼りに、オラクルは逃げた。
もしかしたら街とは反対方向に行っているのかもしれない。それでも、クォータの屋敷から__もっと言えば、あのホルマリン漬けの遺体から__離れられれば、それだけで良かった。
「__っ……」
走れなくなっても、オラクルは立ち止まらなかった。
立ち止まれなかった。
歩き続けながら、自分が足を引きずっていることに気づいた。多分、2階から飛び降りた時に挫いたのだろう。
周囲の闇と静けさに、改めて恐怖を覚える。
怖イ…
誰カ、助ケテ……
研究所にいた頃は、一人で外出した事がなかった。暗くなってから外出するようになったのは、オラトリオと一緒に暮らすようになってからだ。
今でも、夜、一人で外に出るのは怖い。
それを話したとき、絵画スクールの仲間たちは笑ったが__笑わなかったのはエモーションだけだ__何故、それが可笑しいのか、オラクルには理解できなかった。
今ならば、判る。
少なくとも、自分が他のひとたちとは違うのだという事は。
「__痛っ……」
足がもつれてころび、オラクルは低く呻いた。
それでも、この場にとどまってはいられない。
必死になって立ち上がり、再び歩き始める。
助ケテ、オラトリオ……
オラトリオの許から逃れようとしていた筈なのに、今は誰よりもオラトリオに側にいて欲しい。
雨が降り始め、冷たい滴が容赦なくオラクルの身体を鞭打つ。
オラトリオ……
もう、これ以上どうにも身体がいうことを聞かず、オラクルはその場に蹲った。
全てが、急に遠いもののように感じられた。
手の中に握っていたはずの全てが、乾いた砂のように指をすり抜けていく。
研究所にいた頃、何も知らなかったけれど幸せだった。
『あの事』が起きるまでは、コードも優しかった。
オラトリオと一緒に暮らすようになってからも同じだ。
自分がクローンだなんて、思いもしなかった。
オラトリオが死んだ従兄弟の面影を自分の中に見ているだけだなんて、気づきもしなかった。
それでも、幸せだった__多分。
それとも、気づかなかっただけなのだろうか?
普通の人間の普通の幸せ__それがどんなものなのか、自分には判らない。
それを望むことなど言うに及ばず。
それに、気づく事もなかった。
何も、知らなかったから。
「__何をなさっているのです?こんな所で」
背後から声を掛けられ、オラクルは身体が震えるのを覚えた。
自分の意思ではない何かの力に引き寄せられるように振り向くと、クォータが立っていた。
いつもの通りに、穏やかな微笑を浮かべて。
「……厭……だ…」
震える声で、オラクルは言った。
クォータはもう一度、微笑み、そしてオラクルに歩み寄った。
「さあ……、うちに帰りましょう……」
暫くの間、オラトリオは黙ったままでいた。
エモーションがコードの妹である__その事実の意味するところを、どう解釈すべきか思いあぐねたから。
「…あんたがコードの妹だって事は、それはつまり……」
「それはつまり、私は知っているという事ですわ」
知っている__何を?
それを、エモーションは言わなかった。
試されているように感じ、オラトリオは幽かな苛立ちを覚えた。
「一体、どういう積りなんだ?あんたがコードの妹だって事は__」
「それでも、私は兄とは違います」
俯き、強張った表情で、だがしっかりした口調でエモーションは言った。
「兄が何を研究しているのかは知っています。けれども、それを……認める気にはなれません」
暫く黙ったまま、オラトリオは相手を見つめていた。
おそらく、エモーションはオラクルに好意を抱いているのだろう。それも、一般的な友人に対する以上の。
その相手がクローン、それも自分の兄の研究で生み出されたのだと知った時、一体、どんな気持ちだったのだろう……
「つまり…あんたは知ってるんだな」
暫くの沈黙の後、オラトリオは言った。
オラクルが、クローンだって
エモーションは視線を落としたまま頷いた。
「でも兄はあまり詳しくは話してくれませんでしたの。それで……」
「__オラクルは、俺の従兄弟だった」
僅かに躊躇ってから、オラトリオは言った。
エモーションに対して抱いていた嫉妬が、別な何かに変わっているのを感じながら。
「生まれつき眼が見えなかったし心臓が弱かった。ほとんど歩くことも出来なくて__8年前に、手術が失敗して死んじまった……」
「オラクル様は…その方のクローンなんですの?」
オラトリオは頷いた。
そして、初めてオラクルを見かけた時の事から、一緒に暮らすようになるまでの経緯をかいつまんで話した。
「つまり…オラクル様は兄から逃げてきたと、そう、おっしゃるのですか?」
オラクルに対するコードの冷たい態度を思い出しながら、エモーションは聞いた。
「具体的に何があったのかは俺に聞かないでくれ。ただ、オラクルにはそれがトラウマになったらしい。初めて会ったばかりの頃は、本当に怯えていた……」
それが判っているからこそ、ずっと想いを抑えて来た。
そうでなくとも、愛しているから大切にしたかった。
それなのに……
「や…だ……」
差し伸べられたクォータの手を、オラクルは何とか振り払った。
だが、それが限界だった。もうどうにも身体がいうことを聞かず、逃げ出すことも出来ない。
「ねえ……、何をそんなに怖がっているの?」
クォータとは違う声に問いかけられ、オラクルは驚いて声のした方を見た。
暗闇の中に、自分とそっくりな少年が立っている。
「__!……何__」
「一緒に…うちへ帰ろうよ」
言って、少年はオラクルに歩み寄った。
手を差し伸べ、オラクルの腕を掴む。
「やだ……!離__」
振り払おうとしたが、却って強い力で掴まれる。
華奢な外見からは信じられないほどの力だ。
「私と一緒に、うちへ帰ろう」
よく見ると、少年は全裸だ。そして、腰から下が水に浸かっている。
嫌、水ではなくホルマリンだ。
全身に恐怖が走るのを、オラクルは覚えた。
少年は、ホルマリンの池の中にいて、オラクルをそこに引きずり込もうとしている。
「厭…だ__助けて、オラトリオ……!」
オラクルは最後の力を振り絞ってもがいたが、無駄だった。
少年の力は恐ろしく強く、オラクルを容赦なく池の中に引きずり込む。
「……悪いようにはしませんよ、オラクル?」
オラクルがホルマリンの池の中に沈むのを見下ろしながら、幽かにクォータは微笑った。
next/back
|
|