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寝返りを打ち、それからオラクルは眼を開けた。
暫くカーテン越しに差し込んでくる日の光を見つめてから、ベッドサイドテーブルの上の時計に手を伸ばす。
「こんな時間……!」
寝過ごしたのに気づいて、オラクルは慌てて飛び起きた。パジャマの上にカーディガンを羽織り、足早にドアに向かう。
「朝ごはん、作らないと…」
言ってから、オラクルはその必要が無い事を思い出した。
ここはコードたちの研究所であって、オラトリオのアパートではない。
オラクルは軽く溜息を吐いた。ここに戻って来て3日になるのに、まだオラトリオと一緒に暮らしていた頃の癖が抜けない。
盲目の少年がオラトリオに寄り添い睦まじくしている姿が脳裏に蘇り、オラクルは無意識のうちに爪を噛んだ。
今頃、オラトリオはどうしているのだろう……。
多分、病院で勤務についている筈だ。あの少年は、アパートでオラトリオの帰りを待っているのだろう。
自分の部屋が、今では盲目の少年のものになっているのだと思い、オラクルは軽い苛立ちを覚えた。せめて、スケッチブックや画材は持ってくるべきだった__どうせ、あの少年の役には立たないのだから。
クローゼットを開け、オラクルはこの部屋に残して行った筈のスケッチブックを探した。元々の荷物が少ないので、探し物はすぐに見つかった。コードの許を逃げ出した時は何も持っていかなかったので、全ては1年半前のままに残っていた。
自分が以前に描いた絵を見て、オラクルは幽かに微笑んだ。
絵画スクールに通う前に描いていた絵は、ただ自己流で感情の赴くままに色を重ねていっただけの稚拙なものだった。それでも、コードが誉めてくれるのが嬉しくて、毎日、絵を描いていた。
オラトリオと一緒に暮らすようになってからは、オラトリオが絵画スクールに通わせてくれたし、パソコンで絵を描けることも教えてくれた。CGツールは使い方を覚えてしまえば手描きよりずっと早く色がつけられるし、色々なタッチの絵が描けるのも楽しかった。

ベッドに腰を降ろし、オラクルはもう一度、溜息を吐いた。
クォータの屋敷で見たことを話したのが悪かったのか、コードはあれから碌に口もきいてくれない。
研究所の外に一人で出る事は許されないし、所内にいてもする事がない。
ここに戻って来たのは間違いでは無かったのかと、オラクルは改めて思った。
けれども、オラトリオのアパートに戻る積りも無かった。






「ここですわ」
エモーションの言葉に、オラトリオは思わず眉を顰めた。目の前の建物の外見は暗く陰気で、全ての窓に鉄格子まで嵌っている。
「…まるで刑務所か昔の精神病院だな」
「その両方です。かつて刑務所として使われた建物を改装して精神病院に転用し、病院が財政的に行き詰まると競売に掛けられました」
「それを、コードが買い取ったって訳か」
オラトリオの言葉に、エモーションは首を横に振った。
「ここを買い取ったのは、私の父とその友人たちです」
「成る程…」
コードが今から9年も前にクローン人間の製造__それも高度な遺伝子組み換えと、人工子宮内での培養を含む__に成功していたのは、父親の代からの研究の成果だったのだと、オラトリオは思った。
「列車の中で打ち合わせたとおりにいたします__宜しいですわね?」
感情を表さずに、エモーションは言った。
オラトリオは頷き、テレビカメラに移らない範囲に退く。
「カシオペアです。エモーション・カシオペア。兄に会いに参りました」
インターフォンのチャイムを鳴らし、エモーションは言った。




突然の妹の来訪にも、コードは驚かなかった。冷静であったというより、驚きを使い果たしてしまっていたと言った方が妥当だろう。それでも、エモーションと一緒にオラトリオが現れたのは意外だった。
「……何の用だ」
人気の無い食堂の一角で妹たちに会い、コードは訊いた。
「オラクル様をお迎えに参りましたの」
オラトリオが口を開く前に、エモーションが言った。コードはエモーションを見、オラトリオに視線を移し、それからもう一度、妹を見た。
「…お前がこんなひよっ子と行動を共にするとは思わなかった」
「私がオラトリオ様の味方になってお兄様の敵になったのだとお思いならば、それは間違いですわ」
軽やかに笑って、エモーションは言った。
それから、真剣な表情に変わる。
「オラクル様に…会わせて下さい」
「…良いだろう。だが__」
その前に話があると、コードはオラトリオに言った。オラトリオは頷き、コードに従って食堂を出た。

部屋は、沈黙が支配していた。
コードがオラトリオを連れ込んだ実験室の一つ。部屋の両側は様々な動物の遺骸を収めたビンで埋め尽くされている。研修医であるオラトリオにはさほど珍しくも無い光景だが、普通の人間が見たら不気味だと思うかも知れない。
「…オラクルの事だが」
重苦しい沈黙に耐えられず、オラトリオは言った。コードはオラトリオに背を向けたまま、何の反応も示さない。
「…あんたがオラクルを研究に利用したがってるのは判ってる。だから俺はあいつを迎えに来たんだ。オラクルは__」
「貴様のせいだ…!」
唐突に、そしてヒステリックに言葉を遮られ、オラトリオは驚いて相手を見た。コードは棚から封筒を取り出し、オラトリオの立っている側の机の上に、乱暴にそれを投げた。
オラトリオはコードを見たが、説明は得られそうになかった。仕方なく、封筒の中身を開ける。
「……!これは……まさか……」
「貴様のせいだ」
もう一度、そして今度は低く抑えた口調でコードは言った。
「俺様の許にいた時には、オラクルの健康状態には細心の注意を払っていた。毎月、精密な健康診断もした。ずっとここにいれば、こんな事にはならなかった筈だ」
「……嘘…だろ?オラクルがこんな__」
「貴様のせいだ」
コードは、オラトリオの襟首を掴んだ。
「貴様がもっと気遣っていたら、こんな事になるまえに防げた筈だ。オラクルがどれほど特別で繊細な存在であるか貴様は知っていた。それなのに、オラクルの健康に対する注意を貴様は怠った」
それでも、医者か?__罵られても、オラトリオは答えられなかった。
「こんな事になったのは貴様のせいだ。ずっと俺様の所にいればオラクルは……」
コードの手から、力が抜けた。
オラクルが1年半前に研究所から逃げ出した原因が何か__もっと言えば誰か__それを、誰よりも良く知っているのはコードなのだ。
酷く後悔した。
この1年半の間、ずっと後悔し続けていたと言っても過言ではない。
だが、後悔は役に立たなかった。
おぞましくも冷酷な検査の結果に臍を噛み、己の浅ましさを呪った。
だが、それは何の役にも立たなかった。



「……モルヒネは手に入るな…?」
やがて、呟くようにコードは言った。
「苦しまないようにしてやれ。今となっては……他にしてやれる事は何もない……」








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