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夜になってもコードから何の連絡もないので、オラクルは自分からコードの部屋に行った。病院で処方してもらった睡眠薬の残りがなくなったので、コードに薬を貰おうと思ったのだ。
ドアをノックしても、返事はない。恐らく、まだ研究室にいるのだろう。
オラクルは軽く溜息を吐いた。
研究所に戻ってから、コードと碌に話をしていない。コードは研究と実験で忙しいからいつも相手をしてくれていた訳ではないが、それでも以前ならこんな風に放って置かれはしなかった筈だ。
1室だけあかりが点いていたので、コードの居場所はすぐに判った。オラクルが研究室に入っていくと、コードはゆっくりと振り向いてこちらを見た。
酷く疲れたような表情だ。
「……どうした?」
コードの口調は優しかったが、表情は和らがない。
オラクルは、幽かな不安を感じた。
「…睡眠薬が欲しいんだけど」
「睡眠薬__と言ったのか?」
オラクルは頷いた。そして、薬を飲まないと悪い夢を見て魘されるので、睡眠薬を用意して欲しいのだと説明した。
「どんな夢だ。何か…あったのか?」
オラクルは口篭り、視線を逸らした。
自分のクローンは少なくとも二人、いるのだ。もしかしたらもっと多くのクローンが造られていて、この研究所の実験棟でホルマリン漬けにされている可能性もある。
背筋が寒くなるのをオラクルは感じた。
ここに戻ってきたのは間違いだったのかも知れない。
「…話したくなければ、無理には訊かないが」
「私のクローン、たくさん造ったの?」
言ってしまってからオラクルは後悔した。そんな事を口にする積りは無かったのだ。
コードはすぐには答えず、まっすぐにオラクルを見つめた。
何かに突き動かされるように、オラクルは続けた。
「本当の事を話してよ。嘘やごまかしなんか聞きたくない。だから、本当の事を……」
コードはオラクルから視線を逸らし、深く溜息を吐いた。
「…良いだろう。お前には真実を知る権利がある」
知れば、オラクルは哀しむだろう。だがこれ以上、オラクルに嘘を吐くことが、コードには耐えられなかった。
嘘は、一つだけで良い。
「お前のクローンを造ったのは、クォータ・クエーサーの依頼でだった。あの男は、酷くお前に執着している」
「クォータも…オラトリオの亡くなった従兄弟を知っていたの?」
「そうだ」
短く、コードは答えた。
「だったら…クォータも……」
「お前ではなく、オラトリオの死んだ従兄弟に執着しているのかも知れん。いずれにしろ、あの男はお前のクローン製造を依頼し、代わりに多額の寄付を申し出た」
寄付という言葉に、オラクルの指がぴくりと震えた。
「だったらあの子は……クォータに売る為に……」
コードは頷いた。
「もう一人の、眼の見えない子は…?」
「あれは…言わば予備だった。人工子宮内での培養過程で多くのクローンが死んでしまう。だから、初めに複数の受精卵を用意した」
2体のクローンが無事成長を遂げたが、その一人が生まれつき盲目であることが判ったので手元に残し、もう一人をクォータに渡したのだとコードは説明した。
「お前は…クォータの許にいるクローンの事を知っているのか?」
「……クォータの別荘で会ったよ」
俯き、自分の指を見つめたままオラクルは言った。
「大きなガラスの水槽の中で…ホルマリン漬けにされてた……」
オラトリオたちが住む街からコードの研究所までは、夜行列車を利用しても2日近くかかるのだとエモーションは説明した。
「人里離れた場所にあって、列車の本数がとても少ないのです」
列車の中で地図を広げ、エモーションは研究所の所在地を指し示した。
「これだったら幹線の駅からレンタカーでも借りて車で行った方が却って早いな」
時刻表を調べながらオラトリオが言うと、エモーションは頷いた。
その後は、二人とも口を利かなかった。
若い男女が一緒にいて一言も会話を交わさないのは、周囲から見たら奇妙な光景だったかも知れない。
「…一つ、お伺いしても宜しいですか?」
列車を降り、次に乗る夜行列車の到着を駅で待つ間に、エモーションはオラトリオに訊いた。
「オラクル様は、亡くなった従兄弟のクローンなのだとおっしゃってましたね」
オラトリオは頷いた。
「その方の事…愛してらしたんですね?」
「…あいつは誰にでも優しくて、誰からも愛されていた。俺は……あいつの為に、医者になりたかったんだ」
オラトリオはそれきり口を噤んだ。
今、従兄弟の事を話したくは無い。
今はただ、オラクルの事だけを考えていたかった。
「昔…恋人がいました」
食堂車で夕食を済ませ、寝台車に落ち着く前に、独り言のようにエモーションは言った。
オラトリオは黙ったまま、エモーションが続けるのを待った。
「結婚する予定でした。でも…出来ませんでした。結婚式の日まで、あの人は生きられなかったのです」
脳腫瘍だったのだと、エモーションは言った。それも、最も悪性の神経膠芽腫で、手術は受けたが助からなかったのだ、と。
「その頃既に人間のクローン実験に成功していた兄が連絡してきたのは手術の直前でした。神経膠芽腫の生存率は数パーセントに過ぎない。だが、今のうちにDNAを採取しておけば、万が一の時にも婚約者のクローンを造ってやる…と」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受け、オラトリオはエモーションの横顔を見つめた。
エモーションの表情に哀しみは表れていなかったが、きつく握り締めた拳が震えているのははっきりと見て取れた。
「兄を……殺してやろうかと思いましたわ」
乗務員が検札に現れ、エモーションは口を噤んだ。
暫くの沈黙の後、オラトリオは口を開いた。
「__あんたは…俺を軽蔑しているんだろうな」
エモーションは答える代わりにオラトリオを見た。
「コードが俺の従兄弟のDNAを盗んで勝手にクローンを造ったと知った時、俺はコードを憎んだ。だが……クローンのオラクルに出会えた事を、心のどこかで神に感謝していた__悪魔にでも感謝したほうが良かったんだろうが…」
列車が停車しない駅に近づき、そのまま通過した。
エモーションはオラトリオから視線を逸らし、窓の外を見遣った。
「…私が兄を殺したいほど憎らしく思ったのは、婚約者のクローンを造って欲しいと、心の底では思っていたからですわ」
でも、と、エモーションは続けた。
「どんなに似ていようと、あの人のクローンはあの人ではない。亡くなった人を取り戻すことは、誰にも出来はしません」
「俺にとってあいつは、亡くなった従兄弟の代わりなんかじゃ無い」
思わず強く、オラトリオは言った。
エモーションは黙ったままオラトリオを見、黙ったまま視線を逸らした。
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