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昼休みに、コードは病院の中庭に出た。
何人かの患者が看護婦や見舞い客に付き添われて散歩している姿が散見される。
ここでの研修医生活も残り僅かだ。
研修が済んだら、彼は父親とその友人たちの研究所に行くことになっている。大学卒業後、すぐに研究所に行かなかったのは、彼が自分を遺伝学者である以前に医師であると思っているからだ。
人気の少ない場所を求めて、コードは建物の裏手に回った。
そこには先客がいた。
車椅子に座ったその少年は、コードの方を振り向き、微笑した。
一瞬、自分が夢を見ているのではないかとコードは思った。
少年の微笑みは透明で儚く、冬の柔らかな日差しの中にそのまま溶け込んでしまいそうに危うかった。
「…あなたはさっきの教授回診の時にいらっしゃったドクターですね?」
おっとりとした口調で、少年は言った。
「インターンだ」
短く、コードは言った。言ってしまってから自分の応対が無愛想すぎたと、彼は思った。
「どうして俺様が判った?」
コードの記憶に間違いが無ければ__そして彼は、自分の記憶の確かさを疑った事は無かった__この患者は全盲の筈だ。心臓の手術を受ける為に先週、この病院に転院して来た。
「足音とか匂いとか…。匂いって云うのは雰囲気の事ですけど」
言って、少年はもう一度、穏やかに微笑んだ。病室のベッドに横たわっていた時には脆弱さだけが眼についたが、こうして柔らかな日差しの中にいると、少年は別人のように印象が変わって見える。
子供の頃、読んだ童話に出てきた妖精を、コードは思い出していた。
少年の背には、透明な羽根が似合いそうだ。
「…よく知っている人間ならともかく、一度、会っただけの相手でも判るのか?」
「判る時もあれば、判らない時もあります」
好奇心から訊いたコードに、少年はおっとりと答えた。それから、人との出会いは大切だから、と、独り言のように付け加えた。
その言葉を聞いた時、この少年は気づいているのだとコードは思った__自分の命が、残り僅かだという事を。
回診した教授は本人の前では言わなかったが、手術の成功率は低く、それ以前に手術に耐えられるだけの体力がないのだと、研修医たちに説明した。恐らく、二十歳になるまでは生きられないだろうとも。
研修医の一人は教授の説明に納得がいかなかったらしく、少年を助ける何らかの手立ては無いのかと質問した。現在の医学では無理だというのが教授の答えだった。
現在の医学では__内心、コードは呟いた。
彼の父親たちが研究し、これから自分も携わろうとしている遺伝子治療の技術をもってすれば、『現在の医学』では不可能なことを可能に出来るかもしれない。嫌、出来る筈だ。その確信があるからこそ、彼はこの数年の間、医学生の立場を利用して先天的な病気に苦しむ患者の血液サンプルを密かに集めて来たのだ。

「…手術はきっと、成功するだろう」
気休めに過ぎないと思いながら、コードは少年に言った。
少年は困惑したような表情を浮かべたが、それはすぐに穏やかな微笑に変わった。
「ありがとう、先生」
「……信じないのか?」
思わず、コードは言った。言ってしまってから後悔したが、少年は今度は困惑の表情は見せなかった。
「運命ですから」
透明に微笑んで、静かに少年は言った。
その穏やかさに、コードは悟った。この少年は、全てを受け入れているのだ。諦めているのではなく、全てをあるがままに受け入れている。
自分が先天的な病気に苦しめられていることも、その命が残りいくばくも無いことも、全てを。

現在の医学では__もう一度、コードは内心で呟いた。

迷いは一瞬で消えた。
コードは少年の正面に跪き、まっすぐに相手の眼を見つめた__そんな事をしても少年には見えないのは判っていたが。
「俺様の専門は遺伝子治療だ」
そう、コードは切り出した。そして少年のような先天性の病気に対する治療法として、遺伝子治療がいかに効果的で将来有望であるかを熱心に語った。
「それには時間がかかるが……」
言いながら、コードはこんな話をした事を後悔した。コードの研究がなんらかの効果的な治療法を生み出したとしても、その恩恵に預かれるほど長く少年は生きていないだろう。
それでも、少年は落胆の表情は見せなかった。だからと言ってコードの話に興味を示さなかった訳でもない。
少年は、自分のDNAをコードの研究に使わせることを同意した。








「オラクル…?」
夜になってからオラクルの部屋を訪れたコードは、明かりが消えたままなのを不審に思って相手の名を呼んだ。灯りをつけると、オラクルはベッドの上に身体を丸めて横たわっていた。
「どうした。気分でも悪いのか?」
コードが声を掛けると、オラクルはのろのろとベッドの上に身体を起こし、首を横に振った。
「昼は食べたのか?」
コードはオラクルを怯えさせないようにゆっくりと相手に近づき、軽く手首を掴んだ。
脈は規則正しいが、幾分か弱っている。熱は無い。
「多分、疲れが出たんだろう。食欲が無いならスープでも持って来てやろうか?」
「……オラクル……」
答える代わりに、オラクルは自分の名を呟いた。
幽かに、コードは眉を顰めた。
「どうして…私にその名前をつけたんだ?」
俯いたまま、オラクルは訊いた。

オリジナルと同じ名前。
他のクローンたちも同じだ。
まるで、同一規格の量産品。

「…気に入らないか?」
「誤魔化さないでよ」
オラクルはコードを見、それからまたすぐに視線を逸らした。
オラトリオに取って自分は亡くなった従兄弟の身代わりでしかない。別なクローンでもオラトリオは構わないのだろう。
だったらコードは?
コードに懐いている少年のクローンと交換してまで、どうして自分を呼び戻そうとした?
「ただのクローンだから、わざわざ名前を考えるまでも無かったのか?オリジナルと同じ呼び名で充分だと…?」
「…言った筈だ。お前はただのクローンなどではない。俺様にはお前が必要だ」
「……どうして私が?私のほうが……研究や実験に都合が良いから……?」
その方が、スポンサーを集めやすくなるから__内心で、コードは呟いた。だがそんな事をオラクルに話す気は無かった。そんな事を言えばオラクルが傷つくだろうという理由からだけでなく、研究費用集めにコードがうんざりしていたからだ。
コードの父親がエモーションのクローンを造り出してから、祖母は費用援助を打ち切った。
援助を打ち切られたせいで、コードの父親たちはますます遺伝子治療研究から離れざるをえなくなった。

元々クローン製造は遺伝子治療の方策に過ぎなかった。が、食肉産業がクローン牛製造に興味を持ちスポンサーとなると、研究費用捻出の為、クローン研究が必然的に実験のメインになった。
肉牛の次に人間のクローン製造へと研究が進むと、子供の出来ない夫婦や老い先短い金持ちが自分のクローンを望むようになり、彼らが新しいスポンサーとなった。
けれども、コードや亡くなった父親が目指していたのは、飽くまで遺伝子操作を利用した治療技術の開発だった。
尤も、父親は亡くなり、費用の制約もあって医学生の頃に目指していたのとは程遠い実験を繰り返す毎日に忙殺され、初心を忘れかけていたが。

「…妖精の存在を、信じているか?」
暫くの沈黙の後、コードは言った。
オラクルは訳が分からずコードを見つめた。
「妖精っておとぎ話に出てくる……?あれは作り話で、妖精なんていないって言ったのはコードじゃないか」
「子供は大人たちにそう、言い聞かされて育つ。俺様の子供の頃も同じだ」
だが、と、コードは続けた。
「10年以上前、俺様は一度だけ妖精に会った事がある。その妖精の名がオラクルだった」
「……言ってる意味が判らないよ」
「奇跡は、そう何度も起きないという意味だ」
コードは改めてオラクルを見つめた。彼が目標としている治療技術の実験の中で、今のところオラクルは唯一の成功例だ。それが最後の成功例になるだろうとは思っていない。時間はかかっても、奇跡が奇跡でなくなる日は必ず来る筈だ。
だがそれまでは、とコードは思った。
それまでは、オラクルの存在が必要だ。
研究そのものの為にも、費用捻出の為にも。
「オリジナルと同じ名前をお前につけた訳ではない。奇跡が奇跡でなくなることを信じさせてくれる名だからつけたのだ」
「……他のクローンは……」
「あれはお前の代わりにしたかったからだ」
少年のクローンは元々、クォータの『注文』で造ったクローンの予備だった。培養の途中で死んでしまう例が多いので、同時に何体も培養を始めたのだ。

父親がエモーションのクローンを造った時、コードは彼の気持ちが理解できなかった。父親は妻の死を酷く悼んでいたのに、何故、彼女のクローンを造らなかったのか、と。
第二世代のオラクルを第一世代の身代わりとして育てた時、コードは父親の気持ちを理解した。
彼は妻を深く愛していたが故に、クローンを造ることが出来なかったのだ。
それでも彼は、何とかして喪失感を埋めたかったのだろう。

「愚かな事をした__後悔している」
コードは、オラクルの手に軽く触れた。
「誰もお前の代わりにはなれない。俺様に必要なのはお前だけだ」
何の為に?__喉まで出掛かった問いを、オラクルは噛み殺した。
誰かの身代わりに望まれるくらいなら、実験材料として必要とされるほうがマシだと思ったから。












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