「ただいま、イルカ先生」

にっこりと微笑んで言った男の言葉に、俺は殴ってやりたい衝動を何とか抑えた。
それに__血の匂いに__気づいたから。
俺はあの男の手を引いて部屋に入らせ、ベッドに座らせた。

「服、脱いで下さい」
「大胆ですね、イルカ先生。まだ昼間ですよ?」

へらりと笑った相手を無視して、俺はベストのファスナーを下ろした。
アンダーも脱がせると、いい加減な巻き方をしたサラシに血が滲んでいる。
胸と、それに脇腹。
高々Aランク任務だったのに。
俺は、情けない気持ちになった。

「…やっぱり気づいちゃいました?」
「当たり前です。こんな------酷い……」

予想以上の傷の深さに、俺は思わず呻いた。そしてすぐに後悔した。
この男は自分が怪我をした時に、俺が心配したりうろたえたりする、その反応を楽しんでいるのだ。
だからわざと碌に止血もせずに俺の前に現われる。
そんな事までして、俺をからかいたいのか?
こみ上げてくる感情は憤りと悔しさと嫉妬とがごちゃ混ぜで、俺は苛立った。

「こんな酷い怪我をしてるのに、どうして__」

まっすぐ帰ってこなかったんですか?__その言葉を、俺は何とか噛み殺した。
任務は予定通り終了し、全員が昨日のうちに帰還した事は知っている。
この男だって、俺が伊達に受付に座っている訳じゃ無いことは判っている。
判っていて、わざと寄り道をするのだ。
だから俺も、知らないフリをして芝居に付き合う。

「どうして…先に病院に行かなかったんですか?」
「少しでも早くイルカ先生に会いたかったからです」

躊躇いも悪びれもせず、その男は言った。
ご丁寧に、「予定より帰りが遅くなってしまったから」とまで言い添えて。
俺は黙って戸棚から医療キットを取り出した。
傷口を消毒し、きちんと包帯を巻きなおす。

「それに…俺、病院ってあんまり好きじゃないんです。イルカ先生以外の誰かに身体を触られるのもイヤだし」

白々しい。

「この傷は縫わないと駄目ですよ。俺も付き合いますから、今から病院に行きましょう?」

別にこの男の傷などどうだって良い。
だが破傷風にでもなられたら、世話をしなければならないのはこの俺だ。
厄介ごとは、未然に防ぐに限る。

「だったらイルカ先生が縫って下さい。俺、麻酔の効かない体質だから、医者に縫われると痛いんです」
「俺が縫ったって痛いのは同じでしょう」

そう言いながら、俺は逆らえないのは判っていた。
あの男は綺麗に微笑み、俺の首に腕を回した。

「イルカ先生だったら、良いんです。何をされても平気だから」

だったら、その腹をかっさばいてやろうか?
俺は白い腹が裂けて、臓器がはみ出している様を思い描いた。
血まみれの腸をはみださせながら、この男は笑っている。
情交の時のように、恍惚とした表情で。

「……病院に行きましょう。お願いですから」

吐き気がして、俺は視線を逸らせた。
無意識のうちに拳を握り締め、爪が手のひらに食い込む。

こんな怪我をしている癖に、昨夜は他の男に抱かれたんだろう?
朝までやりつづけて獣のように眠って、目が覚めたから俺の所に戻って来たんだろう?

口に出来ない言葉が俺の頭の中に木霊する。
良いように利用されて踏みつけにされて。
それでも抗えないのは、判っている。

「…イルカ先生?ねえ、そんな辛そうな顔しないで下さい。見た目だけで大した怪我じゃ無いんです」
だって痛くもなんとも無いし__そう言ったあの男を見た俺の目は、さぞかし虚ろだっただろう。
「病院に行って下さい__俺の為に」
「…判りました。だからそんなに心配しないで。本当に、大した怪我じゃ無いんですから」

俺はあの男と連れ立って家を出た。
病院に着くまでの間ずっと、あの男の身体を切り刻む自分を夢想しながら。



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