その日もカカシは偶然を装ってイルカに声をかけ、一緒に食事でも、と誘った。
そして二人は一楽のカウンターに、並んで腰を降ろした。
「俺は塩ラーメンとビール。イルカ先生は?」
「俺は__あ…ちょっと済みません」
言って、イルカはそそくさとカバンから手帳を取り出した。
ページを開き、何かを書き付ける。
「毎日の出来事を細かくメモするよう、医者に言われてるんです。でもメモを取らなければならない事自体を忘れてしまって…」
だから、と言って、イルカは左手をカカシに見せた。
手の甲に、「見聞きしたこと、思った事を細かくメモに残せ」と書いてある。
こうやってイルカ先生が説明するのを聞くのは、何度目だろう__内心の苛立ちを抑え、カカシは微笑した。
「○月×日。カカシ先生と一楽で夕飯。味噌ラーメンと餃子を注文__まるで子供の日記みたいでしょう?」
照れくさそうに笑って、イルカは言った。
「部屋中にメモや行動予定表を張ってありますし、時計もこれに替えたんです」
言って、イルカはまだ新しい腕時計をカカシに見せた。
「その一つ一つが、アナタにとって大切な事なんでしょうね」
「お陰で、一日が一日らしくなってきました」
「一日が一日らしく…?」
鸚鵡返しに、カカシは訊いた。
「俺の記憶は10分と続かないんです。昔の事は覚えているけど、新しいことが覚えられないから。だから気がつくと朝で、気がつくと昼で、気が付くと夜。その間に、時間の連続性が無いんです」

それが一体どんな感覚なのか、カカシは想いを馳せた。
あるのはただ、古くなって行くばかりの以前の記憶。
細切れの、その場で消えていってしまう現在。
決して来ることの無い未来。
手がかりになるのは、書き残された『記憶』だけ。
そうやって時の流れから取り残され、ある朝、目覚めたら、年老いた男が鏡の中から見つめ返してくるのだろう。

アナタは、たった独りでそれに耐えているんですか?

「でも、このメモのお陰で昼の前にはちゃんと朝があって、今日の前にはちゃんと昨日が__あれ…?俺、昨日もカカシ先生と夕飯ご一緒でしたね。一昨日も…その前も」
遡って手帳をめくりながら、イルカは怪訝そうな表情でカカシを見た。
「…そうです。俺が、誘ったんです」
「そうですか。それは……」
イルカは、最初まで手帳をめくった。
イルカが詳細なメモを残すようになってからずっと、カカシはイルカを夕食に誘っていた。
例外は、任務で里を離れた時だけだ。
「それは…あの__」
「はい。塩と味噌、お待ち」
テウチの言葉に、イルカは手帳を閉じ、カウンターに置いた。
「餃子もすぐ焼けるからね」
「うまそうだな〜」
嬉しそうに言って、イルカは割り箸を折った。
テウチに声を掛けられた時に、それまでの会話を忘れてしまったのだ。
カカシは内心で、罪も無いラーメン店主を呪った。



「今日はどうも有難うございました。ご馳走にまでなってしまって」
食事の済んだ後、カカシはイルカをアパートまで送って行った。自分の家も同じ方向で、ついでだからと、いつもの嘘をついたのだ。
「また…誘っても良いですか?」
「勿論です。次は俺に奢らせてください。じゃあ、えっと……今、約束してしまったほうが良いですよね?」
イルカの言葉に、カカシは迷った。
約束をすれば、イルカの時間を束縛できる。
そしてそれを繰り返せば、いつかイルカの手帳はカカシとの約束で一杯になるだろう。
だが、それにどんな意味があるのだろう?
イルカの手帳は既にカカシと一緒に食事をしたという記録で埋められている。
だがイルカが怪我をする前の記憶の空白は、埋められないままだ。

「…俺は急な任務が入ることもあるので、約束はしないほうが良いでしょう」
「そうですか…。では、今日は有難うございました」
「イルカ先生」
踵を返そうとしたイルカを、カカシは呼び止めた。
「アナタに聞いてほしい事があります」
「はい。何でしょう?」
「アナタが、好きです」
カカシの言葉に、イルカはすぐには答えなかった。
躊躇い、それから笑顔を見せた。
「有難うございます。俺も、カカシ先生のこと、好きです」
「そういう意味じゃなくて」
無意味だと思いながら、カカシは続けた。
「アナタの事を、恋愛の対象として好きなんです。俺と、付き合ってください」
「……申し訳ありませんが」
イルカは好きだと言われた時よりも長く躊躇い、それから困惑気な微笑を浮かべて言った。
「あなたのお気持ちには応えられません」
「…何故?」
「俺にはもう、大切な人がいますから」


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