(1)




「イルカ先生」
一人、資料室で仕事をしていたイルカは、突然名を呼ばれ、驚いて振り向いた。
「…カカシ先生?いつの間に……」
「つい、今しがたですよ」
銀色の髪をした猫背の男は、そう言ってへらりと笑った。
が、イルカの緊張は解けなかった。さすが上忍と言うべきか、物音も気配も何も感じなかった。
「何かご用でしょうか?」
「精が出ますね。他の先生方は皆、帰りましたよ」
質問に答える代わりに言って、カカシは笑った。
だが、その表情がいつになく険しいのに、イルカは気づいていた。
「俺ももう、帰ろうと思っていたところです」
「お仕事は終わったんですか?」
「ええ」
「だったら、ちょうど良い」

言って、カカシはすっとイルカに近づいた。
しなやかな猫のような動作で、足音も立てずに。

「教えてくれませんか。アナタ、アスマとどういう関係なんです?」
「どういうって…」
「昨夜、アスマの家に泊まりましたよね?」
何故それを知っているのだろう__そう思うと、イルカは底気味の悪い何かを感じた。
「泊めて頂きましたけど、それが何か__」
「アナタ、アスマの事が好きなんですか?」

余りに唐突な質問に、イルカはすぐには何と答えるべきか判らなかった。
が、答えをはぐらかす余裕はなさそうだ。
カカシの片方だけの瞳が、いつになく冷たい光を宿してこちらを見据えている。

ならば、答えるしかない。

「……好きですよ。でもそれはあなたが思っているような__」
不意に口づけで言葉を遮られ、イルカはそのまま床の上に押し倒された。
「カカシ先生、何を__」
抗議の言葉は再び口づけで封じられ、両手首を掴まれて身体の自由を奪われる。
抵抗しようと精一杯もがいたが、相手はびくともせずこちらの動きを封じている。
これが上忍と中忍の実力の差か?__思う端から恐怖が込み上げ、冷や汗が背筋を伝って落ちる。
「ねえ…俺はアンタが好きなんですよ。何度もそう、言ったでしょう?」
「……」
「でもアンタが好きなのはアスマだ。だったら、何で俺に近づいたんです?」
「…俺はただ…ナルトたちの様子が聞きたくて……」
それが口実だった。カカシも、その口実を疑っているようには見えなかった。

だったら?
気づかれたのか?
それとも……

「ナルトたちの担当上忍__それだけですか?俺自身はどうでも良かったと?」
「…それは…」

どう答えるべきか、イルカは迷った。もしもこちらの真意を見抜かれているなら、何と答えても同じだろう。
だが、そうで無ければ?
そうでなければ、このまま任務を続けるしか無い。

「……あなた自身にも関心はありました。里の誇る天才上忍ですし。でも、それは__」
「『ナルトたちの担当上忍』ではなく、俺に興味があったんですね?」
「そうです。でも、さっきから言っているように、それは……」

途中で、イルカは言葉を切った。
カカシが片方だけの瞳で、酷く哀しそうにこちらを見つめているから。
口布を引き下げ露になった端正な顔はむしろ能面のように無表情なのに、澄んだ藍色の瞳が、今にも泣き出しそうにこちらを見つめている。
哀しげと言うだけでなく、戸惑っているような、理不尽さに憤っているような。

まるで、棄てられた仔犬のような瞳。

「俺は__もう一度だけ言いますけど__アナタが好きです」
アナタは俺が嫌いですか?__間近に見つめられて問いかけられ、イルカは答えに窮した。

嫌いだと言えば、カカシは心を閉ざしてしまうだろう。
好きだと言えば、無用な期待を抱かせることになる。
だがそれが、任務の為に必要なら……

黙り込んでしまったイルカに、カカシは焦れたように唇を重ねた。
触れるだけでなく、強く吸い、舌を絡め。
片手でイルカの両手首を押さえながら、もう一方の手でイルカの身体を弄る。

こいつ、本気だ……!

思った途端、イルカの身体に戦慄が走った。
「……っ……!」
唇を噛み切られ、カカシは思わず手の力を緩めた。
その隙に、イルカは相手を振り払う。
飛び起きるようにして身体を起こし、戸口に向かって走る。
が、数歩も行かぬうちに背後から羽交い絞めにされた。
「動かないで」
首筋にクナイの冷たい刃を感じ、イルカは動きを止めた。
「アナタに怪我をさせたくはありません。だから、大人しくしていて下さい」
気味の悪い冷や汗が背筋を伝って落ちるのを、イルカはもう一度、感じた。
喉許に突きつけられたクナイがすっと左腕の方に移動し、幽かな音を立てて袖を切り裂く。
「……やっぱり…」

気づかれた……

「アンタ、暗部の出身なんだね……?」







「イルカ?急にどうしたってんだ?」
突然、訪ねて来たイルカに、アスマは驚きながら相手を迎え入れた。
イルカの呼吸は荒く、ここまで全力で走って来たのが伺われる。
「その腕はどうした。怪我したのか?」
イルカの左腕に巻かれたサラシに、アスマは眉を顰めた。
「…いいえ……袖を切られただけで、怪我は……」
「まさか、カカシの野郎に何かされたのか!?」
怒気を含んだ声でアスマは聞いた。そして、答えに詰まっているイルカを強く抱きしめる。
「あの野郎…ぶっ殺す」
「待ってください、アスマさん。俺、何も…されてませんから……」
アスマはイルカの両肩を掴み、改めて相手を見た。
「何かされそうになって、俺のところに逃げてきたんだろ?」
イルカは俯いた。
「…事を荒立てたく無いんです。こんな事、きっともう無いと思いますから__」
「どうしてそんな風に言い切れる?」
苛立たしげにアスマに問われ、イルカは再び口篭った。
カカシの目的は、服を脱がせて暗部の刺青を確認する事だったのだ。だが、自分が暗部にいた事はアスマにも隠してある。
暗部にいた事自体は秘密という訳でも無い。が、中忍の自分が暗部にいた事をアスマに知られ、理由を詮索されたくは無い。

下手をすれば、本当の身分が露呈してしまうかも知れない。
それだけは絶対に避けなければならない__喩え相手が、三代目火影の血族であっても。

「……心配して下さるお気持ちは有難いのですが、こんな事、表沙汰にしたくありません」
「俺に任せろ。表沙汰にするまでも無く、カタを付けてやる」
「無茶なこと、言わないで下さい…!あなた方二人が本気で争えば、二人とも無事ではいられません」
不安そうな表情でイルカに言われ、アスマは内心、歯噛みした。
毎日のようにイルカに言い寄るカカシに嫉妬し、カカシを牽制しようとイルカを自分の家に泊まらせた__カカシがイルカの跡を尾けて来るのを承知の上で。
アスマの行動はカカシを牽制するどころか却って嫉妬を煽っただけだった。
イルカを危険な目に遭わせた責任の一端は自分にもある。

それが、酷く口惜しい。

「今夜からはずっと家に泊まれ。帰りが遅くなる時は俺がアカデミーに迎えに行く」
「それは…少し大げさ過ぎませんか?」
「鬼に追いかけられたみたいな顔して逃げてきたくせに何を言う。大体、お前は隙がありすぎる」
「……どうせ俺は平和ボケの万年中忍ですよ」
拗ねたようにぷい、と横を向いたイルカの顎に手を添え、アスマは相手に自分を見させた。
「昨日も言ったが、カカシの野郎には気をつけろ。ヤツは、危険だ」
「…それは…?」
「長いこと里を離れてて、何を考えてるんだか判らん得体の知れねぇ奴だ。それに__」
途中で、アスマは言葉を切った。そして、「まあ、良い」と呟く。
「何なんですか?カカシ先生の事で何か…」
「お前は知らなくても良い事だ。あの野郎が危険だってのは、身をもって判っただろうからな」
「何かご存知なら教えてください。言いかけて途中で止めるなんてずるいですよ?」
黒曜石の瞳でまっすぐに見つめられて問い質され、アスマは内心で溜息を吐いた。

つくづく自分はイルカに甘いと思う。
が、こればかりはどうしようもない。12年前に惚れ込み、その想いは消えるどころか強まるばかりなのだから。

「誰にも口外するなよ?」
前置きして、アスマは言った。
「カカシは、抜け忍の子だ」






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