
-5-
「いい子にしていましたか?」
部屋に戻ると、クォータは毎晩の習慣どおり、最愛の者に優しく呼びかけた。
指先に得たひんやりとした滑らかな感触に、幽かに眼を細める。
いつもと変わらぬ姿で、『彼の』オラクルはその場に横たわっていた。
愛してる…クォータ、愛してる……
熱い吐息と共に繰り返された甘い言葉が、クォータの脳裏に蘇った。
判っていた__それが、薬のせいでしかない事も。オラクルが、言葉の意味など理解していない事も。
「愛していますよ…?」
冷たい硝子の上に身を委ねながら、クォータは囁いた。
「あなたが望むなら、私はどんな事でもしたしますよ__そう、どんな事でも」
クォータは暫く黙っていた。
それから、困惑したように幽かに眉を顰める。
「済みません。いつも側にいてあげられないのは……。その事は、本当に申し訳ないと思っているのですが」
言って、クォータは硝子の上に指を滑らせた__まるで、愛撫するかのように優しく。
「それでも、もう、あなたは独りではありませんから……」
囁くように言って、クォータは満足そうに微笑んだ。
翌朝目覚めると、オラクルはぼんやりと天井を見つめた。そして、前の日に起きた事に思いをめぐらせる。
オラトリオの元から逃れ、エモーションの家に行き、そこでコードと出会い……
寝返りを打ち、溜息を吐く。それから、オラトリオと初めて会った時の事を思い出した。
あの時には、オラトリオはコードの仲間なのだと思った。そうで無いと判ってからは、オラトリオが何故、自分に関心を持つのか判らなかった。
その答えは、呆れるほど簡単だった。
オラクルはベッドから降り、バスルームに入って身支度を整えた。それから、広い階段を降り、ダイニングルームに入る。
「お目覚めでしたか」
テーブルの向こうで、クォータが微笑んだ。
オラクルは黙ったまま、椅子に腰を降ろした。
ほどなくメイドが現れ、オラクルのカップを紅茶で満たす。
「ダージリンのファーストフラッシュですよ__お口に合えば良いのですが」
言って微笑んだクォータの顔を、オラクルはまっすぐに見つめた。
聞きたい事はただ一つ。
けれども、それを口にする気になれない。
「…どうかなさいましたか?」
クォータに問われ、オラクルは黙ったまま首を横に振った。
「申し訳ありませんが、私はゆっくりしてはいられないのですよ。仕事に出かけなければなりませんから」
そう言って、クォータは席を立った。
「何かお入用の物があればメイドにお申し付けください。とりあえずスケッチブックは用意させておきましたが」
また、絵を見せて下さいね?__優しく微笑すると、クォータはダイニングを出て行った。
クォータが出て行った後、オラクルは暫く食べる気もないスクランブル・エッグをフォークで突付いていた。
子供みたいだからやめろと、オラトリオに窘められた事があったのを思い出す。
フォークを皿の上に置き、オラクルは幽かに溜息を吐いた。
お前は世間知らずだから__何度も、オラトリオはそう言っていた。
ある時は優しい微笑と共に。
ある時は苦笑して。
初めのうちは、『世間知らず』という言葉の意味が判らなかった。オラトリオと一緒に暮らすようになって、自分がいろいろな事を知らないのに気づいた。
けれども、オラトリオが色々な事を教えてくれるので、『世間知らず』でいる事はむしろ楽しかった。
ティーカップを手に取り、もう一度、オラクルは溜息を吐いた。
子供の頃の記憶がないのは、事故で記憶を失ったせいなのだと、コードからは聞かされていた。
両親も、その事故で亡くなったのだ、と。
コードの言葉を疑った事はなかった。と言うより、それを理解するのさえ難しかった。だから、そういうものなのだと鵜呑みにするしか無かった。
「……馬鹿みたい……」
自嘲気味に、オラクルは呟いた。
クローンが何であるのかは知っていた__その為の研究施設に、7年もいたのだから。
もっと早く、気づくべきだった。
少なくとも、初めてオラトリオのアパートに行った時に。
自分と瓜二つの儚げな少年の写真を見た、その時に。
「『彼』じゃ駄目なんだ。生まれつき眼が見えないだなんて、我々の技術を疑われてしまう」
相手の言葉に、コードは反論したい気持ちをかろうじて抑えた。
「って言うより、あんなに手をかけて育てたオラクルをあっさり手放しただなんて信じられないわ」
「好き好んで手放した訳では無い」
「だったらどうして連れ戻さなかったんです?まさか核もない細胞だけ持ち帰るだなんて、思ってもいなかった」
「俺様を侮辱する気か?」
コードの言葉に、それまで3人のやりとりを黙って聞いていた年配の男が軽く手を上げた。
「侮辱どころか、非難しているのでもないよ」
クローンにも、人権はあるからね__そう、年配の男は続けた。
「我々の思惑通りにオラクルが動いてくれなくても、それは仕方がないだろう?彼は意思も感情も持った人間であって、家畜じゃない」
「そんな事は判ってるわよ」
幾分か苛立たしげに、女が言った。
「私たちには判っても、スポンサーはそれじゃ納得しないわ。そして、スポンサーを納得させられなければ研究は続けられなくなる」
「もっと重要なのは」
そう、若い男は言った。
「オラクルを生み出したのは我々のチームであって、あんた独りじゃないって事だ、コード」
「思い上がるな。貴様など__」
「止めないか__嫌、お願いだ。止めてくれ」
穏やかな口調で、年配の男__コードの父親の親友だった__は、コードを遮った。
「我々は皆、同じ目標を持った研究者だ。だが、我々の研究は世間から全面的に認められているとは言いがたい__それなのに、内輪で争ってなどいられないだろう?」
年配の男の言葉に、コードは眉を顰めた。若い男も、不満そうに腕を組む。
「内輪で争う積りなんかないわ。ただ、私たちの一番の成果を取り戻したいだけ」
年配の男は何度かうなずいた。それから、コードに向き直る。
「我々は我々の『一番の成果』を取り戻したい。そして、それは君にしか出来ない事だ……」
無為に時は過ぎ、陽の落ちる頃になった。
クォータはスケッチブックを用意してくれていたが、絵を描く気になどなれない。
今、思えば、かつてクォータが自分の絵を大金で買い取ってくれていたのは異常な事だった。あの頃はお金の価値など判らなかったから、不審にも思わなかったけれど。
どうにも遣り切れないほどに気が滅入る。
何度目かの溜息を吐いて、オラクルは席を立った。
どうするという宛てもなく、階段を降り、ダイニングに入る。
クォータは帰りが遅くなるから先に夕食をとるように言っていたが、何も食べる気にならない。
キッチンに入り、とりあえずお茶を淹れる。
メイドたちの帰った後の屋敷はしんと静まり返り、広さが空しく感じられる。
ティーカップをトレイに載せて、オラクルは部屋に戻った。
ドアを開けると、灯りが消えている。
一瞬、何が起きたのか判らなかったが、すぐに部屋を間違えたのだと気づいた。階段を昇って右の奥に行くべきだったのを、逆に行ってしまったのだ。
「………」
ざわりと、背筋が寒くなるような感覚を、オラクルは覚えた。
部屋の中に、『何か』がある。
その『何か』は月明かりに照らされ、冷たい光を放っていた。
「__何……」
好奇心と恐怖が入り交ざったような奇妙な感情に支配され、オラクルは暫くそれを見つめていた。
それから、壁のスイッチに手を伸ばす。
僅かに躊躇ってから、オラクルは灯りをつけた。
「………!」
そこでオラクルが見たのは、自分にそっくりな少年の、ホルマリン漬けの遺体だった。
next/back
|
|