紅 葉 狩

(1)



燭台を手に、サスケはそっと部屋の扉を開けた。
木造の重い扉が幽かに軋る。
窓の無いその部屋には、薬の匂いが満ちていた。
薬と、血の匂い。
喀血したのは三日前だったし、血は綺麗に拭った筈だ。
それでも、血の匂いは消えていない。
不安気に幽かに眉を顰め、サスケは寝台に歩み寄った。
そして、そこに横たわる者の姿をつぶさに見つめる。
艶やかな黒髪が波打つように白いシーツの上に広がり、蝋燭の灯りがもたらす陰影は、端正な顔立ちを一層、際立たせている。
血を吐いてはいない事、まだ息をしている事を確かめて、サスケは漸く安堵の溜息を漏らした。
燭台と薬を小卓に載せ、シーツの上に広がる黒髪を見つめる。
それから、口を開いた。
「薬の時間だ――兄貴」

反応は無かったが、サスケはもとよりそれを期待してはいなかった。
うちはのアジトでの戦いから五日。
イタチは、ずっと意識の無いままだ。
サスケは寝台の端に腰を降ろしてイタチの背の下に腕を差し入れ、半身を抱き起こした。
薬と血の臭いが、一層、強くなる。
「…イタチ……?」
兄の唇が幽かに動いたような気がして、サスケは相手の名を呼んだ。
幾分かの期待を込めて、ふっくらとした形の良い唇が動くのを、長い睫に縁取られた瞼が開くのを待った。
が、揺らぐのはただ、蝋燭の灯りだけ。

サスケは吐きそうになった溜息を噛み殺し、薬の入った瓶に手を伸ばした。
僅かにとろみのある液体をスプーンに取り、イタチの唇の間に滑り込ませる。
流し込んだ水薬は、そのまま白い顎を伝って流れた。
サスケはすぐにイタチの口元を拭ってやり、根気良く同じ動作を続けた。
「苦い薬だけど、少しでも飲まないと……」
頑是無い子供に言い聞かせるように囁いて、サスケは同じ事を繰り返した。
殆ど零れてしまうにしても、何度も繰り返せば必要なだけの薬を飲ませられる筈だ。

「まだそんな事をやっているのか」
完全には閉めなかった扉の向こうから、そう、声をかけたのはマダラだった。
無遠慮に扉を軋ませて開け、部屋に足を踏み入れる。
「いつまでもそんな無意味な事を続けていないで、とっとと眼を移殖してしまったらどう――」
「無意味なんかじゃ無い」
マダラの言葉を遮って、サスケは言った。
「喀血も収まって来ているし、少しずつだが、怪我も治ってきている」
「…血を吐くだけの力が無くなっただけだろう」
「それよりちゃんと医療忍の手配はしているのか?八尾捕獲と引き換えの約束だ」
マダラは大袈裟に肩を竦め、それから「判っている」と言った。
そして腕を組み、壁に身を凭れさせて口を開いた。
「それが、お前の復讐か?」
「……何?」
「たとえ生き永らえた所で、イタチは完全に失明している。うちはの忍としての力を取り戻す事など不可能だろう。それが誇り高いイタチに取って何を意味するか、判らない訳ではあるまい」
マダラの言葉に、サスケは相手を睨んだ。
それとも、と、マダラは続けた。
「超える事の出来なかった兄に惨めな姿を晒させる事で、優越感にでも浸りたいのか?」
「…黙れ…」

低く、サスケは言った。
ピリッとした殺気が、部屋を満たす。

「俺はうちは一族を滅亡に追い込んだ木の葉の上層部を叩き潰し、イタチを――兄貴を俺達の家に連れて帰る」
必ず――と、サスケは付け加えた。
その言葉に、マダラは面の下でくぐもった嗤い声を上げた。
「それで良い」
言って、マダラは組んでいた腕を下ろした。
「雲隠れの里に大層、腕利きな医療忍のいる事が判った。八尾捕獲のついでに拉致して来い」
「それじゃ、約束が――」
「イタチを、木の葉に連れて帰るんじゃないのか?」
サスケの抗議を遮って、マダラは言った。
「生きたまま連れて帰りたいのなら、急ぐことだな。その医療忍の所在や情報は、これにまとめてある」
マダラは懐から、四つに折りたたんだ紙切れを取り出した。
サスケはそれを、ひったくる様にして受け取る。
「明日、早朝に発て。そして八尾の人柱力を生け捕りにして来い」
「判ってる」
マダラは不機嫌そうに答えたサスケを見、昏睡状態でサスケの肩に凭れかかるイタチを見、それからまたサスケを見た。
うちは一族の中でも最も純粋な、言い換えれば濃い血を引く兄弟だけあって、その面差しはとてもよく似ている。
だがその二人が見る者に与える印象は、不思議なほどに違っていた。
全てを賭けて平和を守ろうとしたイタチと、半生を復讐に生きるサスケとでは、異なっていて当然かも知れないが。
まだ何か言いだげな素振りを示しながら、マダラは黙って踵を返した。

マダラが出て言った後、サスケはイタチの身体を寝台にそっと横たえた。
蝋燭の揺らぐ灯りに照らされた肌は陶器のように滑らかで、シーツに広がる黒髪は絹を思わせるようにしなやかだ。
そのしなやかさに惹かれるように、サスケは兄の髪に指を絡めた。
しなやかな黒髪は、抵抗も無くするりと指の間を通り抜け、僅かに波打って広がる。
「髪……随分、伸びたんだな」
昔を思い出すように幽かに眼を細めて、サスケは言った。
幸福だった頃の記憶が蘇ったのか、サスケの口元に笑みが浮かんだ。
が、すぐにそれは消える。
「……一緒にいたのが八年、離れていたのが八年。俺は……」
もっと、あんたと話がしたい――殆ど囁くように、サスケは言った。
そして、もう一度、兄の髪に指を絡めた。
「もっと修行もみて欲しい。話したいことも、訊きたい事も沢山ある。一緒に行きたい所も、見せたい物も数え切れない位にある。だから……」
声が幽かに震え、サスケは固く眼を閉じた。
震える指先から、しなやかな黒髪が逃れるように零れ落ちる。

眼を開け、サスケは改めてイタチを見つめた。
滑らかな肌は透けるように蒼白く、触れれば消えてしまいそうに儚い。
薄闇は肌の白さを際立たせ、完璧なまでの美貌と相まって、生きた人間のような気がしない。
サスケは躊躇いがちに、イタチの頬に手を伸ばした。
が、そのまま触れる事無く手を引き込める。

「……俺は…あんたが妬ましかった。誰よりも優秀で全ての面で秀でていて…俺がどんなに努力しても、足元にも及ばなくて……」
だけど、と、サスケは続けた。
「だけど俺は……あんたの事を妬んでたし、あんたさえいなけりゃ、父さんだって俺を認めてくれたって思ってたし、あの事件の後は、本当に殺したいくらいに憎んでいたけど、それでも俺は……」
咽喉を締め付けられるような息苦しさに、サスケは途中で言葉を切った。
そして、改めて兄を見つめる。
ぴくりとも動かず薄闇の中に横たわるその姿は、精巧に出来た美しい人形のようだ。

緩やかな弧を描く眉。
絹糸のような長い睫。
すっと鼻筋の通った鼻。
幾分かふっくらとした、形の良い唇。

八年前に生き別れたとは言え、一緒に生まれ育った兄弟だ。
それなのに兄の顔をまじまじと見るのは、初めてのような気がする。
これ程までに美しかったのだと、改めて気づいた。
その美貌に惹かれるように、サスケはもう一度、兄に手を伸ばした。
躊躇いながらもそっと頬に触れると、その滑らかな感触に、ざわりと背筋が粟立つ。
眼を覚ますのを期待しながら、ずっとこのまま兄を見つめていたいとも思う。
その矛盾する感覚が、サスケを落ち着かなくさせた。
そしてそのざわめきは、何故か、甘い。

言い様の無い衝動に突き動かされ、サスケは横たわるイタチのすぐ隣に手を付いた。
ギシリと、古い寝台が軋る。
サスケはそのままイタチに覆いかぶさるようにして、ゆっくりと上体を屈める。
間近に兄を見つめ、それから眼を閉じた。

そして……







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