「また、イルカを待っているのか?」
イルカが退院してからそろそろ二ヶ月が経とうとしていた。
アカデミー正門前でアスマに声を掛けられたカカシは、手にしたイチャパラから眼を離さず、答えもしなかった。
「深草の少将ってのはあれだろ。東の島国の昔話か何かで、惚れた女から百夜通ってきたら想いを受け入れると言われて、結局99夜目に大雪で凍死しちまったって奴」
「それが、何?」
アスマは紫煙を吐き、続けた。
「少将がどうして後一日って所で死んじまったのか、それも知ってるか?」
「橋が壊されてたからでショ?」
「お前、自分で橋を壊してるぜ」
アスマの言葉に、カカシはイチャパラから眼を上げ、相手を見た。
「或いは橋がそこにあるのに、敢えて渡ろうとしないか」
「……何が言いたい?」
「お前は答えを知りたいと言いながら、それを聞くのが怖いんだろ?だから、わざとピントのぼけた聞き方しかしない」
カカシは暫く黙っていた。
それから、口を開いた。
「初め深草の少将の話を聞いた時、馬鹿な男だと思ったよ。女なんて幾らでもいるのに。しかも俺にその話を聞かせたのが遊郭の女郎だったから、尚更バカバカしいと思った」
アスマは黙って煙草をふかし、カカシが続けるのを待った。
「その遊女が言うにはね、馬鹿なのは相手の女の方だって。つまらないプライドに拘って、自分を想ってくれる男を喪ったのだからって」
「…そうだな」
短く、アスマは言った。
カカシはイチャパラを閉じると、アカデミーに向かって歩き出した。

「カカシ先生。どうされたんですか?こんな時間に、こんな所で」
カカシが職員室に行った時、イルカはちょうど帰り支度をしているところだった。
「アナタを迎えに来たんです。一緒に帰ろうと思って」
偶然を装うのを止め、カカシは言った。
イルカは幾分か怪訝そうな表情を浮かべたが、「ちょうど仕事が終わったところですから」と、笑顔で応えた。
二人は一緒に定食屋に入り、食事をした。
食事をしながらイルカが聞くのは、いつも通り7班の子供たちの事だった。
カカシは何十回も繰り返された問いに、辛抱強く答えた。
「今日はアナタに話があって誘ったんです」
食事が済むと、カカシは言った。
「はい。何でしょう?」
「これからアナタの家まで行っても良いですか?」
イルカは時計を見、それから手帳をチェックした。
そして、今夜は別に予定はありませんからどうぞ、と答えた。

広くも無いイルカのアパートは、至る所にメモが張ってあった。
イルカはカカシにお茶を出すと、持ち歩いている手帳を見ながら壁に貼った行動予定表を埋めていった。
「済みません、お待たせして。ええと…確か何か俺にお話があるんでしたよね」
店を出て暫くすると、イルカはカカシの言葉を忘れてしまっていた。それでカカシは、イルカのアパートの前で改めて話があると、告げたのだった。
「ええ。アナタに聞いてほしい事があります」
「はい。何でしょう?」
「アナタが、好きです」
カカシの言葉に、イルカはすぐには答えなかった。
躊躇い、それから笑顔を見せた。
「有難うございます。俺も、カカシ先生のこと、好きです」
「そういう意味じゃなくて」
心臓の鼓動が早まるのを感じながら、カカシは続けた。
「アナタの事を、恋愛の対象として好きなんです。俺と、付き合ってください」
「……申し訳ありませんが」
イルカは好きだと言われた時よりも長く躊躇い、それから困惑気な微笑を浮かべて言った。
「あなたのお気持ちには応えられません」
「…何故?」
「俺にはもう、大切な人がいますから」
カカシは息を吸い、吐いた。
「それは、誰ですか?」
イルカは、幽かに眉を顰めた。
「アナタのプライヴェートな事に立ち入る積りはありません。答えたくなかったら、答えなくても構いません。ただ、俺は……」
「…申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません」
言って、イルカは苦笑した。
「それが誰だったのか、覚えていないんです」
どくりと、心臓が脈打つのをカカシは感じた。
「…誰だったか覚えていない人の為に、アナタは俺の想いを拒否するんですか?」
「カカシ先生には申し訳ないと思います。でも__」
「本当に、それだけが拒絶の理由なんですか?俺を愛せないのなら愛せないと、はっきり言って下さい」
イルカは答えず、口篭った。
そして、視線を落とす。
「もしアナタが俺の事を気遣っているなら、アナタのその症状のせいで俺に迷惑をかけまいとしてくれてるなら、それは却って残酷です。アナタが任務で大怪我を負ったと聞かされた時、俺がどんな気持ちだったか、アナタに判りますか?」
「……カカシさん……」
「アナタが任務に出る前に、俺はアナタに告白していたんです。そしてアナタは、任務から帰ったら返事をすると約束した。その時の、今ではなくその時のアナタの返事を、俺は聞きたいんです」

イルカはすぐには答えなかった。
ただ漆黒の瞳でカカシを見つめ、それから再び視線を逸らした。

「約束を守れなくて申し訳ないと思います。でも…本当に覚えていないんです」
「嘘だ。医療忍の話では、脳に傷を負う以前の事は覚えている筈だと__」
「例え覚えていたところで、それが何になるんですか?今の俺は、あの時の俺では無いんです」
カカシは思わず、イルカの腕を掴んだ。
「だったら、どうして大切な人がいるなんて言ったんですか?」
「そう言えばあなたを傷つけずに断れると思ったから……」
カカシの手から、力が抜けた。
「……どうしても、アナタは俺を愛してはくれないんですか……?」
「…済みません」
「どうして、謝るの?俺が勝手にアナタに入れ込んだのだから、アナタはむしろ迷惑でショ?」
自嘲めいたカカシの言葉に、イルカは眉を顰めた。
そして暫く躊躇い、それから口を開いた。
「…俺は、あなたが好きです。一緒にいると楽しいし、憧れてもいます。この気持ちがずっと続けば、あなたに恋をするようになるかも知れない」
「…イルカ先生…?」
「でも、俺の記憶も感情も10分と持たないんです。あなたを愛しいと思ったとしても、その場ですぐに忘れてしまう」
だから、と、イルカは続けた。
「俺は、あなたの想いには応えられません」
カカシは、イルカから手を離した。

意識不明のイルカをじっと見守っていた時の不安と哀しみが蘇る。
イルカの気持ちを尊重したくて時間を掛け過ぎたと、臍を噛んだ。
強引にでも想いを遂げてしまえば良かったと、何度も後悔した。
そして、イルカが目覚めてくれさえすれば、何を失っても構わないと思った。
だが、引き換えに失ったものは、余りに大きかった。



「…お茶、冷めてしまいましたね」
やがて、イルカがぽつりと言った。
カカシは答えなかった。
イルカは困惑気に眉を顰め、それから言った。
「あの…聞いてもいいですか?どうしてうちにカカシ先生がいらっしゃるのか」



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