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眼が覚めてからも、オラクルは暫くベッドの中で横たわっていた。2日の間、車と列車に乗っていたので、まだ揺れている様な錯覚を覚える。
このアパートを出た時には、戻って来る事は無いだろうと思っていた。オラトリオにも、二度と会わないだろうと。
ゆっくりとベッドの上に起き上がり、所在無く部屋の壁を見つめる。
研究所に戻った時、コードも他の研究員たちも優しく迎えてくれた。それなのに、コードは突然、クローン研究を止めたと言い出し、逃げるようにしてこっそり研究所を出なければならなくなった。
どうしてそんな事になったのか、誰も話してくれなかった。
研究所から戻って来る2日の間、オラトリオは殆ど口を利かなかった。
エモーションは時折、気遣って声を掛けてくれたが、何か心配事を抱えているような辛そうな表情をしていて、オラクルを不安にした。
「……これから、どうしよう……」
呟き、オラクルは溜息を吐いた。
アパートを出ると言ってしまったから、ここにはいられない。
折角、迎えに来てくれたオラトリオにきつい事を言ってしまったのが悔やまれる。
のろのろと服を着替え、オラクルは寝室のドアを開けた。きっと怒っているだろうと思うとオラトリオと顔を会わせるのは気まずいが、引越し先を見つけるまでは我慢しなければならない。
「オラトリオ…?」
リビングにオラトリオがいるのを見て、オラクルはやや意外に思った。
テーブルの上には空になったウイスキーのボトルとグラス、それに吸殻でいっぱいの灰皿がある。アルコールと煙草の匂いで、部屋がむっとしている。
そしてソファの上で、オラトリオは泥のように眠っていた__眉を顰め、辛そうな表情(かお)で。
オラクルと一緒に暮らすようになってからオラトリオが深酒した事は無かったから、オラトリオのそんな姿を見るのはオラクルには初めてだった。
換気の為に窓を開け、自分の部屋に戻って毛布を取って来た。
それを、オラトリオに掛けてやる。
オラクルは暫くオラトリオの寝顔を見つめていたが、やがて視線を逸らした。
オラトリオの辛そうな表情を見ていると、自分も辛くなるのだ。
お茶でも淹れようと思い、キッチンに入った。数日前からずっと食欲が無く、特に朝は食べたくない。それにオラトリオも暫く起きないだろうから、朝食の支度をする必要は無さそうだ。
「__!……」
薬缶に水を入れ火にかけようとした時、突然腹部に激痛を覚え、オラクルはその場に蹲った。



寝返りを打とうとして、オラトリオは眼を覚ました。
頭がぼんやりして、すぐには状況が掴めない。
テーブルの上の空になったボトルを見遣り、漸く自分が酔いつぶれてソファで寝てしまったのだと気づいた。
それから、毛布が掛けてあるのに気づく。
「……オラクル…?」
名を呼んでも、答えは無かった。ソファから身体を起こすと、激しい頭痛がする。
オラクルを迎えに行く為に既に2日、病院を休んでいる。
今日は休む訳にはいかないだろうと思いながら、重い腰をあげ、髪をかき乱した。
水を飲もうとキッチンに入り、オラクルが床の上に蹲っているのを見た。
「オラクル…!大丈夫か?」
「…ラ…ト……」
駆け寄って抱き起こすと、オラクルの頬は蒼褪め、額には幽かに汗が浮かんでいる。
オラトリオはオラクルを抱き上げて寝室に運び、そっとベッドに横たえた。
「ゆっくり息をするんだ。吸って…吐いて…そう、それで良い」
宥めるように穏やかに話しかけ、脈を調べた。
オラクルは、不安そうにこちらを見上げている。
「どこが痛むんだ?」
「…お腹…」
コードに見せられたレントゲン写真が、オラトリオの脳裏に浮かぶ。
胃にも結腸にも癌の病変があり、肺にも腫瘍が出来ている。
痛むのはどこかなどと、聞くだけ無駄な気がした。
「…まだ酷く痛むか?」
オラトリオの問いに、オラクルは頷いた。
「痛み止めを打ってやる。それですぐに楽になれるから、ちょっとだけ待っててくれ」
オラトリオは自室に戻り、コードから渡されたモルヒネのアンプルを鞄から取り出した。
コードの考え方には共感できないが、その冷静さと手回しの良さは認めざるを得ない。
薬で痛みが収まるとオラクルは落ち着いたが、それでも不安は残った。
「__私……病気なのかな」
「…多分、最近あまり食ってないから、胃液で胃が荒れたんだろう。軽い胃炎程度だと思うが、後で一緒に病院に行こう」
「でも、オラトリオ…仕事があるんでしょう?病院になら、一人で行けるから…」
オラトリオは、ゆっくりと首を横に振った。
オラクルが気遣ってくれるのは嬉しいが、とても一人にしておく事など出来ない。
「俺の事は大丈夫だ。仕事より……お前のほうが大事だ」
だから、側にいさせてくれ__言って、オラトリオはオラクルの手に自らのそれを重ねた。
オラクルは暫く躊躇っていたが、やがて軽く微笑み、頷いた。



午後になってから、オラトリオはオラクルを連れて自分の勤務する病院に行った。
オラクルを待合室に残し、上司である内科医長を訪れる。
「3日も『病欠』していた割には元気そうだな。小児科が人手不足だという事が判っているのかね?」
「済みません。ですが…今日は休職のお願いに来たんです」
若い研修医の突然の言葉に、内科医長は眉を吊り上げた。
「君は研修中の身なんだぞ?それを__」
「お願いです。これを、ご覧になって下さい」
相手の言葉を遮って、オラトリオはコードに渡された書類袋を上司に渡した。
中には、オラクルの検査結果が入っている。
「……酷いな」
短く、内科医長は呟いた。
「ここまで広範囲に転移している症例は始めて見たよ__これで生きているのかね?」
何気ない内科医長の言葉に、オラトリオは心臓を掴まれた様に感じた。
「…一緒に連れて来ています。診察と、検査をお願いしたいのですが」
「この検査結果は信頼できないと?」
「…信じられないんです。あいつは……まだとても若いのに……」
内科部長は、外来の診察は午前で終わっていると言ったが、オラクルが午前中に激しい痛みを訴えていた事を話すと、診察と検査を承諾した。
「それで、休職とはどういう事だね?」
「その患者は俺の友人なんです。だから……側にいて、看護してやりたい」
「それならば、ここに入院させたほうが良いだろう。勤務の傍ら見舞ってやれば良い」
オラトリオは、まっすぐに相手を見つめた。
「入院させて、良くなる可能性でもあるんですか?」
内科医長はすぐには答えなかった。
一旦、視線を逸らし、それからもう一度、オラトリオを見る。
「その友人というのは、君の恋人か婚約者かね?」
ゆっくりと、オラトリオは首を横に振った。
「そういう関係ではありません。でも…家族よりも誰よりも大切な存在なんです」
内科医長は暫く黙っていたが、やがて頷いた。
「良かろう。一ヶ月の休職を認める」



オラクルの検査が終わるまで、オラトリオは待合室にいた。
欠勤しているオラトリオが私服で待合室にいるのを不審がって何人かの看護婦や医者が声をかけてきたが、オラトリオは答えなかった。
「オラトリオ」
やがてオラトリオの前に姿を現したオラクルは、時間のかかる検査のせいで疲れているらしかった。
「検査だったらコードのところでやったばかりなのに」
「だが…あそこは病院じゃないだろ?」
宥めるように優しく、オラトリオは言った。
「俺は検査結果を聞きに行って来る」
「だったら私は中庭で待ってるよ」
痛みの発作は次にいつ襲ってくるか判らない。出来れば近くに医者のいる場所にいて欲しいとオラトリオは思ったが、ここの中庭はオラクルのお気に入りだ。行くなとは言えない。
「…じゃあ、中庭で待っててくれ。多分、2,30分で終わるから」

期待した訳では無いが、それでもオラトリオは奇跡を望んだ。
或いは、コードが何かを企んでいて、検査結果を捏造したかを。
奇跡は起きなかった。
そして、検査結果も正しかった。

処方されたモルヒネの錠剤を薬局で受け取ってから、オラトリオは中庭に出た。
1年半前に、ここでオラクルと会った時の事を思い出す。
あの時オラクルは、オラトリオがコードの仲間だと思い、オラトリオから逃げて行った。
不意に、熱いものが込上げるのをオラトリオは感じた。コードに検査結果を見せられた時のショックが、今は強い悲しみに変わっている。
深く息を吸い、オラトリオは何とか気持ちを落ち着かせようと努めた。
オラクルを、不安がらせる訳にはいかない。
「…オラクル…?」
一通り中庭を探してもオラクルの姿が見つからず、オラトリオは不安を感じた。小走りに中庭を駆け抜け、裏庭も探す。
もう一度、中庭に戻った時、周囲が雑然としているのにオラトリオは気づいた。
庭の中ほどに、何人かの制服警官がいる。
「何があったんですか?」
警察官と話している婦長に駆け寄り、オラトリオは聞いた。
「誘拐よ。若い男の人が、何人かの男に連れ去られたの」
目の前が暗くなるのを、オラトリオは感じた。










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