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「__何をなさっているのです?こんな所で」
背後から声を掛けられ、オラクルは漸く我に返った。それまで、瞬きも忘れるほどガラス・ケースに見入っていたのだ。
「……」
口を開いたが、言葉が出ない。
戸口で佇んでいるクォータは、いつもの通り、穏やかな微笑を浮かべている。
それが、信じられない。
「どうやら……鍵をかけ忘れてしまったようですね」
眼鏡の位置を軽く直し、苦笑してクォータは言った。
この部屋にはいつも鍵をかけ、自分以外の誰も立ち入らせた事はなかった。
それなのに、オラクルはここに入った。
まるで、何かに引き寄せられたかのようだと、クォータは思った。
「とりあえず、ダイニングに行きませんか?夕食はまだなのでしょう?」
少年の遺体を目の前にしながら、平然とクォータは言った。
そして、床の上に座り込んだままのオラクルに手を差し伸べる。
「__やっ……!」
咄嗟に、オラクルはクォータの手を振り払った。
「どうしてあんな……酷い……」
前の日に、エモーションの家で見かけた時の少年の姿が、オラクルの脳裏に蘇った。
眼が見えないせいか不安そうだったが、コードに頼り切っていた。そして、コードは少年に優しく話しかけていた。
それなのに、何故、こんな事に……?
「酷い……?」
僅かな沈黙の後、クォータは鸚鵡返しに聞いた。
「まさかあなたは、私が彼を殺したとでも思っているのではないでしょうね?」
静かな、そして哀しげな口調で、クォータは言った。
「あれは事故だったのですよ。おそらく心臓に負担がかかりすぎたのでしょうが、詳しいことは……」
クォータは、ゆっくりとガラス・ケースに歩み寄った。
そして、愛撫するようにその冷たい表面に触れる。
「私がどれほど彼を愛し、大切にしていたかなど、誰にも判らないでしょうね。こんな結果になってしまったのは不幸な事ですが、それでも……」
抱きしめるように、クォータはケースに腕を回した。
ケースは少年の身体がちょうど収まるくらいの大きさで、水の棺のように見えた。
「今でも愛していますよ。だからずっと側にいたい。焼いてしまって僅かばかりの灰にしたり、土の下に埋めるなんて、したくはありません。ですから、こうしてずっと側にいられるようにしたのに…」
独り言のように呟いてから、クォータはオラクルに向き直った。
「それを…あなたは酷いとおっしゃるのですか?」
「……っ……」
何も言えず、オラクルはただ震える身体をきつく抱きしめた。
自分の眼と耳が信じられない。
ガラス・ケースの中の少年の姿も、クォータの言葉も全てが悪夢にしか思えなかった。
だが、これは夢ではないのだ。
「…とりあえず、ここから出ませんか?」
言って、クォータは再びオラクルに歩み寄った。
「厭__来るな…!」
咄嗟に、オラクルは手近にあったもの__割れたティーカップ__を掴んで投げつけた。
カップの破片がクォータの頬に当たり、赤い筋を残す。
「__!……」
クォータの頬から血が流れるのを見て、オラクルは叫びだしたいほどの恐怖に駆られた。
クォータに怪我をさせる積りなど無かったのだ。
今、クォータを怒らせたら、何をされるか判らない……
「__仕方ありませんね」
だがクォータは、穏やかな態度を崩さなかった。
「それでは落ち着くまで暫くここにいらっしゃい。後で迎えに参りますから」
それだけ言うと、クォータは部屋から出た。
そして、外から鍵をかけた。
『オラトリオ様__ですわね?』
電話の相手の声に、オラトリオは緊張を覚えた。
「エモーション?オラクルの事で何か判ったのか?」
『そうおっしゃるという事は、そちらにもまだ帰っていらっしゃらないのですね』
オラトリオはその日も病院を休んで1日中、オラクルを探していたが、何の手がかりも掴めていなかった。
『オラクル様の事で少しお聞きしたい事があるのですけれど、これからお会い出来ますか?』
相手の言葉に、オラトリオは反射的に時計を見た。
夜の9時近い。
急に、疲労を覚える。
「…これからって言われても__」
『無理なお願いなのは判っております。それでも、オラクル様の為ですから……』
オラトリオは幽かに眉を顰めた。
それが本当にオラクルの為になるなら、どんな苦労も厭わない。だが、エモーションが何を考えているのか判らない。
「…電話で話す訳にはいかないのか?」
『電話でお話できるような事ではありませんわ。それに私、今そちらの近くまで来ておりますの』
「…強引な人だな」
軽く肩を竦め、オラトリオはエモーションと会うことに同意した。
オラトリオのアパートの近くにあるレストランで、エモーションは彼が現れるのを待っていた。
「いらして下さって、ありがとうございます」
オラトリオの姿を見ると、エモーションは微笑して言った。
が、その微笑みはぎこちない。
オラトリオは食べる気もない料理を注文し、エモーションが切り出すのを待った。
その日は昼過ぎにサンドイッチをコーヒーで流し込んだだけだったが、胃がむかついて食欲がわかない。
「昨日の朝、オラクル様がうちにみえた時」
そう、エモーションは言った。
「とても怯えてらっしゃいましたわ。まるで、何かから逃げて来たみたいに」
飲み物が運ばれて来たが、二人とも手はつけなかった。
まっすぐにエモーションに見つめられ、非難されているようにオラトリオは感じた。
一昨日の夜の、酷く怯えていたオラクルの姿を思い出す。
嫌がって暴れるオラクルの手首を押さえつけ、馬乗りになり__
「何が、あったんですの?」
前の日、電話で聞いたのと同じ事を、同じ口調でエモーションは繰り返した。
オラトリオはパッケージからタバコを出し、ライターで火を点けた。
「それだったら、昨日も言った筈だ」
「『喧嘩をして、少し強く言いすぎた』__それが全てだとは思えませんわ。それだけで、あんなに怯えるなんて」
「何が言いたいんだ。それに、あんたに何の関係がある?」
改めて、オラトリオはエモーションを見た。
アパートで見かけた時は二十歳くらいかと思ったが、こうして見ると、それよりはずっと落ち着いている。おそらく、オラトリオと同い年か少し上くらいなのだろう。
「私は……オラトリオ様を非難しようとしているのではありませんわ。ただ、オラクル様を救って差し上げたいだけです」
「あんたに悪意がないのはよく判ったぜ」
言ってしまってから、オラトリオは後悔した。
昨日今日と街中を駆けずり回って疲れているし、何より罪悪感に苛まされ、自分で思っている以上に苛立っているのだ。
「…済まない。俺はただ__」
「オラクル様の事が心配なんですのね?__それは私も同じです。だから、協力して下さい」
「俺に出来る事だったら何でも」
心から、オラトリオは言った。エモーションに対する嫉妬の気持ちは変わらないが、今はそれに拘っている場合ではない。
「それでは単刀直入にお伺い致しますが__コードをご存知ですね?」
エモーションの言葉は、オラトリオには意外だった。ここでコードの名を耳にしようとは思ってもいなかったのだ。
「…よく知ってるって訳じゃない。何度か会った程度だが…」
あんたは奴を知ってるのか?__オラトリオの問いに、エモーションは頷いた。
「コードは、私の兄です」
「それでは、お願い致します」
言って、クォータは電話を切った。
相手は彼が子供の頃からの主治医で、どんな秘密でも護ってくれる。
あの悪夢のような日に、クォータがまっさきに電話したのもこの老医師だった。
既に冷たくなっているオラクルを救う事は出来なかったが、秘密を護り、その後も色々と協力してくれた。彼の協力がなかったら、オラクルをずっと側にいさせることは出来なかっただろう。
あの日の事を思い出すと、今でも胸が締め付けられるように痛む。
あの日、オラクルには特に変わったところは見られなかった。
食事も普通どおりに取っていたし、体調を崩していたとも思えない。
それは、余りに突然で呆気なかった。
クォータはオラクルが眠ったのだと思い、異変に気づいたのは翌朝になってからだった。
もっと早く気づいて蘇生措置を取っていれば助けられたかもしれない__そう思うと、悔やんでも悔やみきれない。
あんなに儚い生命であったのなら、仕事など放っておいてずっと一緒にいれば良かった。
一室に閉じ込めたりせず、色々な世界を見せてやりたかった。
モシ、アノ時ニ__シテイレバ
__ヲシナケレバ
モット__シテイレバ……
軽い眩暈に、クォータはこめかみを押さえた。
いくら悔やんでも悔やみきれない。だが、死んでしまった者を生き返らせる事は出来ない。
別のクローンを手に入れることは問題外だ。
『彼の』オラクルが死んだ時、そもそもクローンなど手に入れようとしたこと自体が間違いだったのだと後悔した。
別のクローンなど手に入れても、オラクルを喪った痛みは和らがない。
クローンを手に入れたところで、8年前に逝った『あのひと』が蘇る訳では無いのと同じように。
気を取り直し、クォータはガラス・ケースのある部屋に戻った。
今は、生きて彼の側にいるオラクルの事を最優先すべきだ。
まもなく医師が到着し、鎮静剤を投与してくれるだろう。クローンという存在の繊細さを思えば薬はなるべく使いたくないが、この場合、やむを得まい。
「オラクル?開けますよ?」
ドアをノックし、クォータは声を掛けた。
「少しは落ち着きましたか?」
言って、ドアを開ける。
が、オラクルの姿はそこには無かった。
窓が開いているのに気づき、クォータは背筋が震えるのを感じた。
反射的に窓に駆け寄り、乱暴にカーテンを開け、ベランダに出る。
おそらく、オラクルはここから飛び降りたのだ。
クォータは電話を取り上げ、ガレージの2階にいるはずの運転手を内線で呼び出した。
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