「ねえ、エル。人間にはおとうさんってひとと、おかあさんってひとがいるんだよね?」
少年の質問に、少女は微苦笑して頷いた。
「ええ…そうですわね。人間には」
「じゃあ、エルには?エルには『おとうさん』や『おかあさん』がいるの?」
少年はちょうど好奇心旺盛な年頃だ。見聞きした事、何にでも興味を示す。
「私はカシオペアのおばあ様に造られましたから、おばあ様がお母様なのだと言って良いでしょうね」
「『おばあ様』と『お母様』って同じひとなの?」
無邪気な質問に、思わず笑みが漏れる。
「いいえ。おばあ様はお母様のお母様ですわ。だから別の人です__人間であれば」
これ以上、この話を続けたくない__そう、内心で思いながら少女が話題を逸らさなかったのは、それが避けて通れない事だと判っているから。

「よく判らないけど…でもエルにはお母さんがいるんだよね?だったら僕には?」
期待に瞳を輝かせて、少年は言った。自分が人間で無い事は判っている。いつも遊びに来てくれるエルやコードと同じ、プログラムだ。同じプログラムであるエルに『お母さん』がいるなら、自分にもそう呼べるひとがいる筈__
少女は、少年を見つめた。
金色の髪と、雑色の瞳。
不意に胸の奥が熱くなるのを覚え、少女は少年を抱きしめた。
「どうしたの?僕には…お父さんもお母さんもいないの…?」
「いいえ…とても素敵なお父様と優しいお母様が…」
それ以上、少女は続けられなかった。けれども、いつかは話さなければならない。少年はまだとても幼い。今、話すのは早すぎるかも知れない。
それでも、このまま誤魔化す訳にはいかない。そんな事は、したくない。
「__これから私がお話することを、よく聞いて下さいね」
暫くして、気持ちが落ち着くと、少女は言った。












「お帰り、オラトリオ」
「パパ〜、お帰んなさい」
ちょこちょこと駆け寄って来る『息子』を抱き上げ、オラトリオはオラクルに軽くキスした。
「ただいま、オラクル、ちびすけ。__ちびすけ、良い子にしてたか?」
「うん。良い子にしてた」
「オラトリオ…この子には名前があるんだから、ちゃんと名前で呼んであげてって、いつも言ってるのに」
オラクルの言葉に、オラトリオは軽く肩を竦めた。
「そう、言われてもな。自分と同じ名前ってのは、やっぱ呼びづれぇぜ」
オラトリオとオラクル、二人の間に5年前に生まれた子は、オラトリオと名づけられていた。それが一番、好きで一番、大切な人の名だからとオラクルに主張され、オラトリオは反対しきれなかったのだ。
仕方ないとばかりに軽く首を振って、オラクルは言った。
「お茶をいれて来るよ。オラトリオは何、飲みたい?」
「いつもので良いぜ」
「お前じゃなくて、小さい方のオラトリオ」
「えっとね、オレンジジュース♪」
優しく頷いて、オラクルは踵を返した。
「…やっぱ紛らわしいよな」
「パパはパパなんだから、ママもパパの事、パパって呼べば良いのに」
オラトリオの腕の中で相手を見上げ、小さいオラトリオは言った。
「俺はお前のパパであって、ママのパパじゃねーの」
「じゃあ、パパはママの何なの?」
小首を傾げ、小さいオラトリオは聞いた。こういう仕種はオラクルそっくりだと、オラトリオはいつも思う。そしてその度に、小さいオラトリオへの愛おしさがこみ上げるのを感じるのだった。
無論、オラクルへの愛も。
「パパはな、ママの恋人だ」
幾分か声を潜め、秘密でも打ち明けるようにオラトリオは言った。
「こいびとってなあに?」
「特別に好きで、特別に大切なひとの事だ」
「ふうん…じゃあ、ママとパパは僕のこいびとなんだね」
雑色の瞳を輝かせ、嬉しそうに小さいオラトリオは言った。オラトリオは、思わず笑い出した。
「…何を笑っているんだ?」
キッチンから戻ってきたオラクルが、不思議そうに問うた。小さいオラトリオもきょとんとしている。
「嫌…ちびすけはほんと、お前そっくりだよな」
「…何処が?」
「可愛いとこ、全部」
オラトリオの言葉に、オラクルは幽かに頬を赤らめた。
「それより、お土産があるぜ」
オラクルに軽くウインクしてから、オラトリオは言った。小さいオラトリオを自分の膝に座らせ、隣に腰を下ろしたオラクルの肩に腕を回して。

オラトリオの『お土産』は、監査で行った街の風景だった。中世の面影を残す美しい街並みが、リアルな臨場感と共に再現される。
「このおっきなお家、なあに?」
「パパが監査で行った大学だ。正確には付属の研究所が監査対象だったんだがな」
大学の建物は、元々は城だったのだと、オラトリオは説明した。
「しろってなあに?だいがくってなあに?それから、えっと…」
小さいオラトリオの旺盛な好奇心に、オラトリオは軽く笑った。オラクルも優しく微笑して、我が子を見守る。
「ちびすけにはまだ判んねえだろ。もっと大きくなったら詳しく説明してやるぜ。それより…」
言って、オラトリオは軽く指を鳴らした。と同時に場面が変わる。
「うわ…これ、遊園地じゃないか」
「ゆうえんち?」
小さく歓声をあげたオラクルを、小さいオラトリオが見上げる。
「ちょうど、祭りの時期だったんだ。で、移動遊園地が街に来てた」
「ママ、見てー。お馬さん」
メリーゴーランドを指差して小さいオラトリオが言うと、オラクルは期待のこもった眼差しをオラトリオに向けた。
「乗ってみたいか?」
「うん」
「乗りたいー」
オラトリオの言葉に、オラクルと小さいオラトリオは殆ど同時に答えた。二人から期待に満ちた瞳で見つめられ、オラトリオはこそばゆさを覚えた。
オラトリオがもう一度、指を鳴らすと、ディスプレイの中の風景が、<ORACLE>いっぱいに展開された。オラトリオは小さいオラトリオを抱き、オラクルの手を引いてメリーゴーランドに歩み寄った。一旦、『息子』を下に降ろし、オラクルに手を貸して白馬に乗せる。それから小さいオラトリオを抱いて、隣の栗毛にまたがった。
「二人とも、しっかり掴ってろよ」
「わあー、すごーい。動いたー」
メリーゴーランドが動き出すと、小さいオラトリオは歓声を上げた。
仮想の遊園地で、『親子』は三人だけの祭りを楽しんだ。小さいオラトリオが遊び疲れて眠ってしまうまで。


――この幸せがいつまでも続けば良いのに…


ささやかな望みを打ち砕く報せは、無味乾燥な文章番号を付した電子データとして、<ORACLE>にもたらされた。小さいオラトリオが生まれて6年後の冬の事だった。
<ORACLE>の規模拡張が決まり、それに伴って、新しい防御システムの構築が決定された。オラトリオは<ORACLE>の守護者では無くなると、宣告されたのだった。そして、必要の無くなったオラトリオは廃棄処分に付される__

全ては決定済み事項だった。
オラクルにもオラトリオにも、反論は赦されなかった。

正信たちは、廃棄処分を止めさせる為、全力を尽くした。が、信之介が亡くなった時、オラトリオの所有権は<ORACLE>管理機構に移されていた。オラトリオを造ったのが信之介でも、A−NUMBERSロボットはT・Aの研究成果であって、私有財産では無いのだ。
廃棄するのなら引き取るとの正信の言葉に対する管理機構の答えはこうだった。
ボディのみの譲渡にならば応ずる。但し、プログラムの全面的な消去を前提条件とする。理由は機密保持の為。オラトリオは<ORACLE>の機密を知り過ぎているから…


「オラクル様…」
その日、エモーションはオラクルに呼ばれ、<ORACLE>を訪れた。<ORACLE>のシステム変更は機密事項だったが、オラトリオが廃棄処分にされる事は、正信やみのるから聞いて知っていた。
「来てくれてありがとう」
静かに微笑んで、オラクルは言った。こんな時にどうして微笑む事が出来るのか、エモーションには判らなかった。
「お願いがあるんだけど…聞いてくれるかな」
「…私に出来る事でしたら…」
オラクルは軽く頷き、続けた。
「小さいオラトリオを、君に育てて欲しいんだ」
「__!オラクル様、それは__」
それが何を意味するのか、エモーションにはすぐに判った。手を上げて、オラクルはエモーションの言葉を遮った。
「小さいオラトリオは、<ORACLE>(ここ)から出られない…。だからプライヴェート・エリアに、小さいオラトリオの為の空間を造ったんだ。鍵が無い限り、誰も絶対に入れない」

誰も__<ORACLE>の最高位のアクセス権限を持つユーザーであっても、<ORACLE>管理機構のエンジニアであっても。

そう、オラクルは説明した。
小さいオラトリオの存在を知っているのは、オラクルの兄姉たちとオラトリオの姉弟たち、それに正信とみのるだけだ。子供の誕生を否定的に捉えられ、奪われる事をオラトリオとオラクルは恐れていたから。
「でも…せめてオラクル様だけでも…」
エモーションの言葉に、オラクルは首を横に振った。
「状況を総合的に判断するとね、数年後には私も停止させられる事になるだろう。新しいシステムにリプレースされて。それを話したら、オラトリオも納得してくれた」

今、共に逝く事を

「小さいオラトリオを連れていくのは可哀相だから…私たちのお願いを聞いてくれないかな」
静かに微笑んだまま、オラクルは言った。差し出された小さな銀の鍵を、エモーションの震える手が受け取った。












「__もう…いない…?」
聞かされた言葉を、少年は繰り返した。
「どうして?僕にはお父さんとお母さんがいたのに、今はもう、いないってどういう事?」
少女は、きつく奥歯を噛み締めた。そうでもしなければ、泣き出してしまいそうで。
停止に先立って、オラクルは小さいオラトリオの記憶を消去したのだ。事実を受け止めるには、小さいオラトリオは余りに幼すぎるから…と。そして、時が来たら、伝えて欲しいとも。
「…あなたのお父様とお母様は__」
「良い子にしてたら会える?僕、二人に会いたい」
まっすぐに見つめられ、訴えるように言われて少女は言葉に詰まった。
「僕、良い子にしてるから。もう、お外に出たいなんて言わないし、何でも言う事を聞く。だから、お父さんとお母さんに会わせて」
何も言えず、少女は少年を抱きしめた。

誰も恨まないで__伝えて欲しいのは、それだけ

今は、とても伝えられそうに無いと、少女は思った。あれから、僅か2年の月日が流れただけだ。少年は、まだ幼すぎる。そして、思い出が、鮮やか過ぎる。
「…どうしたの…?」
いつかは、伝える日が来るだろう。最期のその時まで、穏やかに微笑んでいたひとの事を。幽かに無念そうな色を浮かべ、傍らで見守っていたひとの事を。
自分の最期を看取って欲しいというのが、オラクルのオラトリオへの最後の望みだった。それが、守護者としての最後の仕事になるのだ…と。オラクルは、自分が停止してもシステムに重大な損失が出ない様、出来るだけの準備をしていたのだ。
オラクルの用意した全てが正常に機能する事を確認してから、オラトリオは自らを停止させた。
「ねえ…エル?」
「__ごめんなさい…」
けれども、今はとても伝えられそうに無い。人間の身勝手でささやかな望みも幸福の全ても奪われた二人が、それでも課せられた仕事は果たしきった。その二人の気持ちを伝える事など、とても出来そうに無い…
「ねえ…泣かないで、エル。エルってば…」
一生懸命になって自分を慰めようとする少年を、少女はあらためて強く抱きしめた。




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コメント
2000のキリを踏まれたつかささんに捧げるリク小説です。
「親子酸素の、停止するまで」と「停止後に、子供がどうなったのか」
何だかとっても不幸になってしまいました;
いつの日にか、小さいオラトリオが幸せになるのを祈るだけです(って、作者が無責任な;;)