慎重に、オラトリオは<ORACLE>の周縁を走査(スキャン)した。侵入者は、通常のウイルスに紛れて、ステルスタイプのウイルスも潜入させていたのだ。ステルス型のウイルスは、通常の検出プログラムには引っかからない。侵入者の側から見れば、他ならぬオラトリオもステルス型だ。
――異常なし
確認が済むと、オラトリオは<ORACLE>に戻った。いつもよりてこずったせいか、疲労を覚える。
「たでーま__と、オラクル?」
オラクルがカウンターの中に蹲っているのを見、オラトリオは戦慄が身体を駆け抜けるのを感じた。彼はカウンターに走り寄ると、身軽にそれを飛び越え、オラクルを抱きかかえた。
「オラクル、大丈夫か!?」
「__ああ…。大丈夫だ」
ざわりとノイズを揺るがせて、オラクルは顔を上げた。息のかかる程、間近に守護者を見つめ、それから身を凭せ掛ける。
「おい、どうしたんだ!ウイルスか?」
常に無いオラクルの様子に、オラトリオは急いで相棒のプログラムをチェックした。それと並行して、<ORACLE>内部を走査する。
 異常は、無い。

「…怖い…」
もう一度、どうしたのかと尋ねようとしたオラトリオの耳元で、オラクルは言った。身体が、震えている。
「ウイルスどもは奇麗さっぱり灼いちまったぜ?もう、怖がる事なんか何もねえんだぞ」
オラクルの肩を抱き、宥めるようにオラトリオは言った。オラクルが侵入者を酷く恐れるのはいつもの事だが、その脅威が去ってまで動揺し続けるのは初めてだ。
「もう暫く…」
聞こえるか聞こえないかの声でオラクルが言った。アイボリーのコートの袖を、ぎゅっと掴む。
「ああ。気が済むまでこうしててやる。だから安心しろ」
優しく言って、オラトリオは子供でもあやす様に、雑色の髪を撫でた。
――どうしちまったんだ…?
こんな風に怯えるのも、オラトリオに縋ろうとするのも、いつものオラクルらしく無かった。いつもならオラクルは、どれほど酷い恐怖に晒されても、独りで耐えようとする。オラトリオに、「余計な」負担をかけない為だ。それをコードから聞いた時__オラクルはオラトリオに直接、その事を話そうとはしなかった__オラトリオは幾分か、不機嫌になったものだった。
 確かに、初めの頃は自分の責務を重圧に感じた事もあった。オラクルをお荷物だと思いさえした。
 重圧が誇りに変わってからは、オラクルに信頼されるのが何より嬉しい。だから、もっと頼って欲しい。変に気など遣わず、甘えて欲しい…

 そんな事を、オラトリオは無論、口にしなかった。態度にも出さない。彼ら二人は仕事上の相棒であって、それぞれ果たすべき役割がある。彼のオラクルに対する気持ちが、いつのまにか好意以上のものになっていても、公私混同は赦されない。何より、オラクルがそれを認めないだろう。

 オラトリオは、視線をあらぬかたに漂わせた。オラクルはオラトリオの肩に頭を乗せるようにして縋り付いているので、そうでもしないとオラクルの項から肩にかけて、オラトリオの視線に晒される事になる。オラクルの柔らかい温もりは、初めオラトリオに優しい気持ちを、次いで奇妙な落着かなさをもたらした。
「…大丈夫…か?」
黙っているのが何となく、気詰まりで、オラトリオは言った。不自然に逸らしていた視線を戻すと、真っ白できめ細やかな肌が眼に入る。CGだから奇麗なだけだと言ってしまえばそれまでだが、ほっそりした首から肩にかけての華奢な姿が眼を奪う。視線を逸らしても、癖のないしなやかな雑色の髪が、オラトリオの顎を優しく擽る。
「…なあ、本当に大丈夫か?」
重ねてオラトリオが問うと、オラクルは幽かに頷いた。
「お前に抱きしめられていると、安心できる…」
俺は落着かなくなって来たぜ__そんな事を、言える筈は無い。頼って来るオラクルを無碍に拒む事など、更に出来ない。
「…オラク__」
「エモーションだ」
信号を感知し、オラクルがついと離れた。そして、来客を迎える為にカウンターを出る。
「ウイルスのいる時でなくて良かったね」
オラトリオを振り向き、オラクルは軽く微笑った。

「いらっしゃい、エモーション」
「ごきげんよう、オラクル様、オラトリオ様」
優雅に挨拶したエモーションは、小箱をオラクルに手渡した。
「お望みのもの、持ってまいりましたわ」
「ありがとう。今、お茶をいれるよ」
エモーションは、オラトリオをちらりと見遣った。
「残念ですけれどオラクル様、これから行かなければならない所がございまして」
お茶は次の機会に、とエモーションは続けた。そして二言三言、オラクルと言葉を交わしてから、来た時と同じように優雅に挨拶し、<ORACLE>を立ち去った。
「何なんだ、それ?」
「ケーキだよ。エモーションに焼いて貰ったんだ。お茶にしよう」
微笑んで、オラクルは言った。

 オラトリオがソファで寛いでいると、程なくオラクルが銀のトレイを手に戻ってきた。CGを構築するのにこうやって"余計な"手間を掛けるのは、リアルとヴァーチャルを行き来するオラトリオの精神的負担を減らす為だ。オラクルが現実空間を理解する為でもある。いずれにしろ、オラクルはそれを結構、愉しんでいる。
 エモーションが持ってきたのは、シンプルなパウンドケーキだった。オラトリオは幾分か、意外に思った。オラクルが好むのは、フルーツタルトの様に見た目の綺麗なケーキだからだ。
「ドライフルーツ入りのと、ブランデーで香り付けしたのと、どっちが良い?両方にする?」
両方とも余り甘くないようにして貰ったんだ__オラクルの言うのを聞いて、オラトリオは気づいた。これは、彼の為のものなのだ。
「折角だから、両方いただくぜ」
オラクルは微笑して頷き、ティーカップとお揃いのケーキ皿に、エモーションの土産を切り分けた。そして、ポットから紅茶を注ぐ。
 オラクルの言葉通り、どちらも甘さ控えめで、甘いものが苦手なオラトリオにも美味しく感じられる。
「美味しい?」
そう、オラクルは聞いた。ほっそりした手を重ね、その上に白い顎を乗せて、オラトリオを見つめている。
「ああ。両方ともいけるぜ」
「お前が気に入ってくれて良かった。レシピも貰ったから、今度、私が焼いてあげるよ」
嬉しそうに、オラクルは言った。
「…何か、今日のお前って…」
「__え?」
「何でも無えぜ。気にするな」
可愛いよな__言いかけた言葉を紅茶と共に飲み込んで、オラトリオは視線をそらした。

 お茶が済むと、オラトリオは灼き払ったウイルスから集めたデータをオラクルに渡した。戦うのはオラトリオの役目だが、解析はオラクルの仕事だ。無論、オラトリオもサポートはするが。
「ステルス型ウイルスを捕捉するプログラムが出来ても、その端からそいつでは捕捉できねえ新タイプが造られる…まあ、いたちごっこってやつだな」
オラクルが答えないので、オラトリオは相手を見た。オラクルは幾分か俯き加減に、じっと解析ウインドウを見つめている。白い頬が蒼ざめ、手を強く握り締めて。
「どうした、オラクル?」
「…すまない。何でもない」
オラクルの手に、オラトリオは自分のそれを重ねた。
「これはただのデータだ。ウイルスそのものじゃ無え。お前に危害を加える事も無い」
「そうじゃ無いんだ。私はただ…」
言って、オラクルは軽くため息を吐いた。そして、困惑したような表情で、幽かに笑った。
「私が安全なのは、お前が護ってくれるからだ。お前を危険に晒して護られているから…」
「それが俺の仕事だぜ?」
オラトリオはオラクルの手を取り、引き寄せた。そして、まっすぐにオラクルを見つめる。
「俺は自分の仕事に誇りを持ってる。俺は俺の仕事、お前はお前の仕事をする。それが俺達<ORACLE>の姿だ__だろ?」
「…判っているよ、勿論」
「だったら?」
オラクルは一旦、オラトリオを見た。が、すぐに視線を落とした。黙って、オラトリオの手を見つめる。
「俺が危険に晒されたとしても、それはお前のせいなんかじゃ無いぜ。お前が気に病む事でもない」
「それでも__判ってるけど__心配なんだ…」
最後の言葉は、殆ど聞こえない位だった。
「…お前をそんなに不安がらせる程、俺は頼りねえのか?」
「違う!私はただ、お前が好きだから__」
途中で、オラクルは言葉を切った。オラトリオの手を振り払い、席を立つ。
「…オラクル」
歩み去ろうとしたオラクルの腕を、オラトリオは軽く掴んだ。もう一度、オラクルはその手を振り払う。
「嫌いだ、お前なんか。いつも無茶ばかりして、私を心配させて。危ない事も辛い事も、自分一人だけで背負い込もうとして。私の…気持ちなんか少しも知らないで…」
雑色の瞳が、幽かに潤む。
「オラク__」
オラトリオの言葉を振り切るように、オラクルはCG(すがた)を消し去った。



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