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それは、奇妙な感情だった。
驚きは無く、意外に思うこともなかった。言ってみれば、それを『予期』していた。
互いに与えられるものは何もない。それなのに、一緒に暮らし続ける意味などどこにある……?
「オラトリオ……?」
名を呼ばれ、オラトリオは我に返った。
盲目のオラクルが、寝室の戸口に立っている。
「済まない。俺はこれから出かけなきゃならねぇから__」
「どうして?今日は仕事じゃないって言ってたのに」
オラトリオは明らかな落胆の色を表した相手に歩み寄り、宥めるように腕に触れた。
「…仕事って訳じゃないんだが、オラクルを探さねぇと……」
「探すって?私はここにいるよ」
「そうじゃ無くて__」
ここだよ、オラトリオ
不意に、亡くなった従兄弟の言葉が蘇る。
私は此処にいる
いつだったか見舞いに行った時に、オラクルの姿は病室になかった。
病院の中庭を探していると、オラトリオの気配に気づいたオラクルが声を掛けてきたのだった。
何で俺だって判るんだ?
足音とか匂いとか__とにかく、『気配』で判るよ
そう言って、オラクルは透明に微笑んだ。
まるで、春の木漏れ日のような微笑だった。
「__オラトリオ……?」
もう一度、名を呼ばれ、オラトリオは現実に引き戻された。
盲目のオラクルは、不安そうにしている。
今日は託児所に預けるわけにもいかないから、もう一人のオラクルを探しに行くなら少年はアパートに置いて行かなければならない。
それは、心苦しい。
それに、前の時にオラクルを探して街中駆けずり回ったのは、結局徒労でしかなかった。何より、前回の時とは事情が違う。例え探し出せたとしても、オラクルに戻って来る意志がなければそれを強要する事は出来ない……
「__今日は…お前と一緒にいるぜ」
気が付くと、オラトリオは盲目のオラクルにそう、言っていた。
「本当?ずっと一緒にいてくれるの?」
盲(めし)いた眼を輝かせ、嬉しそうに言った少年を、オラトリオは抱き寄せた。
午前中、オラトリオは盲目のオラクルと共にデパートに出かけ、盲目のオラクルの為に服や身の回り品などを買い揃えた。
「なあ…海に行ったことはあるか?」
デパートのレストランで食事しながら、オラトリオは盲目のオラクルに聞いた。
「うみ……って、何?」
半ばの好奇心と半ばの不安と共に聞き返した少年に、オラトリオは優しく微笑みかけた。
「口で説明するより、実際に行った方が良いだろうな__お前が行きたいなら、これから連れて行ってやるぜ?今日は、天気も良いし」
行ってみたいか?__オラトリオが問うと、少年は躊躇いも無く頷いた。
従兄弟のオラクルを海に連れて行った時、季節は冬だった。
今は、春。
いずれにしろ、海には人が殆どいない時季だ。
盲目のオラクルは水を怖がるでもなく、寄せては引き、引いては寄せる海の鼓動を楽しんでいるようだった。
オラトリオはオラクルの靴と靴下を脱がせ、素足で波打ち際を歩かせた。
その新鮮な感触を、盲目のオラクルは子供らしい感性で悦んだ。オラトリオも素足を海水で濡らし、久しぶりに開放感を味わった。
開放感__何からの?
それは、判らなかったが。
「オラクル……?」
やがて、オラトリオは相手の名を優しく呼んだ。
盲目のオラクルは立ち止まって振り向き、オラトリオが続けるのを待った。
「唄……聞かせてやろうか?」
従兄弟のオラクルは、オラトリオの唄を聞くのが好きだった。
「うん。歌って」
屈託無く笑い、少年は答えた。
オラトリオは相手に歩み寄り、その華奢な肩に腕を回して抱き寄せた。
そして、歌った__従兄弟のオラクルが亡くなる前に、想いを込めて歌った唄を。
夜行列車に乗り込むと、オラクルはすぐに寝台に横たわった。
酷くだるくて動く気になれない。
朝から何も口にしていないが、空腹は感じなかった。
コードが一等の切符を用意してくれていたので周りに他の乗客はおらず、静かだ。
お前が死んだ従兄弟に似てるとかどうとかいうのは関係ない
ただ……お前のことを、大切にしたい
「……嘘つき……」
低く、オラクルは呟いた。
あの盲目の少年とオラトリオは昨日の朝、初めて会った筈だ。それなのに、ずっと前から一緒に暮らしているかのように親しくしていた。
理由は一つしか考えられない__あの少年も、オラトリオの亡くなった従兄弟のクローンだという事。
死んだ従兄弟の身代わり__コードのその言葉を信じたくは無かった。けれども、盲目の少年に優しくするオラトリオを見ていると、否定は出来なくなる。
オラトリオが本当に大切に想っているのは亡くなった従兄弟。私でもあの子でも無い__そう思うと、オラクルは心臓を鷲みにされたような苦しさを覚えた。
オラトリオと共に過ごした日々は楽しかった。
ずっと一緒にいたかった。
けれども、それは叶わない。
「__オラトリオ……」
二度と呼ぶ事のないだろうその名を、オラクルはそっと囁いた。
盲目のオラクルを連れてアパートに戻った時、オラトリオはエモーションに電話するかどうか迷った。もしかしたら、オラクルがエモーションの所に行っているかも知れないと思ったからだ。
だが、オラトリオは電話しなかった。
もし、カシオペア家にいるならばそのままにしておく方が、オラクルの為になる気がしたから。
オラトリオが夕食の片づけを終え、シャワーを浴びて寝室に入ると、盲目のオラクルは既にベッドに横たわっていた。
昼の疲れが出て眠っているのかと思ったが、オラトリオの気配に気づくとすぐに眼を開け、微笑んだ。
「今日はすごく楽しかったよ」
「そいつは良かった。俺も楽しかったぜ?」
オラトリオが軽く相手の髪を撫でると、少年は躊躇いも無くオラトリオの身体に腕を回した。
「私…ここに来て良かったよ。ずっとここにいたいな」
「__ああ……。お前がそれを望むなら」
言ってから、オラトリオは後悔した。
盲目のオラクルがここにいる限り、もう一人のオラクルは戻って来はしないだろう。
或いは、いずれにしろ戻っては来ないかも知れない。
もう2週間もの間、オラクルは碌にオラトリオと口を利かなかった。
オラトリオはオラクルの苦しみに気づいてやれなかったし、オラクルはオラトリオを信頼していない……
そんな二人が、これ以上、一緒に暮らしてどうなる?
むしろ、お互いを不幸にするだけでは無いのか……?
「オラトリオ……?」
オラトリオに身体を摺り寄せ、盲目の少年は言った。
「ねえ……どうしてコードみたいにしてくれないの?」
相手の言葉に、オラトリオは嫉妬と憤りを同時に覚えた。
「コードが……お前に何をしていたって?」
「寝る前にね、いつも気持ちよくしてくれたの」
予想していた事とは言え、少年の口からはっきりとその事実を聞かされ、オラトリオは改めて感情が昂ぶるのを覚えた。
このオラクルは、まだ少年の身体でしかない。それ以上に、心は幼児と変わらないのだ。
何も知らない無垢な相手に快楽を教え、己の欲望を満たす為に利用する__余りに身勝手で酷い仕打ちだ。
けれども、憤りと同時に、そしてそれ以上に強く嫉妬を感じるのをどうにも出来ない。
昨日の朝、初めて会った相手だとは思えないほどに、強く深い愛情をオラクルに感じる。
オラクルもそれを望んでいるのなら、ずっと一緒にいたい。
手放したくは無い……
「ねえ……コードみたいにして……」
耳元で囁かれ、オラトリオは身体の芯が熱くなるのを覚えた。
誘われるままに唇を重ねると、オラクルは躊躇いも無くオラトリオの舌を受け入れ、自らのそれを絡めた。
「__オラクル……」
ベッドに相手の身体を沈め愛撫すると、オラクルは甘い吐息で応える。
オラトリオが我を忘れてオラクルに夢中になるまで、長くはかからなかった。
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