忘れてしまった幼い自分



「ではそのうちはシスイという人が、あなたに忍術を教えたんですね?」
尾獣探しの旅の途中、立ち寄った鄙びた温泉宿の一室で、濡れた手拭いを干しながら鬼鮫は聞いた。
「ああ…。初めて術を覚えたのは3歳の時だ」

浴衣の襟元を緩め、洗い髪を下ろしたままの寛いだ姿で戸外の闇を見つめたまま、イタチは言った。
二人にとって野宿は何の苦にもならないが、この人気の無い宿を二人とも気に入っていて、もう一週間も逗留している。
イタチの幻術の力があるので周囲の人間を欺き、不審を抱かせる事無く宿を取るのは容易いことだが、それでも周りに居る人間は少ないに越した事は無い。

「3歳ですか?それはまた、随分と早い」
「シスイは俺の母に懸想していた。家に来る口実が欲しくて、俺を利用したのだ」
鬼鮫は尖った歯を見せ、にやりと笑った。
「自分が何をしたのかに気づいたら、シスイはさぞ後悔したでしょうね」
「さあ…。どうかな」
「でも利用されていたと気づくまでは、あなたはシスイを__」

慕っていたのでしょう?と聞きかけて、鬼鮫は口を噤んだ。
寡黙なイタチは暁の他のメンバーとは殆ど口を利かない。
自分だけが唯一の例外なのだが、それでも遠慮はある。
初めて会った時にイタチが何者であるかに気付き、それに気づくことで自分が何者であるかを知った。
その場でイタチに従う決意をし、以来、イタチの気に障るような言動は慎んでいる。

「『実の兄のように慕っていた』と、周りの者たちは言っていた。俺は養父母に懐かなかったから、尚更、シスイを慕っているように見えたのだろう」
「養子だったんですか?それは初耳です__まあ、ある意味、実子でないのは当然の事ですが」

人の近づく気配に、鬼鮫は口を噤んだ。
宿の者が襖の外から声をかけ、鬼鮫は運ばれてきた酒と肴の盆を受け取る。
鬼鮫はイタチが座っている籐椅子の向かいのテーブルに盆を置き、自分はテーブルの側に胡坐をかいて座った。
イタチの杯に酌をし、それから自分の盃を満たす。

「…俺を産んだ女は、サスケの母親の双子の姉妹だった。7歳でアカデミーを卒業した俺は、サスケの護衛役となるべく当主の家に引き取られた」
唇を湿らす程度に酒を口に含んでから、イタチは言った。
その視線はずっと外の闇に向けられたままだ。
鬼鮫は軽く肩を竦めた。
「人間というのは勝手な事をする生き物ですね。いくら当主の跡継ぎが大事だからって、幼い子供を母親から引き離すなんて」
鬼鮫の言葉に、イタチは軽く笑った。
「お前らしくも無い」
「…私は捨子でしたから、親の愛というものに幻想を抱いているのかも知れません」
闇から視線を転じ、イタチは改めて鬼鮫を見た。
その整った貌(かお)には殆ど表情が現われていなかったが、鬼鮫は幾分かの決まり悪さを感じ、酒を呷った。
イタチは暫く黙ったまま鬼鮫を見ていたが、やがてまた外の闇に視線を転じた。

------今日からお前は俺たちの息子だ
------あなたの弟のサスケよ。可愛がってあげてね

覚えているのは、差し伸べられた手を振り払った時の養父母の困惑した顔。
急に泣き出した『弟』の泣き声が煩わしかったこと。
泣き止んだ後の笑顔は、もっと厭わしかった。

「…俺の母は、父親の定かでない子を産んだ事で、一族から白い眼で見られていた。その子が優秀だと判れば、取り上げるのは当然だ、と」
「それは……」
酷い、と、鬼鮫は声に出さずに言った。
「本当の事を言えば、彼女は非難を免れただろう。そして彼女が真実を告げていれば、俺は生まれる前に殺されていた筈だ」
「あなたを護りたかったんでしょう。父親が何者であれ、自分の子なんですから」
イタチは硝子に映った鬼鮫を見、僅かに口の端を上げた。
「幻想だな……」

------あの子を殺して。お願い、あの子を殺して……!

今も鮮やかに覚えているのは、狂ったように叫ぶ女の姿と、それを宥めようとする別の女の恐怖に満ちた顔。
立ち聞きしてしまい、その場から逃げるように駆け出した幼い自分の姿が、他人の姿を見るように脳裏に浮かぶ。

------大丈夫、心配しないで。私が護ってあげる。私が護ってあげるから……

後を追ってきた別の女は幼い自分を抱きしめて、繰り返し、そう言った。
今もその時の光景は鮮やかに覚えている。
だがその時に何を感じ、何を思ったのかは思い出せない。
ただ覚えているのは、自分を護ると言った筈の女が、懐きもしない養子の為に結局何もしてはくれなかった事だけ。

「俺を産んだ女も、その幻想に取り憑かれていた。だが俺を取り上げられると決まった時に、却ってそれまで抑えていた恐怖が噴き出したのだろう」
「恐怖…ですか?」
「俺を殺そうとして錯乱し、座敷牢に閉じ込められた。死んだのは、3日後だ」
イタチはそれだけ言うと口を噤んだ。
鬼鮫は続きを促すことも無く、黙って盃を重ねた__里にいた頃の記憶など、いくら辿っても無意味だと判っているから。






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