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我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく 
盲目的にプログラムされたロボットなのだ  
遺伝子は、マスター・プログラマーであり、自分が生き延びるためにプログラムを組む。  
個体というものは、その全遺伝子を、後の世代により多く伝えようとする。  
自然淘汰における中心的な役割を演じているのは、遺伝子と生物個体である 
 
Selfish Gene by Richard Dawkins 
 
 
 
 
  
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予想もしていなかった華やかな笑い声に、オラトリオはドアの前で脚を止めた。自分の住まいだというのに、こそ泥か何かのように中の様子を伺う。が、すぐにそんな自分の態度に嫌気が差し、ドアを開けた。 
「__あ、お帰り、オラトリオ」 
申し訳程度の狭いホールを抜ける間もなく、オラクルが言った。リビングには、オラクルの他に二人の女性がいた。二人ともオラトリオには初対面で、若く、美しい。 
「お邪魔しております」 
一人が優雅な笑顔と共に言い、もう一人は黙ったまま微笑して、オラトリオに会釈した。 
「いらっしゃい。ごゆっくり」 
社交辞令の求めるままに、オラトリオは言った。夜勤明けで疲れている時に、深く物は考えたくなかった。 
 
 
 
ベッドに倒れ込み、眼が醒めた時には夕方だった。 
ベッドの上で寝返りを打ち、時計を見遣る。夕飯の支度をしなければと思いながら、今日はオラクルが炊事当番だった事を思い出す。 
オラトリオは、オラクルとは極力”対等”な関係を築こうとしていた。保護者然とした態度で、オラクルの心を縛りたくは無かったのだ。 
それに、余りに無垢なオラクルに、少しは社交性も持たせてやりたかった。 
それでも、自分以外の誰かを好きになって良いとは思わなかったが。 
 
 
「ごめん。まだ晩御飯の支度、できてないんだ」 
オラトリオがシャワーを浴び、リビングに行くと、キッチンから顔をのぞかせて、オラクルが言った。 
「だったら外に食いに行こうぜ」 
申し訳なさそうにしているオラクルを宥めるように軽く笑って、オラトリオは言った。 
 
「エルとエララだよ。今日、来てたの」 
レストランに入り注文を終えると、オラクルは言った。 
「…絵画スクールで一緒なのか?」 
「エルとはね。エララはエモーションの妹で__あ、エルは本当はエモーションっていうんだけど」 
クラスが同じで、よく一緒にお喋りをするのだと、オラクルは言った。オラトリオは黙ったまま、ビールジョッキを傾けた。 
「この前、エルたちの家にお茶によばれたから、お返しにうちに呼んだんだ」 
嬉しそうに、オラクルは言った。 
その無垢さが、オラトリオの心の暗部を刺激する。 
「この前って、いつ出掛けたんだ?」 
「先先週の日曜。オラトリオは当直でいなかったから一人で行ったんだけど」 
言ってから、オラクルは急に不安そうに表情を曇らせた。 
「いけなかったかな、黙って出掛けたのは」 
コードには、勝手に外に出てはいけないと言われていたと、オラクルは続けた。クォータには、いつでもどこにでも、自由に出掛けて良いと言われていた、とも。 
「別に、出掛けるのも家に人を呼ぶのも自由だがな。ただ__」 
オラトリオはビールの残りを一気に飲み干した。 
「ひとこと、俺に言って欲しかったぜ」 
「……ごめん……」 
しょげ返ったオラクルの姿に、自分がどれほど不機嫌な顔をしているか判るようだと、オラトリオは思った。 
オラクルの意志を尊重したい。 
無垢さや立場の弱さに付け込む真似はしたくない__ 
今までそう想い、逸る想いを抑えてきたのだ。けれども、オラクルに誰か好きな人__自分以外に__ができる事など、とても耐えられなかった。少なくとも、そうなったら今までのように一緒に住んではいられない。 
そして、オラクルが一人では生きてゆけないのは判っている。学校教育を受けていなければ、出生証明すら無い。正式な職業に就くのも難しいし、誰かの保護を受けなければ、部屋を借りて住むのも無理だろう。 
「……オラトリオ…?」 
黙り込んでしまった相手の名を、オラクルは不安そうに呼んだ。 
どうしてオラトリオがこんなに不機嫌なのか、判らない。勝手な外出を禁じられてはいないし、買い物など自由に行って良いと言われている。 
だったら、エモーションたちを家に呼んだから? 
でもそれがどうしていけないのか判らない。二人とも、とても良い人たちなのに…… 
 
「食わねえのか?」 
やがて運ばれてきた料理に手をつけようとしないオラクルに、オラトリオは聞いた。 
「余りお腹がすいていないんだ__エルたちが持ってきてくれたケーキを食べたから」 
「それなら__」 
先にそう言えば良かっただろ__言いかけた言葉を、オラトリオは飲み込んだ。 
自分の心の狭さに、嫌悪を覚える。 
「…食える分だけ食えよ。残しても構わねえから」 
何とか笑顔を見せて優しく言うと、漸くオラクルは安心したらしく、微笑を返した。 
 
 
 
アパートに戻ると、オラトリオはそのまま自室に引きこもった。いつもならば、時間の許す限り、オラクルと一緒にいるのに。 
エモーションとエララ、二人の事を思い出す。二人は双子のようによく似ていて、とても可愛らしかった。それにおっとりと優しそうで…… 
オラクルが惹かれるのも当然だろう。 
オラトリオは気を紛らわせようと、読みかけの本を手に取った。 
が、内容が少しも頭に入らない。 
 
お前はオラクルの何だ? 
 
窓を見遣り、暗い硝子に移る己に自問する。 
 
友人? 
保護者? 
少なくとも、恋人では無い。 
 
オラトリオは溜息を吐いた。オラクルの感情を踏みにじりたくなくて、今まで抑えがたい気持ちを抑えて来た。オラクルが恋愛感情を理解できるようになれば、いつかは自分の想いに応えてくれるのだと、無意識の内に信じていた__何の根拠も無く。 
オラトリオはベッドサイドテーブルの上の写真立てを手に取った。従兄弟のオラクルの写真だ。オラクルと一緒に暮らすようになってから、従兄弟の写真はしまいこんだ。ただこの一枚だけを、枕辺に飾っている。 
従兄弟を海に連れ出した時の事を、オラトリオは思い出した。 
冬の海。時は夕刻。周囲(まわり)には、誰もいない。全てから隔絶されたような、全てから解放されたような、不思議な気分だった。 
不可思議な開放感。不可思議な孤独。哀しい迄の、人恋しさ__喩え思う事の、万分の一も伝えられないにしても… 
気付いた時には、従兄弟に唇を重ねていた。気付いた時には、すぐに罪悪感を覚えた。余りに無防備に頼ってくる従兄弟。その篤い信頼に、付け込んだかの様で。 
オラクルに厭われることを、オラトリオは恐れた。同性に対する恋愛感情など、誰にでも受け入れられるものでは無い。余計な事をしてしまったと、咄嗟に後悔した。 
けれども、オラクルは驚きも嫌がりもしなかった。ただ、もう一度、唄ってくれと言っただけで。 
 
オラクルの気持ちは、最期まで確かめられなかった。オラクルの死は、余りに早く、突然だったから。 
想いをはっきりと告げなかったことを、オラトリオは後悔した。 
口づけた時、オラクルは拒まなかった。オラクルも本当は自分の事が好きで、告白を待っていたのかも知れないとも思った。 
けれども同時に、何も言わなくて良かったのだし、言うべきでは無いとも思った。 
オラクルが拒まなかったのは、ただ単にオラトリオを傷つけない為で、それ以上では無い。或いは自分の死期が近い事を察し、全てを受け入れる積もりでいたのかも知れない。 
誰の、どんな想いでも。 
 
 
ノックの音に、オラトリオは現実に引き戻された。 
「オラトリオ…?」 
返事を待つ事も無くドアを開け、オラクルが躊躇いがちに声をかけた。オラトリオが軽く頷くと、オラクルは部屋に入ってきた。 
部屋には、オラトリオが座っているデスクチェアの他に、椅子は無い。それでオラクルは、ベッドの端に腰を降ろした。 
「昼間の事なんだけど…」 
「ああ__気にするな。俺は怒ってなんぞ、いねえから」 
嘘吐きめ__内心で自身に毒づきながら、オラトリオは笑顔で言った。 
「本当?じゃあ、またエルたちの家に遊びに行ったり、エルたちを家に呼んでも良いの?」 
「__ああ…勿論」 
嬉しそうなオラクルの表情に、オラトリオは言葉を濁した。 
オラクルは何か言いたげに唇を動かしたが、何も言わなかった。口を噤み、オラトリオを見つめる。 
オラトリオは視線を逸らした。 
オラクルが他の誰かと親しそうに話すのも、他の誰かに奇麗な微笑みを見せるのも、家に呼んだり呼ばれたりするのも気に入らない。 
他の誰かを好きになるなんて__赦せない。 
吐き気がする程の嫉妬。呆れる程の独占欲__そんな自分に嫌悪を覚えながら、荒ぶる気持ちをどうする事もできない。 
「…やっぱり怒ってるでしょ」 
半ば拗ねたようなオラクルの言葉に、オラトリオは改めて相手を見た。 
「俺はただ__お前が好きだから……」 
意味が分からず、オラクルはきょとんとした表情でオラトリオを見つめる。 
「お前が好きなんだ。誰よりも何よりも、お前が大切だ」 
「私も…オラトリオが好きだよ?」 
「エモーションやエララよりもか?」 
予想していなかった問いに、オラクルは躊躇った。それが、オラトリオの嫉妬を煽る。 
オラトリオはオラクルの隣に座を移し、間近に見つめた。 
「俺にとって、お前は特別な存在なんだ__判るな?」 
素直に、オラクルは頷いた。 
「お前は…俺が他の誰かとすごく親しくしていても平気か?他の誰かを、お前より大切にしても何とも思わないのか?」 
「それは__少し、厭かも知れない。でも__」 
頬に触れ、オラトリオは相手の言葉を遮った。 
「お前が好きなんだ、オラクル。愛している」 
驚いたように、オラクルの眼が見開かれる。衝動に駆られるまま引き寄せ、口づけると、オラクルの身体がぴくりと震えた。 
「__何…オラトリ__」 
離れようとしたオラクルの身体ををベッドに沈め、深い口づけで抗議の言葉を奪う。 
 
もう、止める事など出来なかった。 
 
 
 
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