(5)




「アスマさん、お帰りなさい」
「おう……ただいま」
その日、アスマは任務で帰りが遅くなり、帰宅したのはアカデミーで残業していたイルカより遅かった。
一人暮らしを侘しいとか味気ないとか思った事は無い。
だがそれでも、家に帰った時に灯りがついていて暖かくしてあって、迎えてくれる人がいるのは心地よい。
「済まねぇな。お前のこと、迎えに行ってやるって言ってたのにな」
「その事でしたら、もう心配して下さらなくても大丈夫ですよ」
それより飯はどうします?__イルカに問われ、今日は一日、携行食しか口にしていなかったのだと改めてアスマは思い出した。
不思議なもので、任務に就いている間は空腹や渇きは余り感じない。下忍たちの引率で行くDランク任務は別だが、緊張を強いられる任務では、空腹など感じている暇(いとま)も無いのだろう。
こうして住み慣れた家に戻り、好意を抱いている者の出迎えを受けると、自分が『忍』から『ただの男』に戻ったような気分になる。
「ちっと小腹が空いたな。茶漬けか何か、ありあわせの物で良いぜ?」
「済みません。俺も晩飯は外でだったんで、飯、炊いてないんですよ。うどんで良ければすぐに作りますけど?」
「何でも良いぜ」
お前の作ってくれるものだったら__その言葉を、アスマは内心で密かに呟いた。

「カカシの野郎、あの後、お前にちょっかい出したりしてねぇだろうな?」
イルカの作ったうどん__有り合わせの野菜などを入れたそれは、うどんと言うよりすいとんのようだった__を食べ終わると、アスマは訊いた。
「その事なら、もう大丈夫ですよ。だから俺、明日にでも自分の家に戻ろうと思うんですけど」
アスマの湯飲みにお茶を注ぎながら、イルカが言った。
「…大丈夫だなんて、どうしてそんな事が言える?」
「もう、あんな事はしないって、約束してくれたんです」
屈託無く笑って言うイルカに、アスマは幽かな苛立ちを覚えた。
「あんな胡散臭い野郎の言葉を信じる気か?」
「確かに胡散臭いですけどね。何を考えているんだか判らなくて…」
熱いお茶を啜りながら、アスマは軽く眉を上げた。
「カカシ先生って、やる事為すこと予想外で、本心がどこにあるんだか判らなくて、ちょっと苛々するんですけど…」
「…けど?」
「けどやっぱり、悪い人には思えないんですよ」
イルカの言葉に、アスマは大げさに溜息を吐いて見せた。
「お前はつくづく甘いな。だからいつまでたっても中忍なんだ」
「その台詞、他の奴に言われたら腹立ちますけど、アスマさんに言われると不思議と何とも無いです」
笑顔で言い返され、アスマは返答に詰まった。

どうしてこんなに、自分はイルカに弱いのか。
惚れた弱みに他ならないのだが、それを認めてしまうのは何となく、口惜しい。

「…カカシの事はともかく、その…ずっと家で暮らさねえか?」
「ずっと…ですか?」
「…俺の家は部屋も余ってるし。だから何だ、お前も家賃とか払わねぇで済むだろ」
「俺って、そんなに生活に困ってるように見えますか?」
何とかさりげなく話を進めようとしているアスマを正面からまっすぐに見つめ、イルカは訊いた。
「そういう訳でもねぇが…だがお前、借金返してるんだろ?」
両親を一度に失った後、イルカは孤児や寡婦の為の基金から生活費を借金し、アカデミー教師になってからそれを毎月、返済している。
尤も、実際にはその必要は無かった。
イルカの両親も火影の隠密だったので__と言うより、海野家は代々、火影直属の隠密だ__特別手当を火影から得ていた。彼らは自分たちに何かあった時の為にその金を蓄えておいたので、両親を喪ったイルカが経済的に困窮することは無かった。
けれども、隠密であることも特別手当も極秘事項だ。
だからイルカは敢えて基金から金を借りたし、それは火影の助言の結果でもあった。
「お心遣いは有難いんですけど、俺、一人でも大丈夫ですから」
「…俺は別にそういう意味で言ったんじゃ……」
「アスマさん、俺なんかにいつも良くして頂いて、本当に感謝しています」
改めてアスマをまっすぐに見つめ、イルカは言った。
感謝だけか__心中で溜息を吐きながら、アスマはそれを隠した。
「別に恩着せがましい真似をする積りは無かったんだ。気を悪くするなよ?」
「勿論ですよ。俺、アスマさんの事、好きですから」
満面の笑顔で言われ、これ以上、惨めな気持ちにさせてくれるなと、内心でアスマは呟いた。








異郷の路に夜の帳が降り、
脚は傷つき、心は萎える
静かなる祝福のごと
甘美な月は辺りを照らす

甘美なる月よ
汝の光で、闇の恐怖を追い払ってくれ
我が苦悩は消え去り
我が瞳は涙に濡れる



眼が冴えて眠れない。
ベッドの上で寝返りを打ち、カカシはぼんやりと、昔聞かされた異国の詩を思い出していた。
カカシにこの詩を教えた男は暗部の先輩で、親友で、そして…多分、恋人だった。
彼が逝ってから、どれだけの歳月が過ぎたのだろう?
彼を喪ってから、月日を数えることなど止めてしまった。
過去を振り返ることも、未来を想う事も。
カーテンの隙間から、月明かりが煌々と射し込む。
陽光とは違い、冷たく静かな光だ。
もう一度、カカシは寝返りを打った。
眠れないのは月の光が明るすぎるせい。今日、言い渡された任務のせいでは無い。
久しぶりのSランク任務。
多分、これで死ねる__望みどおりに。

脚は傷つき、心は萎える
噴出す血は冷たく、死臭が身体に纏わりつく
見渡す野は屍で埋め尽くされ
身を切る風が、髪を嬲る

「寒い……」
カカシの唇から、短い言葉が零れた。
もうじき望みが叶うというのに、この虚しさは何なのだろう?

我が苦悩は消え去り
我が瞳は涙に濡れる

どうして、苦悩が消え去ったのに、涙を流すんだ?__オビトの腕の温もりに身を委ねながら尋ねた少年の日を思い出す。
『安心して、嬉しいからじゃないのかな。苦悩が去ったのが嬉しいんじゃ無くて、月の美しさを感じることが出来て、嬉しかった』
『…あんた、ロマンチストだな__暗部の癖に』
生意気盛りの少年の言葉に、年上の恋人は軽く笑った。
『良いじゃないか。暗部でも忍でも、人であることに変わりはない』
『そんな甘い事、言ってると……』
その後に続く不吉な言葉をカカシは呑み込んだ。
そして、不吉な予言は数ヶ月も経たぬうちに実現してしまった。

甘美なる月よ
汝の光で、闇の恐怖を追い払ってくれ

不意に、イルカの笑顔が脳裏に浮かぶ。

甘美なる月よ…





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